『君に溺れる〜side 祥一(下)』


 高機動力な山林警備隊の情報収集能力に感謝をしつつ、祥一(しょういち)と慧生(えいせい)は学園都市線で城西(じょうさい)駅まで戻ってきた。それにしても目撃現場が西峰寺(さいほうじ)ということは、さきほどまでいた『Cappuccino』のごく近所である。
「俺達はすぐ近くにいながら、わざわざ現場から離れて行ったってことだよな」
 空回りぶりに自己嫌悪しながら祥一がぽつりとつぶやくと。
「んだと、てめえっ……すぐ近くにいたくせに、なんで気がつかねえのか。おまけに頓珍漢なところへ連れて行きやがって、お前馬鹿かって言ってんのかよっ」
 目の前を歩く慧生がいきなり振り返り、声を荒げながら噛みついてくる。
「いや、俺はべつに何もそんなことは……」
 茫然としつつ祥一は後悔した。慧生相手にひとりごとや曖昧な感想は厳禁だと、さきほど確信したばかりだというのに、同じミスを繰り返していたのだ。慧生の導火線がどこに存在するかは見付け難く、ひとたび火がつけば、それこそ鼠花火のごとく好き勝手に飛び跳ねて、なかなか収集がつかないのだ、俺の馬鹿……と猛省する祥一だった。
「お前こそ、てめえの父ちゃんの寺だろうがよ。なんでさっさと連絡しねえんだよ」
「西峰寺が峰家所縁の古刹ということは知って貰っているんだな。初代住職善祥(ぜんしょう)によって開創以来、連綿と受け継ぐ歴史ばかりは長くとも、戦後の繁栄そして経済的中間層の増加とともに、他国に漏れず我が国においても個人主義、物欲主義が蔓延し、信仰心を軽視する傾向は日を見るより明らかだ。人々が刹那的な現代生活を送る中で、その心の隙間へ入り込むような、正体の怪しい新興宗教団体が乱立する一方で、情けないことに古来信心されてきた伝統的宗教は、とりわけ地方において荒廃した無人の社寺が朽ち果てていく一方といったありさまだ。西峰寺も例外ではなく、檀家の減少によって収入は目減りし、倒壊寸前であった甘露門の修繕さえ儘ならず、泰陽市より撤去を勧告された時期さえあった。危機一髪でそれを救ったのが、祖父、祥隆(しょうりゅう)住職の機転だったが、現住職の幸恕(こうじょ)は先代の長男であり俺の伯父であって……なんでいるんだ?」
 話しながら祥一は当座の目的地である西峰寺の山門を目の前にして足を止める。
「読み方のわかんねえ漢字ばっかり並べてんじゃねえよ!」
 論点のずれた非難を浴びながら、祥一がその視線を進行方向へ向けると、古い山門の前からは、ほっそりとした姿形が閉じた藤色の日傘を携えて、ちょうど自分達の方に歩いてきた……母の佳代子(かよこ)だった。
「いいところに来たわ。祥一、あなたこれから帰るでしょう? 御夕飯作っておいてくれる?」
 自分の目線ぐらいしかない小柄な背丈と、華奢な体つきに、妹が強くその血を受け継ぐ、男の目を引くような目鼻立ち……ぼんやりとした街灯が照らし出す白いワンピース素材は柔らかで、夜風と佳代子の静かな所作に連動して、ふわふわと自然に揺れ動く。背中まである髪も、夜目にさえ艶やかで、なるほど四十を超えた今でさえ、夜道でナンパされるという本人も自慢も、あながち嘘ではないとわかるが、言っていることはまるで祥一には意味不明だった。
「まず、俺は今とても急いでいるよ。友人の身の安全が掛かっていることなんだ。母さんはこれからどこへ?」
 緊迫感をまるで感じさせない言い方ではあったが、祥一は誠実かつ簡略に、緊急性をもって現状を母親に説明した。
「帰るわよ」
「帰るって言ったの? 帰るんだよね……まあいいや。昨日帰ったときに筑前煮とカレー、それから冷蔵庫のタッパーにゴボウサラダを2ケース入れて……ああ、幸助(こうすけ)伯父さんに渡しちゃったんだね?」
 なんとなく見覚えのある、綺麗に洗った大きめのタッパーを目の前に差し出され、祥一は已むなく受け取った。
「だって、仕方ないじゃない。昨日はお料理教室の先生がインフルエンザでお休みだったんだもの。カレーももうないわよ。このまんまじゃ、今晩は何もなしだわね」
 いかなる正当性によった主張や反論かは不明だったが、祥一は母の返答になぜか自分への非難めいた論調を感じた。
「それなら無理して、伯父さんにおかずを譲ることないじゃないか。まりあは部活?」
 料理教室以外で自分が作るという発想は微塵もないのか……、それ以前に、幸助には料理洗濯が出来る妻がいるのであるから、妹の佳代子がなぜ幸助宅の食生活へ介入する必要があるのか、云々……といった基本的な突っ込みを敢えて避ける祥一には、己が峰家の女家族にどうしようもなく甘いという自覚が充分あり、それを改めることは未知の体験であって、極めて困難だった。
「そんなことしたら、兄さんが凜子さんの手料理を食べることになるじゃない。冗談じゃないわ」
 まりあの所在について回答はなかったが、この際重要なことでもなかった。そして、「そんなことをしたら」と佳代子は能動的に反駁したが、言葉の意味するところとしては、「帰省した息子が、家事をしない母親に代わって、家族の為に作り置いた食事を、タッパーごと兄の寺へ持って来る」という極めてアクティブなアクションを起こさない、という「行動の否定」とイコールである違和感について、またその行動が持つ必要性のなさについて、祥一は心の中で千回ほど突っ込んでいたが、それを口にする愚かぶりにについても充分に承知していた。理屈の技巧性においては一定の自信を持ちあわせる祥一だったが、峰家の女に冷静な思考や議論はまるきり通用しない。おまけに執念深くひとたび報復が必要となるや、恐るべき行動力を発揮する人達なのだ。絶対敵に回してはいけない生き物だ。税理士の峰優一(みね ゆういち)は、奔放な祖父に付き従う羊のように大人しい男だが、我が父ながら、よくぞ峰家の婿養子なんぞに入ったものだと祥一は常日頃から感心し、同情する。
「わかったよ。……でも、今は急いでいるから、終わったら家に帰るよ」
 祥一が素直に帰宅を約束すると。
「絶対よ。あたしは忙しいんだから」
 佳代子がぷうっと頬を膨らませた。あなたは四十路をとうに通り過ぎている、もはやアラフォーとも呼びにくい世代ですよ……と心で突っ込みつつ祥一は首を捻った。
「帰るんだよね?」
 何か家で用事でもあるのだろうか。
「さっき言ったじゃないの」
「はい……帰宅すると」
 そして、今更期待もしていないが、専業主婦でありながら、家族の為に食事を作る気はゼロであるとも再確認した。
「これから兄さんにメールしなきゃいけないのよ」
 祥一は古びた山門へ目を移す。
「伯父さんは留守だったの?」
「いたわよ」
「また、……帰るなりなぜメール……いや、とにかく気を付けて。母さんは可愛いから、変な男にナンパされないようにね」
「わかってるわよ、生意気ね。これでも母さんは、とてもしっかりしているのよ」
 そう言いながら、間違いなく祥一の最後の一言に気をよくしたらしい佳代子が、手入れの行きとどいた長い髪を揺らしながら、帰路へ向かった。


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