翌朝、午前六時前に瑞穂は起きた。太陽光発電のバッテリーが満充電になっていたので、物置きで見付けた電気ポットとオーブントースターで、全員分の朝食を作る。昨日は寝坊した自分のために、誰かが朝食を用意してくれていたので、そのお礼とお詫びの意味もあった。
不意に扉をノックされて出てみると、首からタオルを垂らし、白髪混じりの丸顔を蒸気させた初老の男が、紙束を抱えてニコニコしながら立っていた。
男はヒノデ町会長にして、ヒノデ商会社長の氏森正平だ。桜花の大事な後援者でもある。
「おや、一人かい?」
「氏森さん、おはようございます。……あ、どうぞ。コーヒー注れますので」
「いやいや、こっちに移ったって聞いたから、ちょっと立ち寄っただけでね。へえ……」
入り口に立ったまま、氏森はプレハブの休憩室を興味深そうにキョロキョロと覗き込んで来た。
「あの……真でしたら、たぶんまだ寝てますけど。起こしてきましょうか?」
氏森は真の師範でもある。だが、瑞穂の言葉を聞いて彼は目を丸くした。
「おいおい、いくら瑞穂君でも聞き捨てならんぞ。君はそんなにしょっちゅう、レディの寝室を覗いてるというのか?」
「あ、いや……そういう意味じゃなく。そうですね……失言でした」
「はははは、冗談だよ。君ぐらい可愛いと、寧ろ一度ぐらい私も起こされてみたいもんだが、けれど、真君は悪友の大事な一人娘だから、一応立場上ね」
「はあ……」
氏森と真の父、大八島水蛟は同年代で、中学だか高校だかの先輩後輩であるという話は聞いていたが、悪友というのは初めて聞かされる言葉だった。冗談かもしれないが、考えてみれば父親に反発して桜花の活動を続けている真を、支援している状態にある氏森と水蛟の間には、しこりがあっても不思議はなかった。
「はい。これ、また頼んだね」
「えっと……ああ、セールですか?」
悪友という言葉に委縮して、気不味さを感じた瑞穂の手に、氏森が持っていた黄色い紙束を、ドンと押し付けてきた。明日から始まるヒノデ商会の売り出し広告だ。
「五千枚あるから、気合い入れて頼んだよ! もちろん買いに来てくれても大歓迎だ」
必要事項だけ告げると、ジョギング中だという氏森は、軽快に鉄板の階段を駆け下りコースへ戻ってしまった。
「チラシ抱えてここまで走って来たのかなあ」
首を捻りながら紙束をテーブルへ下ろすと、瑞穂も朝食準備に戻る。
朝食を作ると言っても、珍しく早く目が覚めた朝に、突発的な思い付きで出来ることといえば、昨日帰りにコンビニで仕入れた、食パンを焼いて、インスタントのカップコーヒーに湯を注ぐぐらいのものだ。
食パンをオーブントースターに並べていると、今度はノックもなく背後の扉が開く。
「おはよ。瑞穂、今日は早いじゃないの。……あら、ひょっとして師範来てたの? 起こしてくれたらよかったのに」
「おはよう真。俺もそう言ったんだけど、レディの寝室覗く気かって怒られちゃって……。そこ座ってて、コーヒー注れるから」
「今さら何言ってんだか。へえ、セールあるんだ……」
真が頷き、黄色いチラシを手にしたまま腰を下ろす。
灰色のノースリーブシャツにスウェットのショートパンツ姿の取り合わせは、一週間ほど前からときおり、夜から早朝にかけて見るようになったものだ。おそらくパジャマ代わりにしているのだろう。昼間愛用している作業用繋ぎと比較して、格段に露出が多い筈のコーディネートだが、柔らかそうな乳房の膨らみとは違った、胸の厚みと、一層強調される腕の太さ、膝から腿にかけての固い筋肉など、不思議なことにますます真の逞しさを見せつけるものでしかない。そして左膝のすぐ下に入った細い亀裂を見る。
シリコン製のソケットへ、極めて人の肌に似せた人工皮革でコーティングされたカバーを被せたその膝から下は造り物だ。一見したところ、実によく出来た下腿義足は、普通であれば直接見ても、そうだとはあまりわからないほど精巧である。女性なら、その上からストッキングでも穿いて亀裂を隠してしまえば、完全に見る者が騙されるだろう。しかし真の場合、運動能力の低下を嫌った本人が、厳しい鍛錬を続けている為、こうして左右を比較するとその差は歴然としている。ワークブーツに半分ほど隠れている脹脛の太さは、義足である左に比べて、負担のかかる右がずっと太い。その露骨なアンバランスは、とりもなおさず本人の強い信念とストイックなトレーニングの結果であり、素直に美しいと瑞穂は感じた。
コーヒーブランドのロゴがプリントされたカップをテーブルに差し出した直後、パンの焼ける香りが後ろの機械から漂いだした。
「ありがとう……あれ、病院からだ」
後ろポケットから間欠的な振動を伝える携帯端末を取り出して真が電話に出た。間もなく焼けたパンを紙皿へ移し、コーヒーの隣に並べた後で、自分のものも用意する。
「えっ……どういうこと?」
ポットの湯をカップに注いでいると、狼狽した真の声が通話相手に問いかけた。その後、数度の応答を繰り返し、一分程度で電話が切られる。
「どうかしたの?」
