六月に入り、ぐずついた天気が続くようになる。
四人がなかなか顔を合わせられない毎日の中、瑞穂は久しぶりに実家へ戻ってみた。前に戻ったときには、ガレージからこっそり自室へ侵入し、着替えだけすませて出て来てしまったので、帰省とは言えない。先に志貴へ謝罪を済ませたとはいえ、ガレージの車について、きちんと説明も必要だろう。
玄関の引き戸を開けると、微かに線香の香りが漂ってきた。
「あら、瑞穂ちゃんまで……おかえりなさい。こんなこともあるのね」
最初に気が付いた月読が、玄関までエプロン姿で小走りにやってきて出迎えてくれる。用意してくれたスリッパへ足を通し、まっすぐ仏間へ入ると、言葉の意味が理解出来た。
障子の開かれた黒檀の仏壇に、蝋燭と線香を灯し、背筋を伸ばして静かに手を合わせている男がいた。生成り縞絣の縮みに樺茶の麻角帯という、涼しげな装いの後ろ姿は、ありし日の亡父を思わせ、一瞬、瑞穂の目を眩ませた。気配に気付いた男が正座を崩さぬまま襖を向いた途端、即座に幻想を打ち消す。
「なんだ、お袋に修理代の無心でもしにきたか」
凛とした美貌が、嫌味に口元を歪ませニヤリと笑う。
「そうじゃないよ」
兄を押し退け、瑞穂も線香を立てると位牌に手を合わせた。
月読に誘われ、久しぶりに家族四人で食卓を囲む。叢雲の処刑以降、心労から床へ伏せがちになっていた淡路も、珍しく息子二人が揃って顔を見せた午後をことのほか喜んだ。同じく一級戦犯として処刑された高木慶介(たかぎ けいすけ)元首相の遺族と元後援会長が、七人の受刑者全員の名誉回復を呼びかけ署名活動などをしており、以前は淡路も運動に関わっていたが、数年前からはパタリと表へ出なくなっていた。以降すっかり体調を崩しがちになり、昼間でも布団で過ごすことが多いと言う。自分が子供であったとはいえ、まるで手伝わず、母一人に全てを押しつけてきたせいではないかと思い、瑞穂は少しばかり責任を感じていた。そして、さっさと家を出てしまい、勝手なことを続けている十一歳離れた兄を、憎く思うのだ。自分も悪いが、母がこうなった大部分の責任は兄にこそあるだろうと。
「今日は気分がいいから、ヤチヨ山へ行ってみようと思うの」
母のものと比べれば少し甘く感じる焼き茄子を、茶碗にとる。この味付けは、どちらかといえば志貴の好みだと気付いて月読を見た。
「すみません、私は昼過ぎから会議があるので」
志貴が不参加を伝えたとたん、湯呑みに煎茶を注いでいた月読の手が、微かに震えた。気の利かない男だとつくづく瑞穂は呆れる。
「そうね、志貴は昨夜から帰っていたのだし、社長がそうそう会社を空けているわけにもいかないものね」
母の返事を聞いて、寛いだ装いの理由がわかった。昔から志貴は、ときおり家では着物や浴衣に腕を通していたが、日頃はスーツだ。泊まっていく志貴の為に、昨日、月読が用意したのであろう気遣いが窺い知れて、哀れに思う。
「瑞穂は来るでしょう?」
「んっ……? ふぁあ……」
思いがけず話の矛先を向けられ、瑞穂は焼き茄子を咥えたまま、慌てて返事をしようと、淡路へ目を向ける。
「行儀悪いぞ瑞穂。食うか喋るかどっちかにしろ」
叱られ、兄を軽く睨みつけながら、志貴好みの焼き茄子を茶碗に戻した。月読が愉快そうに、口元を押さえながらクスクスと笑っている。本当に、このような男のどこがいいか、瑞穂は理解に苦しむ。淡路に同行を伝えると、ほっとしたような笑顔を返され、瑞穂もまた安堵した。
食事を終え、自室に戻って間もなくのことだ。
