「すげえな、お前の母ちゃん……あんな親、世の中にいるんだな」
「何とでも言ってくれていい、弁解する気もない」
 やれやれと溜息を吐くと、祥一は先に山門の勝手口を潜った。少しあとから慧生が付いて来る。
「僕、ここまで綺麗にスルーされたのも初めてだけどさ、それ以上にお前にちょっと同情したわ。金持ちのボンボンで苦労知らずだろうと決めつけてたけど、お前はお前でだいぶ苦労してんな」
「家事が苦労と思ったことはないから同情は無用だ。それから、母の非礼については、改めて俺が詫びさせて貰う。すまなかったな」
「いやいや、どう致しまして……つうか、お前本当に偉いヤツだな」
「生まれた時からこの環境だからな。それに家事含め身の回りを整えることは、当たり前だと思っている。生活環境の乱れは、やがて精神の堕落に繋がっていく」
「まあウチも母ちゃん仕事してるし、親父は病気だから、炊事洗濯よくさせられたけど、さすがに家出てまでしに帰ったことないけどなあ。お前、崇高すぎて眩しいわ」
「こんばんは伯父さん、祥一です」
 灯りがついている寺務所を除くと、作務衣姿の男が振り返った。
「やあ祥一、……あれ、佳代子なら今帰ったけど。そちらは?」
 住職の峰幸恕こと、叔父の幸助だ。祥一を始め、峰家一族には、得度前の俗名で呼ばれている。七時を過ぎて幸助がここにいること自体が珍しく、それが母の相手をしていたせいだと察せられ、伯父に対して祥一は申し訳なく思う。
「友人の香坂慧生です。わけあって、今案内をして頂いてるところです。母とは今しがた山門で会いました。……その、母がお邪魔していたみたいですみません」
「こんばんは、香坂慧生君。祥一の案内をしてもらってありがとう。……いやいや、平気だよ……不思議なもんだねえ、自分の妹のことで甥っ子に謝られるっていうのは。ところで、何の案内をしてもらってるんだい?」
「実は、ちょっとしたトラブルがあって……その」
 妹のことで甥に謝られるのも不思議だ……いつか、自分も同じような事を伯父に感じたことがあると祥一は思い出し、擽ったかった。そして、簡単に事のなりゆきと、この西峰寺近辺で秋彦らしき人物の目撃情報があったのだと、祥一はここへ来た理由と目的を説明した。話を聞くなり幸助は柔和な表情を引き締める。
「ちょっと待っててね」
 そして庫裡への通用口へ顔を覗かせると、低い会話が聞こえ、若い青年僧と共に祥一達の元へ戻ってきた。祥一は初めて見る役僧だった。
「お探しの方かどうかはわかりませんが、夕方に畑から戻る途中、少し不自然なお二人連れを見かけまして……」
 この春、本山の修行から戻ったという役僧は、彼が目撃した内容を教えてくれた。
 裏山は西峰寺の敷地内になるが、近隣住民の利便性を優先して生活道路としての使用を制限していない。その畑では季節の野菜を栽培しており、西峰寺の精進料理にも使われている。畑仕事を終えた役僧が薄暗がりの中を戻ってくる途中、近隣住民ではない二人連れに出会ったという。
「背は私と変わりませんものの、がしっとした体型の男性が、ほっそりした青年を背負って歩いていたんです。子供ならまだしも、後ろの方は、あなた方と変わらない年格好に思えましたから、どうにも不自然に感じまして……よく見ると背負われている方は意識もないように見えましたもので、私は思いきって声をお掛けしたのです……具合が悪いようなら住職に説明して、休んでいって頂こうかと……ですが、前の男性は、疲れているだけだからと断られ……下山されたならまだわかるのですが、なぜか山を登って行かれました。とはいえ、登った先に住宅地への近道もありますから、一概に可笑しいとも言い切れないのですが。……申し訳ございません。もっと早くに住職へお話するべきでした」
