「梁虎城(リャン・フーチョン)……中国から来た不法入国者だよ」
やはりと思った。
「そいつもあんたが殺したのか」
「人聞きが悪い言い方をしないでくれ。争った形跡はなく、不幸な落下事故だった……警察が処理した霜月勤の検死報告書には、そう書かれていた筈だよ。……でも、君はとにかく僕を悪者にしないと気が済まないみたいだから、何を言っても無駄なんだろうけどね」
「用意周到すぎるだろ。上がった死体はあんたの所持品だらけで、一ケ月前にちゃっかり歯医者のカルテまで準備されている……。当のあんたは、すっかり他人になりすまして、地元に戻ってきた。こんなもの、あんたの計画殺人と考えるのが自然だろ。……警察も警察だ、歯医者の証拠捏造ぐらい疑えよ!」
「言っておくけど証拠捏造じゃない。……簡単なことだよ。幸い僕は生れてこのかた虫歯にはならない体質でね。知っているかい? 乳幼児期にミュータンス菌に感染しなければ、人は虫歯になりにくい丈夫な歯になるんだ。そして、その頃に親と頻繁にキスをしていると、菌に唾液感染する。つまり、親に愛されているほうが、子供は生涯虫歯の心配をしないといけないなんて、皮肉だよね。従って、親の愛情を受けなかった僕は、これまで一度も歯医者の世話になった経験がないのさ。……けれど、リャンは当時、虫歯治療をするために、日本へ来ていた。気の毒なことに彼の本国では、ほんの一握りのお金持ちしか歯医者へ行くことができないからね。日本の医療福祉制度は世界最高水準で、僕達はとても恵まれているんだよ。我が国はその恵みを、来日する外国人にまで与えているのさ。本来であれば数ヶ月の滞在で、彼らは我々日本人と同じように、国民健康保険へ加入することができるのだから、在留外国人が歯医者で保険診療を受けるぐらいはそう難しいことではない。けれどリャンは密入国者だった。入国管理局への発覚を恐れていた彼は、あるとき自分から僕に保険証を貸してほしいと相談してきたんだよ。彼は本当に苦しんでいた。だから僕は彼に協力をしてあげたんだ。……まあ、いけないことではあるけどね。虫歯に苦しむ彼を、あれ以上見ていられなかった。ともあれ、これでカルテを提供した歯科医を責めるのは、気の毒だろう」
話を聞けば、ただの人助け。もちろん不法行為に違いないが、それは善意から行われたものだろう。だが、その一カ月後にリャンという密入国者は霜月と百竜ヶ岳へ登り、死体で発見され、カルテが元で霜月が死んだと判断されたのだ。
辻褄が合いすぎる。
……見ていられなかった?
協力してあげた?
違う、これは欺瞞だ。
「免許証は……あれを警察に見せたら、あんたは公文書偽造で捕まるんじゃないのか」
「しつこいね、君も。さっきも言ったけど、あれも本物だよ。若い女性教官の話までしてあげたじゃないか」
「作り話だろ」
「なんなら、一緒にS県の免許センターに行ってみるかい? 僕はセンターきっての問題生だったそうだから、まだ彼女は僕のことを覚えてるんじゃないかな。まあ、そんなことをしなくても、警察で照会にかければ、偽造かどうかは一発でわかるんだけどね」
「ありえない……だってあんたは霜月だ。自分でも認めてるじゃないか。それなのに、なんで別人になりすませている? その免許証はどうやった?」
「買ったのさ、広中正純って男の立場を」
「どういうことだ」
「世の中にはたった一万円で簡単に身分を売ってしまう、哀れな人達がいる。彼らにしてみれば、実態を伴わない戸籍なんていう情報が、自分に実害をもたらさない犯罪に使われることよりも、それを提供することで当面の暮らしが楽になるほうが、ずっと価値がある。リャンが教えてくれたんだよ、そういう人達を紹介してくれる連中の事を。彼らの横の繋がりは、正に平和ボケした善良な日本人の常識を超えている。どうやら我が国の捜査機関は、情けないことに手も足も出ないみたいだね。けれど、所詮は犯罪組織だから、同胞が一人不審死したぐらいで、日本の警察を頼ることはできない。戸籍を売った男も、この先、身に覚えのない賞罰に問われたり、金融機関の予審で落とされて初めて、自分の愚かさを思い知るんだろう……自業自得さ」
狂った男の隠れ蓑になるために、哀れな密入国者は計画的に殺され、生活苦の男は社会における身分を失った。たしかに自業自得の部分はあるかもしれないが、それをこの男が嘲笑っていい筈がない。
「だからって……人を何人も殺して、それであんたは平気なのかよ」
「リャンを殺したことは認めよう。けれど、夏子ちゃんが死んだのは、僕のせいじゃない」
「あんたが母さんを殺したんだ!!」
「何度も言うけど、正当防衛だ。時間をかけて警察ではどうにか無実が認められたけど、お蔭で僕はこの街へ住みにくくなり、大学にも行けなくなって、人生を大きく狂わされた。僕の方こそ被害者だって言いたいぐらいさ」
「適当なことを言うな!」
「それこそこっちのセリフだよ。……言っておくけどね、殺されそうになったのは僕の方なんだよ。包丁で君のお母さんが僕を刺したんだ。脇腹や肩には酷い傷がまだ残っている」
頬に、畳に、俺の服に……ぽたぽたと落ちてくる、生温かい雫。背と顎を反らせながら低く呻きつつ、倒れてきた重すぎる男の身体……霜月勤。この男が、俺の目の前で母に刺されて血を流したのだ。
「やめろよ……よしてくれ……」
全身ががたがたと震える。吐きそうだった。
「刃渡り20センチの包丁で深々と抉られた怪我は、けっして傷が浅くはなかった。両手で押さえても、どくどくとわき腹から流れて出ていく血は止まらず、あっという間に白いTシャツを赤く染め上げ、ジーンズのベルトへも大量に滲み、しかし身の危険を感じた僕は、辛い体に鞭を打って君の家から逃げた。なのに、夏子ちゃんはさらに僕を追ってきたんだ。僕は彼女にちゃんと謝ろうとしたよ。こっちも命が懸かっているから、非がなくても、刺激したくなかったしね。けれど彼女は、隠し持っていた包丁を、また僕に向けた。そして、……けだもの……そう言われたよ」
けだもの! 秋彦に近づかないでっ……!
母の叫び声が、頭の中でこだまする。
俺は首を振った。
「……どうしてだよ」
「何んだい?」
「何にもないのに、ただの主婦が自分より強い近所の男を襲ったりするか? 可笑しいだろ。少なくとも、俺の記憶じゃ、母さんはあんたを信じてた。だから俺の面倒を任せてたんだろ。それを豹変させた背景があるはずだ」
広中は不意に表情を歪めた。笑ったような、苦しんでいるような……皮肉めいた苦笑だろうか。
03
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