『呪縛の桜花』(前篇)
寂れた街をうねるように貫くアオガキ川は、薫風に微かな湿り気と熱気を含むことで、早くも夏の到来を報せていた。市内を南北に繋ぐホウライ橋の欄干の固い手触り。アルシオン軍の大空襲を生き延びたこの堅牢な石橋は、橋のそこかしこに飛び散っている不規則な抉れ痕が、それでも戦禍の残酷さを、今なお人々の記憶に刻み続けている。
青く頼りない身体を震わせて、飛び立つ蜻蛉の行く末を数秒で見失うと、秋津瑞穂(あきつ みずほ)はそのまま暫し天を仰いだ。
雲ひとつない澄み切った、マホロバの空。彼方に見える小高いヤチヨ山の稜線が、緩やかに五月晴れを切り取っていた。山の中腹にお祀りされている一心朋友(いっしんほうゆう)観音像の赤茶けた姿を思い浮かべ、最期まで親エスティア派であった父の、厳しくも心優しい横顔を瑞穂は思い出す。否、最期など知るわけはない……会う事すら出来なかったのだから。
「どうかした?」
橋の向こうで若者らしいスラリとした二人が立ち止まり、こちらを向いていた。
「いや、なんでもない……」
瑞穂は応え、小走りに橋を渡りきると、葦原大和(あしはら やまと)の前で足を止める。一歳年下の男は、背丈で秀でる視線を瑞穂に合わせ、端正な面立ちに眉間を寄せた。
「もしかして疲れちゃった? 歩きっぱなしだしな……。真、少し休憩にしようぜ?」
「そうね、少しぐらいならいいけど……」
そう言って前髪を掻きあげる大八島真(おおやしま まこと)の額にも、汗の粒が光っていた。数日前より摂氏三十度に近い気温の上昇を記録している日中は、間違っても爽やかな散歩日和とは言い難い。無論、彼らの場合は暇を持て余して屋外の散策を楽しんでいるわけではないのだが、無意味な体力消耗が得策でないことに変わりはない。結局、一度渡った橋を逆戻りした一行は、ひとときの休息を求めてマホロバ駅前の商店街を目指した。
時は皇世紀二六九〇年。今から十八年前に遡る八月のある日、カミシロ皇国は長きに亘る戦争に終止符を打った。カミシロにとっては、二六六五年に端を発した『エスティア解放戦争』を、終戦とともに進駐してきたアルシオン軍は、カミシロとの間に横たわる大海の名称から、『安息海戦争(あんそくかいせんそう)』と呼んだ。また、カミシロとともに戦った同じ共闘連盟軍の仲間、ドゥーシェやハプシェン、ウィットリアといった西の国々であるユーリアの諸国は、ユーリアとエスティアの名称を結びつけて、『ユーレスティア大戦』と呼んだ。そしてカミシロにとっては、西側先進諸国による植民地支配から、エスティアの同胞達を解放するための聖戦だった筈のこの戦いも、全ての戦争がそうであるように、先勝国によってあとから歴史が塗り替えられることになる。
アルシオン兵を始めとする駐留軍、彼らの言葉によれば、『オーガナイゼイション・フォー・グローバル・ピース』の頭文字をとって、通称『OGP』がカミシロへ駐留を開始した。そしてOGPによって、『ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム』、略称『WGIP』が大々的にこの地で展開されることになる。その一環として、彼らは最初に『エスティア解放戦争』の呼称を禁じて、『安息海戦争』と呼ばせ、そして徐々に戦争の意味を歪めていくことになるのだが、その話は後の機会を待つこととしよう。
ともあれ、カミシロ皇国人である秋津瑞穂(あきつ みずほ)がこの世に生を受けたのは終戦した十八年前の夏のことである。アルシオン軍がカミシロの首都マホロバへ空襲を行って都市機能を壊滅させたのが同じ年、生物化学兵器のT弾を投下したのがその一年前のことだ。それらの空襲でカミシロは総計三十万人の犠牲者を出している。翌年、OGPによるマホロバ軍事裁判が開始され、四年後に元陸軍大将であった瑞穂の父、秋津叢雲(あきつ むらくも)は、スザク拘置所で他の六名とともに絞首刑に処された。この年、瑞穂は五歳であり、兄であり秋津家長男の秋津志貴(あきつ しき)は十六歳だった。父の不名誉にして不幸な出来事は、兄弟の情緒を大きく揺るがせることになる。