 そう言ってすまなそうに頭をさげる、連善(れんぜん)という役僧に、言っていることももっともだからと幸助は気遣った。
「それって何時ぐらいのことでしたか?」
「一時間ぐらい前だと思います。場所は……」
「大体わかりますから大丈夫です、教えて頂いてありがとうございます」
 頭を下げ、感謝を伝えるや否や、祥一は寺務所を早々に後にした。その後から慧生が駈け足で追って来る。
「聞かないで大丈夫だったのかよ。ここの裏山って結構広いだろうに」
「山は広いけど、西峰寺の畑からここまでの道中だとしたら、大抵わかる……子供の頃、しょっちゅう妹を連れて遊んでいた場所だから。そして裏山は同時に、西峰寺の僧たちが修行に使っている道場でもあるんだ……ここから直接山へ入ることが出来て……香坂、手を貸せ」
 街灯のような小さい明かりもない夕闇のなか、ゴツゴツとした岩場とそれを覆い隠すシダ植物を前に右手を後ろへ差し出すが、それが即座に取られる様子はない。祥一は嫌な予感がしたが遅かった。
「ば、ばかっ……誘惑しようったって、僕には伊織(いおり)というれっきとした」
「勘違いするな。今も言ったが、ここから体力溢れる若い僧が修行に使っている現場へ入るんだ。西峰寺の宗派は我が国でもっとも修行が厳しいと言われている禅宗の宗派で、その道場がここにあるんだぞ。そこらへんの小山みたいに道は整備されておらず、当然足元は極めて険しい。寧ろ、険しいからこそ良い。三百六十五日弛まず日々鍛錬。日常すべからく修行と心得よ」
「わけわかんねえよ、なんでここでマゾ自慢なんだよ」
 崇高な禅宗の精神が、香坂慧生ごときに理解されるとは思わなかったが、言外に話の脱線を指摘されたことに対しては、祥一は少なからぬ恥辱と嫌悪を催したものの、顔には出さなかった。何食わぬ調子で、今度はストレートにこの愚物へ勧告する。
「こんなところでお前に怪我でもされた日には、二次災害もいいところだと言っているんだ。さっさと手を貸せ。嫌なら置いていく」
「か、可愛い僕に対してなんだその言い草は! お前さっきの話は全然そんな風に……ひっ」
「生憎だが、俺には秋彦より可愛い奴なんてい…………難儀な奴だな」
 迷わずいないと言いかけて、妹は別だと即座に気付き、躊躇している一瞬のうちに、目の前で小柄な慧生が岩の隙間に落ちていた。
 ここに置いていけば余程スムーズに事が運ぶと魔が差したが、些かの人道的見地と、寺の親族という立場による多少の引け目と、大いなる外聞の悪さから、そのままにしておくわけにもいかず、仕方なしに足手まといの案内人を救出する。
「こんなことで僕の気を引いたと思うなよっ」
「はいはい、わかったから大人しくしてくれ」
 幸い怪我はないようなので、改めて公言通りに手を引き先を進む。
 シダに隠された暗い岩場を慎重に抜けて、まもなく平らな砂利道へ出る。慧生には「日本一修行が厳しい宗派」などと大見栄を切ったものの、随分あっさりとなだらかな山道に出たものである。
 道の傍らには西峰寺所有の畑があり、もう少し進めば竹林に入って、その先は西陽(さいよう)稲荷神社へ向かう道や、住宅街へと下って行く道に別れている。先ほどの役僧が秋彦達らしき二人連れを見かけたのは、おそらくこの辺りのことだと思われた。ここから上り坂を進んで行ったというなら、西陽稲荷神社や住宅街へ続く道が可能性としては高い。
 見当を付けた祥一はさらに暗がりへと入る竹林への道を進んで行こうとした。
そこで強い声に呼び止められる。


 03

『城陽学院シリーズPart3』へ戻る