「まだ少し湿っぽいんじゃないか?」
「いや、充分だ。……本当に世話掛けた。ありがとう、これ返したいんだけど、祥隆さんどこだ?」
 トイレで自分の服に着替えた俺は、通路で待っていてくれた峰に、彼の祖父から借りていた白いジャケットを掲げながら居場所を訊いた。打ち上げ会場に使われていた個室は、いつのまにかお開きになっており、明かりも消えていた。見たところ、店内に知っている顔が残っているようにも見えなかった。
「俺が預かろう。祖父さんに話もある。ついでに精算も済ませて来るから、お前は先に出てていいぞ」
 そう言って服を奪われる。肘まで袖を捲っていた腕に、一瞬触れた指先がひんやりと冷たかった。
「ああ、すまん。……っつうか、打ち上げってタダじゃなかったっけ」
 峰を見送りつつ、俺は首を傾げる。
「経費から足が出たみたいだな。みんなケーキだのカクテルだの、予定にないもの物好き勝手に頼んでたから」
「頼んだ奴から徴収しろよ……」
 とはいえ、そのケーキを貰った立場としては、強くも言えない。
 それに、エドゥはともかくケーキはさすがにミユキさんが責任持って払ってくれるような気がした。ともあれ、もしも俺達の支払いもあるようなら、あとで戻って来た峰に確認の上、精算し直すことにして、ひとまず峰を見送る。
 あれから、再び妹との長い通話を終えて戻って来た峰は、俺をトイレの個室へ連れて行き、自分は洗面台でシャツとデニムに染みついた汚れを洗い落してくれていた。濃いピンク色のカクテルは結構な面積に広がっており、何度も手洗い用の洗剤を擦りつけて、長々と洗面台を占領していたようだった。人一倍肌が弱い彼に、そんな真似をさせたことが申し訳なかった。その後また、長い間乾燥機を使う音が聞こえ、扉がノックされたのは裕に二十分以上もあとのこと。身に付けた衣類は、まだ生乾きと言ったところだったが、それでも充分有難かった。峰の心遣いが、心底胸に沁みていた。
 混雑しているレジ前を振り返りつつ、扉を押して外に出る。時計はすでに八時を回っていた。ひんやりとした夜風を頬に感じて、思わず肩を竦める。四月といっても、まだまだ朝晩は寒さが残る。
 ふと、スラリとしたシルエットに気が付き、目を瞠る。
「あれ、佐伯?」
 呼ばれて振り向いた、少しばかり懐かしい面が、微かな驚きとともに笑顔に変わった。
「原田君……あれ、ひょっとして中にいたの?」
「うん。ひょっとして佐伯も?」
 どうやら共に同じ店内へいたにも拘わらず、互いに気付かずじまいだったらしいと判明した。
 佐伯初音(さえき はつね)は、この3月まで城南(じょうなん)女子学園高校に通っていた同い年だ。春から女子大へ進学したと聞いているが、どうやら今夜は新しい仲間と過ごしているようだった。春までの彼女であれば、その隣には同じオカ研の山崎雪子(やまざき ゆきこ)や一歳後輩の小森(こもり)みくがいて、こういうとき、彼女が一人で他の仲間を待っているという光景は考えにくい。
そういえば、店内には新歓かコンパらしきパーティーを開いている賑やかなグループが幾つかいたことを思い出す。その中のどこかに、佐伯も参加していたのだろう。
 とりとめのない話を佐伯と交わし始めた途端、また入り口のドアが開く。そして現れた背の高い痩身のシルエットを確認して、レジ前で大して時間をかけることもなく、相方が合流したことを知る。
「遅かったじゃん」
「待たせたな。……よお」
「あ」
 佐伯に気が付いた峰の呼びかけに、佐伯も曖昧な返事で応答していた。
「じゃあな、佐伯」
 改めて女友達へ挨拶をして、先に歩き始めてしまった男の隣に俺は並ぶ……ほぼ同時に、財布を仕舞って手が空いた峰から肩を引き寄せられた。もう片方の手もまた空いていることに俺は気が付く。
「あ、ひょっとして中にまだ祥隆さんいたんだ?」
 峰に預けたジャケットが消えていた。挨拶をしそびれたことを俺は少しだけ後悔していた。
「まあな」
 簡素な返事は、どこかぶっきらぼうに聞こえて、俺は首をひねる。不意に抱かれた肩に力が入り、一方へと引っ張られた……歩きながら峰が方向転換を図り、脇道へ入って行った。
「おい、駅に行くんじゃないのか?」
 幅二メートルもなさそうなその道には、乱雑にビールケースやゴミ箱が建物際に並び、道というよりこれは路地だった。まっすぐに駅へ続く道から逸れているので、これが近道とも思えない。
「……」
峰からは返答もない。
「なあ、……みっ……」
 突然足を止めたかと思うと、壁際に背中を押し寄せけられ、口唇を奪われた。わけのわからないキスはとても優しいとは言えず、強く吸われ、舌を絡められる。峰が何を考えているのかわからなかったが、なんとなく抵抗する気にはなれず、俺もキスに応じた。
 肩に置かれていた手が背中を引き寄せ、もう片方の手が湿ったシャツの裾から忍び込み、脇腹をまさぐられる。擽ったくて身を捩ると、今度は首筋に顔を埋められ、強くその場所を吸われた。
「あっ……やっ……峰っ……」
 背筋にゾクリと痺れが走り、高められそうな神経を意識して抑える……こんな状態で、なし崩しにしては自分が許せなかった。俺には彼の気持ちに応える資格がない。
「まだ、だめなのか……?」
 聞こえてきた声は、あまりに苦しげだった。
「こんなところで……出来るわけないだろ」
「ここじゃなかったら、俺の物になるのか?」
「それは……」
 ふと、拘束が緩められた。
「すまん……お前があんまり良いようにさせてるから、ついイラついたんだ……初めて、アイツの気持ちがわかった」
「それって、どういう……」
「なんでもない。ちょっと祖父さんに煽られただけだ……気にしてくれるな。行こうか……」
 一歩身を引いて、峰が左手を差し出してくる。俺はその手を握り返しかけ……ふと思い出した。
「そうだ、峰……これ返さないと。なんか、俺……気付かないうちに盗んじゃってて……」
 ポケットから金属を取り出し、漸く峰に差し出す。それを暫し眺めていた峰は、軽い溜息とともに、自分のポケットを探り出し、黒革のキーケースを開いて見せた。中に同じ鍵が掛かっていた。
「何でもないように、ぶっそうなことを認めるな。……そもそも、それはお前のものだ。……いつでも待ってる」
「え……ああ、そういう……」
 漸く俺はスペアを渡されていたのだと気が付いた。
「まあ、確かにお前は何だかぼんやりしていたからな……覚えていないのも無理はない。メモでも付けとくべきだったな」
「ぼんや……あっ」
 先日、峰のアパートへ連れて行かれた時、夕日が差し込むガランとした部屋で、なんとなく雰囲気に呑まれてしまい、峰と長いキスを何度も繰り返していた。
 そのときも、俺は理性との闘いで精一杯だったが、言われてみると、何かを手渡され、しかもそれを部屋に忘れそうになっていたと帰りに指摘されて、……呆れた峰が恐らく俺の鞄へ押し込んだのだろうと推測できた。
「まあ、今度こそせいぜい失くさないようにしてくれ」
「気を付けます……」
 本日、また鍵を紛失しそうになっていた俺は忠告され、恐縮しながら頷かされていた。こうして、いつのまにやら俺は、峰の部屋の合い鍵を持つことを了承していたのだ。

fin.

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