翌年、マホロバ府立アオガキ高等学校二年に進級した志貴は、中学時代から続けていた自警団活動を独自の解釈で発展させ、『一心会(いっしんかい)』という名前を冠して、本格的な主権回復活動を開始する。文武共に秀でた志貴は高校を次席で卒業し、マホロバ帝国大学法学部へ進学したが、学風に合わず中退。今はイザナギ市のヨミザカにある古いビルを買い取り、『S&Kプランニング』という名義で会社の代表取締役を勤めながら、多岐に亘る活動を続けている。
活動的な兄の背中を追い掛けて育った瑞穂が、同じ道を進もうとするのは自然の成り行きだった。瑞穂もまた、幼馴染である三歳年上の病院長の娘、大八島真と、マホロバ府立アオガキ高等学校に通いながら、ファッション雑誌でモデルのアルバイトをしている、見目麗しい、もう一人の幼馴染、葦原大和とともに、かつて兄がしていたような自警活動を始めた。自警団に国花と国旗の意匠である『桜花』という名前をつけて、七生報復を誓ったのが、約一年前のこと。そして、ここまで活動拠点としてきたヒノデ町にある、元は農機具小屋だったらしい、持ち主不明の荒屋を追い出され、宿なしとなったのが数時間前のことだ。
町内の身回りがてらに請け負ったビラ配りのアルバイトから帰って来た三人は、待ち受けていた役所の担当者からコンコンと説教をされ、退去を命じられた。ちなみに荒屋は辺り一帯の土地ごとアオガキ市が既に接収しており、市営団地の建設工事が、明日から始まると言う。
新緑に染まったヤチヨ山の稜線を西に眺めつつ、赤砂利を敷き詰められた帝大の銀杏並木を通り抜ける。国内最高学府であるこの大学へは、瑞穂の兄、志貴も一年だけ通っていた。黒ずんだ煉瓦の壁に瑞々しい青さを見せる蔦が複雑に絡み、百年の歴史を刻み続けている塔の頂の時計の針が、狂いのない時を報せる。燦々と日の降り注ぐキャンパスには、教室移動を急ぐ者や、噴水の前で友と議論を戦わせる者、欅の木陰で瞑想に耽っている者など、さまざまな学生の姿が見られた。
有名な赤門を通り抜け、マホロバ駅前通りに出る。ホウライ町という名前の付いたこの辺りは、戦前より賑わった地域だ。市営環状線を挟み、南側にはマホロバ帝国大学や、マホロバ女子医科短期大学など学校施設が多く、北側は国会議事堂や大蔵省、内務省、国防省といった政府機関が多い。また、さらに北には、鬱蒼とした皇居の森がどこまでも続いている。
だが、線路の北も南も駅前周辺ばかりは、ゴミゴミとした繁華街だ。食堂や喫茶店、酒場、八百屋に肉屋、魚屋、金物屋に金貸し屋……、少し裏通りへ行けば、賭博場や連れ込み宿屋と思われる怪しげな看板もちらほらと目に付く。そして、駅前には大抵、酔っぱらったOGPのアルシオン兵や、アグリア人の無頼漢達が多く、事件の発生も少なくない。さらに言えば、駅前一等地の持ち主も、ほとんどが戦後成り上がったアグリア人たちだ。かつてはカミシロ人が先祖代々守ってきたこれらの土地を、戦争で男手を失った遺族たちは、押し入ってきたアグリア人に暴力で奪われ、涙を飲んで手放した。軍を解体され、警察も武装を解かれたカミシロには、そういった哀れな遺族らを守る術もなかったのだ。元はマホロバ生命だった六階建てビルの最上階に本部を構え、眼下に皇居を睥睨し続けているOGPも、駅の向こう側で起きているこれらの惨劇には、まったく無関心だった。
不意に口笛を鳴らされ、瑞穂は振り返る。
「……ちょっとッ!」