「空いてるよ」
部屋をノックされ、入室を許可すると、ドレスシャツにネクタイを締めた志貴が入ってきた。そして手に提げている大きな包みを見て、瑞穂は息を飲む。
「コイツの説明を聞きにきた」
ベッドの上へドサリと投げつけられた大型のゴミ袋から、バックル付きのローヒールが片足だけ飛び出し、破れた白いブラウスが零れ落ちる。袋の底には、黒いスカートとストッキングが丸めたまま残っていた。
「なんで、これ……ちょっと、人の部屋、勝手に探んないでよ!」
瑞穂は慌てて袋を奪おうとしたが、先手を取られた。
「最初は女でも襲ったのかと思ったが……これはお前のサイズに近いな」
破れたブラウスを広げ、目の前に翳される。よりにもよって、一番見られたくなかった衣類であり、二度と瑞穂自身も目にしたくはない物を目の前に突きつけられたのだ。
「返してよ、馬鹿!」
瑞穂はブラウスを掴むと、強引に引き寄せる。絹が高い音を立てて、派手に引き裂かれた。
「まあ、自分と変わらない体格の女を襲う度胸がお前にあるとは思えんしな。……ってことは、女装して歩いて、襲われでもしたか? いつからそんな趣味を持ってる?」
お構いなく志貴が質問を重ねる。概ね合っているだけに、その無神経さが瑞穂を怒らせた。襲われたとわかっているなら、これだけ酷い惨状を目にして、どうして傷口を嬲るような訊き方をするのだろう。
「兄さんには関係ないでしょ。もう出て行ってよ……ちょっと何して……放せ、馬鹿!」
引っ張りあげ、出口へ押し返そうとして伸ばした手首を、逆に強く掴まれて、瑞穂は怯んだ。
「お前ら一体何考えてる?」
鋭い視線を向けられる。面白半分に瑞穂をからかっている話し方ではなかった。
「何って……別に」
「車ブッ壊されたと月読から連絡があって、一発殴ってやろうと西湖ニットへ行ったら、カチューシャSなんて置いてやがるくせに、バカ喜びしてそうなお前はすっかり参ってる。可笑しいと思って家に戻ってみると、ベッドの下にこんなモン隠してやがった……一体どこで何やらかしてきた?」
「何でもないよ! 何かあっても兄さんには関係ないでしょ。殴りたかったらさっさと殴ればいいじゃない、俺はもう復活したんだから! つまんない同情なんかしてないで、前みたいにボコボコにしろよ! チーセダと変わらない碌でなしの癖に!」
感情に任せて罵ると、志貴は一瞬目を見開き、刺すような視線を瑞穂へ向けた。本当に殴られる、下手をすると今度こそ殺される……そう思ったが、瑞穂は歯を食いしばって一歩も退かなかった。舌を打ち、ゴミ箱へでも投げ捨てるように勢いよく手を払って、志貴は弟を解放する。志貴よりずっと細く白い瑞穂の手首は、真っ赤に染まっていた。その気になれば簡単に手折れそうなそれは、まるで女のような繊細さであり、少し手荒に扱っただけで、これほど痛々しい姿になるのだ。一体何をいきがっているのだと志貴は思い、苛々とする。ポケットから小箱を取り出し、中から独特の黒い煙草を摘まんで咥え、火を点けた。
ギラギラと怒りを滲ませた反抗的な視線を受けながら、志貴は弟に語りかけた。
「ヨミザカにあるチーセダの武器庫が、素人に襲撃されたという噂が、今アグリア人コミュニティの間でもちきりだ。ダンガや対立組織だけじゃなく、一般人も含めてだ。……まあ、スダニの立ちんぼが面白可笑しく触れまわってるせいもあるだろうけどな」