強く握りしめたスマートフォンのディスプレイを、無言でじっと見つめている真へ問いかけると、昨日にも増して沈鬱な面が瑞穂を見た。
「高天先生が搬送されたって……婦長から」
「高天先生が、どうして……」
毬矢に続き、高天夏月が大八島総合病院へ救急搬送されたという、看護婦長からの連絡だったようだ。
「わからない……重体で、今オペ中なんだって……私、行かないと」
真が立ち上がった。瑞穂も後に続く。
向かいの部屋をノックして悠希を起こし、続いて大和にもメールで簡単に内容を伝えた。工場のゲートで真に追い付くと、表通りでタクシーを捕まえ、五分ほどで大八島総合病院へ到着する。
夏月の手術はまだ続いていた。連絡をくれた看護婦長によると、今朝早くに彼は意識のない状態で搬送されたようだ。顔は頭部からの出血で真っ赤に染まり、折れているのであろう右足が、不自然な角度で外側に曲がっていた。額から目元にかけてと左頬が異様に膨れ上がり、付着した血液と泥、破損でボロ布のようになったシャツとスラックスは、よく見ると一昨日、本人が着ていたものだったという。
救急車両には通報者である男性も同乗していた。夜勤を終えて始発へ乗る為にマホロバ駅へ向かっていた男性は、ガード下の入り口で倒れていた夏月を発見したようだ。
患者の負傷と装いは、何者かに暴行された強い可能性を示していたが、問題はなぜそんな時間帯に夏月がマホロバ駅周辺で被害を受けるに至ったのかであった。高天家からマホロバ駅へは、それほど距離が遠いわけでもなく、夜通し開いているバーやレストランも多いため、食事などに出掛ける機会は少なくないかもしれない。しかし、大八島総合病院の勤務シフトによると、本人は数時間後に出勤を控えており、外出には不向きな時間帯だ。仮に、前日に続いて欠勤を決め込んでいたとしても、その原因であろう毬矢に起こった悲劇を考えれば、夏月が翌日の未明に人混みで酒を飲むとも思えない。少なくとも瑞穂達が会った昼間は、一人でビールを飲んでおり、夜になって心境が変化するとは考えにくかった。何より、発見時の現場の状況が、極めて不穏だと婦長は言った。
「あってはならないことなのですが……高天先生の衣服から手術用のメスが出てまいりました」
「それって……ウチの病院のものですか?」
「まだ断定は致しかねますが、わたくし自身が先ほど警備で確認致しましたところ、午前一時過ぎに極めて高天先生とよく似た私服の男性が、第一手術室へ出入りしている映像がございました。それに警察によりますと、事件現場には折れた木刀が残っていたそうです。そして、マホロバ駅南口には、アグリア人のビルもございますので……」
年配の看護婦長はそのまま言葉を濁したが、言いたいことは明白だった。医師である夏月が深夜の院内を歩いていても、止める者はいないだろう。メスを忍ばせ、そしてチーセダのビルへ乗りこんだ……。木刀は事務所にあったものを、夏月が使って襲撃したか、逆にその木刀でチーセダに暴力を振るわれ、現場に放置されたのかもしれないし、全く事件とは無関係かもしれない。折れたものが現場に残っていただけでは、判断出来ないだろう。
「それってつまり……」
「毬矢さんの復讐をなさろうとした……そういうことですか?」
躊躇いがちな瑞穂の発言を、悠希が完結させて婦長へ確認する。
「はっきりとはわかりかねます……ですが、警察の方もそう考えられているようで、本人の意識が戻り次第、事情聴取されるそうです」
「毬矢は?」
「さきほど朝食を持って参りましたときには、お休みになられていらっしゃいました。高天先生のことは、まだお伝えしておりません」
「そう……いずれはわかるでしょうけど、まだ伝えないほうがいいですね」
「ナースにも口止めはしておりますので、暫くは心配ないと存じます」
「ありがとうございます」
間もなくオペが終わり、夏月は集中治療室へ移された。右足首の複雑骨折に脳挫傷、右肩脱臼に全身打撲で重症だった。昼過ぎまで待っても本人の目が覚める様子はなく、麻酔が切れたとしても、当分は意識が混濁した状態が続くだろうと言われた為、瑞穂と悠希は見舞いを諦めて病院を後にした。
二人と分かれて三〇八号室へ向かった真は、既に起きていた毬矢と会った。真はその様子を瑞穂へメールで伝えた。毬矢は昨日のパニックが嘘のように落ち着いており、担当看護婦によると、このまま体力が回復すれば、週末には退院出来るということだ。「早く元気になって、兄さんに謝りたい」と、少し後悔しているような笑顔で彼女は語ったという。
スーパーへ寄るという悠希と途中で分かれ、一足先に西湖ニットへ戻った瑞穂は、プレハブ二階の物置きへまっすぐに向かった。今朝早く、ポットやオーブントースターを取り出す為に動かしたガラクタの山は、より一層歪なシルエットを入室者へ見せている。クッションが破れた長椅子を手前へ引き、上に被せてあった、繊維の弱っている段ボール箱を取り除く。そこへ隠されていた木箱を見つめて、瑞穂は薄く笑みを浮かべた。
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