ガード下の入り口で二人の女に引っ張られていた真が、焦った顔をしながら、手首に赤いバンダナを巻いた腕を振り回していた。
「立ちんぼか……多いんだよなあ、ここ。だから来るの嫌なんだよ」
短すぎるスカートを履いたアグリア人らしき二人を見て、納得をしたように大和が言った。彼が休憩を所望したために、駅前までやってきたというのに、その言いざまは無責任だろうと思いつつ、瑞穂は呆れて大和の整った横顔を見上げる。どうにか女たちを躱して、二人の元へ早足でやって来る真の顔は、少々焦ったふうに赤い。
「まったく、こっちも女だって言ってるのに……」
憤慨したように真が吐き捨てると、少し解けて端が長いバンダナを揺らめかせながら、目の前に垂れてきた癖のある焦げ茶色の髪を、長い指で掻き上げる。
間違いなく真は二十一歳の成人した女だ。しかしながら、作業用の繋ぎで隠された腕や肩は、瑞穂よりも太く、筋肉が鍛え上げられた胸も女性らしい柔らかな膨らみを見付けることは、服の上からではまず無理だ。身長も、百七十二センチある瑞穂と殆ど変わらない。顔は美人な部類に入るだろうが、化粧をする気はまるでなさそうだ。おまけに声は落ち着いたアルトときている。これだけ揃えば、本人を知らない女に色気で迫るなと言う方が、難しいだろう。
「アグリア人の売春婦だろ?」
「たぶんね。……二人纏めて五十ディールでどうだってさ。あんなお婆さん、タダでも御免よ」
「お婆さんだったんだ……」
大和に応えた真を、瑞穂は茫然と見つめる。今の言い方では、まるで若い娘だったら買ったとでもいうように聞こえてしまう。
「この辺は年増しかいないだろ? 北口の方ならムンファっていう、若くてそこそこ綺麗な立ちんぼがいるけど、……しかし、そういう問題なのか? お前を男だと思って買っちゃった方は、ひんむいてビックリするだろうに。まあ、真の知ったこっちゃないだろうけど……」
そう言って、大和は快活に笑った。真の返答に同じ疑問を思い浮かべた彼は、瑞穂にはデリケートに感じられた質問を、ストレートに彼女へぶつけて、笑っていられるのだ。
「アグリア人に美人なんているの?」
苛立ち紛れに瑞穂は大和へ反論した。
「あんたはまた、そういう乱暴な事を……」
バンダナを器用に片手で巻き直しながら、再び先頭へ立ちつつ、少々呆れているような声を出して、柳眉の間を寄せながら真が振り向いた。こういう表情をするときの彼女の方が、美しい女性に見えるのだから不思議なものである。
だが、アグリア人と言えば全身が深い体毛に覆われ、目尻は凶暴に吊り上がり、大きな鼻孔とパックリ裂けたような口は、まるで大型の類人猿を見ているようだ。男の平均身長は二メートルに届き、女でも百八十センチ近くある。一説によれば、エスティア大陸のミュージャとソヴェティーシュ国境付近の山岳地帯に生息している、野生のサルが突然変異を起こしたか、あるいは獣姦によって二足歩行と会話が可能な子孫が生まれ、アグリア人になったのではないかという、信じ難いようなルーツさえ、まことしやかに語られ、世界中の学者達から真面目に信じられている。そもそもアグリアという名前自体が、アルシオン語で「醜い」という意味であり、アルシオン人達が最初にそう呼び始めたのだという。
瑞穂は考えた。すなわち、アグリア人に美人の女など存在する筈はなく、彼らはただひたすらに醜く、その精神は野蛮に違いない。
「それがいるんだよな。……ムンファはひょっとしたらハーフなのかも知れないけど、身長もお前ぐらいで目鼻立ちもほっそりとしていて、結構美人の売れっ子らしいぜ。それに、お前の兄貴の店で用心棒をしてる、レンってゴツイ野郎の婆さんが、確かアグリア人の元ミス何とかなんだろ? まあ、あの熊野郎を見てたら、とても信じられないけどさ……、ハハハ。そうだ、ちょっとムンファ見てみるか? 客引きを急ぎたい年増の立ちんぼとは違うから、この時間じゃあまだいるかどうかわからないけど、いつも北出口らへんにいるんだ」
「いいって……」
肘をぐいっと引っ張られ、瑞穂は焦る。
帝大を中退して、高校時代からの悪友と、『S&Kプランニング』などという、怪しげな会社を興した兄の志貴は、市営環状線ヨミザカ駅前の商店街で、現在『ティアモ』というキャバクラを経営している。その店頭にはいつも、身長百八十九センチあり、一重瞼で切れ長の目から、視線だけで虎をも殺しそうな鋭い眼光を覗かせ、剃り痕の目立つ角ばった顔立ちをした用心棒が仁王立ちで睨みを利かせている。その名を音信恋(おとずれ れん)という二十五歳の青年は、指名ナンバーワン、ナンバーツーのエーファとクラレッタから、「レンちゃん」と親しまれる一方で、寡黙な気質と、一度キレたら手が付けられない上に、極めて低い沸点を特徴としていた。ロマンティックすぎる名前とのギャップが、幼少のころからの本人の悩みらしいが、大柄な体格と鋭い眼光や、切れたら凶暴な性質こそが、紛れもなく、この男に四分の一だけ流れている、アグリア人の血から来ていることは、誰の目にも明らかだった。このレンの祖母こそが、大和が言うところのアグリア美人であり、首都、セイマ出身の元ミス・アグリアだというが、この話を瑞穂は、よほどレベルの低い競争なのだろうと感じながら聞いていた。だが、少なくとも大和はそうでもなかったらしい。何しろ、アグリア美人の存在を、彼は認めている。
「まあまあ。いるかどうかはわからないけどさ、すぐそこだから。アグリア人はブスばっかりだって思い込んじゃってる、お前の目を覚ましてやるよ」
瑞穂の手首を握り締めながら、次の角でガード下へ連れ込もうとする大和。その先はマホロバ駅北口改札前の広場である。
「必要ないって、やめてよ……ッ」
体格で劣る瑞穂は、その手首を強行に引きながら足を踏ん張るが、どうしても力負けしてしまう。
「どっちもどっち。……まったく、アグリア人だろうとカミシロ人だろうと、女を美醜で語るなんて最低。下種の極みね」
性別は間違いなく女である真はそう言って間へ割って入ると、特に軽弾みな言動が多い大和を睨みつけた。その隙に瑞穂は手を引く。
「自分だって、婆さんとか言っちゃってたろ」
「お婆さんはお婆さんじゃない。私は顔についてどうのこうのと言った覚えはないわよ」
「いや、大して変わんないでしょ。皺苦茶の婆さんだからダメだって話じゃないか」
大和と真が横に並んで歩きながら言い合いを始めた。不意に甲高い声が聞こえて、瑞穂は立ち止まる。五十メートルほど先を歩く二人はどうやら気付かなかったらしく、どんどんと先へ進んでいく。
「決めつけないでよ。っていうか、あんたと一緒にするなっていうの」
「うわぁ、ひでぇ。……じゃあ何が理由なのよ。っていうかさ、年増だとダメで若いといいなんて、見た目以外に何があるっていうんだよ、真サン。寧ろ俺は、女は年上の方がいいけどなあ」
「そう感じるのがどうしてかわからないうちは、自分がガキだってことだけ理解しておくのね……瑞穂、何してるの?」
「もちろん、俺だってアグリア人の立ちんぼ婆さんは勘弁だけど……。あれ、瑞穂どうしちゃったの?」
「今、女の子の悲鳴が聞こえた気がして……」
瑞穂が教えると、大和と真が戻ってくる。
声が聞こえたと思われるガード下には人影がない。百メートルほど続くコンクリートに囲まれた薄暗い通路を抜けて、駅の北側へ出てみる。大和が言っていた、若く見目麗しいアグリア人が客引きに立っているという、マホロバ駅北口前の広場に、件の美女らしき娼婦は見当たらなかったが、さきほど真に声をかけていた中年売春婦の二人連れが、同じアグリア人の男たちと口喧嘩をしていた。男達は、おそらくチーセダと呼ばれ、マホロバ駅周辺を根城にしている、アグリア人のゴロツキだろうかと瑞穂は考えた。
「女の子なんていないじゃない」
すぐ後ろから付いて来た真が言った。
「瑞穂、お前きっと、あれを聞き間違えちゃったんだろう」
そう言って、大和が口汚く罵りあっているアグリア人達を目線で示す。口調に滲む軽薄さが癇に障ったが、相手の男を聞くに堪えない淫語や暴言、人種差別的発言を駆使して罵る言葉の応酬は、大和でなくとも呆れて当然だ。とくに売春婦の口から発せられる発言は、男を性的に辱める類のもので、瑞穂は耳を覆いたくなりつつ、焦って後ろの仲間の様子を窺うが、心配した真は大和と同様、呆れた顔をしているだけだった。
「アグリア人っていうのは、どうしてああも血の気が多いのかしらね」
作業着の逞しい腕を組みながら真が言う。
「そりゃあやっぱり、あいつらが半分ケモノだからだろ。糞、ムンファも今日はまだだな。……まあ、べつにいいかな」
その言葉を受けて、真は大和をすかさず睨み返した。だが、己の無神経な暴言を自覚していない本人に、無言の非難が届く筈もない。
桜花に集う彼らは、少なくとも祖国や同胞を愛する気持ちでは一致しているが、個人の思いや性質は、当然さまざまである。最も年長である真も、強い同胞愛に満ち溢れ、アグリア人の暴力を憎んではいたものの、どうしようもない容姿や真偽の怪しい人種的ルーツをあげつらった差別的暴言は、彼女にとって同時に受け入れ難い対象だった。
しかし、その人種差別をもっとも頻繁に行う民族が、当のアグリア人という点は、それこそ皮肉な事実かもしれない。同じアグリア人同士で対立し、互いをゴリラ女だの、あるいは獣姦の末裔だの近親相姦の息子だのと罵りあう光景は、シュールであり、見るにも聞くにも醜悪で耐え難いとしか言いようがない。
「まあ、ムンファがいい女って言ったって、俺は絶対瑞穂の方が綺麗だと思うんだけどな……」
囁くように大和が言って、瑞穂は肩を引き寄せられる。言葉と共に吐き出された生温かい息が、近い距離で耳にかかり、どきりとして肩を竦めた。
咄嗟に隣の男を振り返ると、自分よりも八センチ高い身長の、大和の整った横顔は、先週オープンしたばかりのファッションビルを見ていた。正確には、大きな女性ブランドの広告を飾る美人モデルを見ていたのだろう。大和とときおり一緒に仕事をしているらしい彼女の名前を、瑞穂は彼の口から聞いた記憶があった。このモデルだけではない。大和の周りに綺麗な女はいくらでもいて、その何人かと大和が付き合っていたことも瑞穂は知っている。
子供の頃から大和は瑞穂を、綺麗だの可愛いだのと褒めそやし、思春期を過ぎた頃からは、色気の出て来た男が意中の女へ接するように、思わせぶりな態度をとってきた。そんな素振りを、ただ鬱陶しいだけだと感じなくなったのはいつからだっただろう。自分にそうするように、あるいはそれ以上の気遣いや優しさを、甘い言葉を、大和は彼女達にとっているのだ……そう考えて胸が疼く。女々しい自分を馬鹿だと瑞穂は誹り、身を捩って男の手から逃れた。そして背後で、微かな苦笑が漏れるのを聞く。
「あいてててッ……。てめぇ、何しやがる……ッ!」
南口へ出るガード下へ差し掛かった途端、不意に聞こえてきた諍いの声へ、瑞穂達は再び足を止めた。振り返ると、先ほど売春婦たちが罵り合いをしていたよりも、さらにワンブロック向こうに、灰色のジープが停まっており、二人のアルシオン兵が誰かと喧嘩をしているようだった。
「返してください!」
カーキ色のTシャツに迷彩プリントのパンツを履いている巨漢のアルシオン兵が、何かを太い腕の先に掲げて笑う。そのアルシオン兵の目の前では、髪の長い小柄なカミシロ人らしき少女が、アスファルトの地面をピョンピョンと蹴りながら、両腕を伸ばして宙を掻くように跳躍を繰り返している……不思議な光景に大和と真は首を捻った。
ジープの側面では、ドアへ背中を預けるようにして、もう一人、迷彩カラーの繋ぎ服に身を包む金髪のアルシオン兵が、片腕を抱え込みながら顔を顰めていた。先ほど聞いた声の男であろう。
「あ、あの子だ……」
瑞穂は跳躍を続ける少女を悲鳴の主だと確信した。次の瞬間には、真が地面を蹴って現場へ向かう。瑞穂と大和も慌てて後を追い駆けた。
「ちょっと、あんた達何してんのよ!」
「何だよ、お前ら……」
真が少女を庇うようにして前へ立つと、二人のアルシオン兵は怯んだ声を出し、一歩後退りをした。
いかにも非力な少女一人を相手にしているだけなら気楽なものであろうが、一気に数的不利へ追い込まれた上、一見したところ男に見える真と、体格では彼らと変わらぬ大和が相手では、それなりに本気を出さないといけなくなる。当然相手は日頃から鍛えているから、圧倒的にこちらが有利というわけではない。とはいえ、真も格闘技有段者だ。どうなるだろうかと不安になりつつ、攻撃に備える真の背中を瑞穂は見守った。
「鞄……」
不意に袖を引っ張られ、瑞穂は少女を振り返る。小さな拳で瑞穂のジャケットを握りしめつつも、少女は強い視線をアルシオン兵へ送り続けている。巨漢の手には、白いリュックが提げられている。
「あのリュック、とられたの?」
「いってッ……!」
瑞穂の問いかけに少女が返すよりも早く、真がリュックを提げている腕の肩口を目がけて蹴り上げていた。弾みでリュックが地面に落ちる。
「あんた達、それ窃盗よ? カミシロの警察が無力化されたって言ったって、法律がないわけじゃないわ。警察に突き出されたいの?」
「へへへッ、やりたきゃやればいいだろ? お前らの警察に突き出されたところで、俺達を裁くのはアルシオンの軍法会議だ。せいぜい訓戒が関の山だろうよ。それに、上がいざこざを避けたいのは、アルシオンもカミシロもお互い様さ。本気で捜査なんてされるわけない。だいたい、先に手を出したのはそのガキの方だぜ?」
そう言うと、金髪の男が左腕を上げてみせる。袖を捲りあげた太い腕にはくっきりと、小さな顎が付けたらしき歯型が残っていた。それはそれで、なかなか痛そうだった。
「ちょっかい出したのはアンタらだろ?」
大和が言いながら、地面へ手を伸ばす。その瞬間、巨漢の男が足を蹴り上げた。
「くだらねぇ……。ちょっとからかっただけだろうが。そんなきたねぇ鞄、こっちだっていらねぇよ!」
「ッ!」
「大和……」
瑞穂は地面へ膝を突きながら片手で顔を押さえる大和へ寄り添った。アスファルトの表面を覆っていた砂埃が舞い上がり、どうやら目に砂利が入ったようだった。
「……おい、これ。瑞穂、俺はいいから、真を…………」
顔を押さえつつも、しっかり拾ったリュックを後ろ手に少女へ返してやると、大和はそう言って瑞穂の注意を促す。視線を前へ戻せば、真は既に巨漢のアルシオン兵へ乗り上げ、拳を何発も浴びせかけていた。金髪のアルシオン兵はジープへ乗り込むと、エンジンを掛ける。まさかと思って見ていると、どうやら仲間を置いて先に逃げようとしているらしかった。本当にそうならいいが、あるいは助けを呼んで戻ってくる可能性もある。OGPの本部までは、ここから車で五分もかからない。
瑞穂は慌てて真を止めると、大和と少女も連れて、ひとまず現場を離れることにした。頭に血が上った真に拳の連打を浴びせられていた巨漢のアルシオン兵は、口の端と瞼が切れ、左の頬が真っ赤に腫れあがり、すっかり戦意を喪失しているように見えた。
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