ダンガとは、エーダングアというアグリア人マフィアの通称で、チーセダと同じくブトウレンの下部団体にあたる。スダニも通称で、正式にはビーギュースダニという。これもまたブトウレン系の組織で、売春斡旋を主な生業としている連中だ。マホロバ駅周辺の立ちんぼは、ほとんどこのスダニの売春婦である。瑞穂達の快挙は、どうやらあの醜悪な娼婦達のお蔭で、アグリア人達の間で評判になっているということのようだ。
「いい気味じゃない。みんなアイツらには困ってるんだから。口さがない売春婦にせいぜい宣伝してもらうといいよ」
少しばかり瑞穂は得意になっていた。口元を緩める瑞穂の小さな顔を見て、紫煙を吐き出しながら志貴は眉根を潜める。
「そりゃあ、立ちんぼ婆さん達が何を言おうが俺達の知ったこっちゃないがな。けれど、それだけ馬鹿にされれば、チーセダの怒りにも余計な火が点くってことはわかるな? アグリア人ってのは、付き合ってみると理解できるが、何よりもメンツを大切にする」
「さすがに誰とでも付き合う兄さんは、アグリア人のこともよく知ってるね」
瑞穂は嫌味ったらしく言ったが、志貴は挑発に乗らなかった。志貴は瑞穂の目を見据える。
「はっきり訊くぞ。チーセダの武器庫を襲ったのはお前らだな?」
「だったらどうだっていうんだよ」
瑞穂は否定しなかった。毛頭隠すつもりもない。
「提案する。お前らは俺達の傘下に入れ。上納金なんかは別にいらない。但し、一心会のやり方に従うんだ。そしたら俺が守ってやる」
極めて真面目な口調で志貴は言った。思いもよらない共闘の誘いに瑞穂は唖然とする。
「何言って……」
「チーセダはお前らが思ってるほど生易しい連中じゃない。あいつらの無法ぶりを見ていたらわかることだろ。確かに、たかがガキの女装で誑かされただけで、その隙に素人相手に一杯喰わされたあたりは、あまり頭のいい連中とは言えんと俺も思う。アグリア人のケナリも同じことを言っていた。けどな、馬鹿でもマフィアはマフィアだ。それも札付きの暴力的な連中だ。執念深さもカミシロ人の想像を超えている。あいつらは必ず報復に来る。お前らがそれに対応出来ると、俺は思わない」
ケナリというのはダンガのリーダー、ソル・ケナリのことで、セイマ帝国大学を卒業しているインテリだ。志貴達はこの男を通じてアグリア人社会とも手を結んでいる。まさにそういうところが、瑞穂には許し難く、志貴を嫌う原因でもあった。
「兄さんのやり方って、プライドも捨ててケダモノのようなアグリア人や俺達から全てを奪ったアルシオン人と仲良くしろってこと……?」
「あぁ? 何言ってやがる」
「馬鹿にしないでよ。俺達には俺達のやり方がある。敵にこび諂って生き延びるぐらいなら、特攻かまして死んだほうがましだ。アンタらと一緒にするな……っ」
言った瞬間、再び手が伸びた。避ける間もなく片手で襟首を掴まれぐいぐいと締めあげられる。先の短くなった黒い煙草から、間近に細い紫煙が立ち上り、煙たさと今にも触れそうな火種の近さに、瑞穂は顔を顰めた。
「度胸と鼻っ柱の強さだけは一人前だな。いきがって俺を罵るのは構わない。けどな……そのセリフ、お袋にだけは絶対に聞かせるな」
「……くっ!」
乱暴に手を放され、瑞穂はベッドに放り出される。ドアが開閉される音が聞こえ、振り返ると志貴は既に部屋を辞していた。
間もなく月読が呼びに来て、玄関へ出てみると、シンプルな藤色のワンピースへ着替えた母が、黒いハンドバッグを提げて立っていた。エンジン音が聞こえ、ガレージから月読が車を回したことがわかる。ヤチヨ山は秋津家から徒歩十分もかからないが、山道は急な上り坂である。床へ就きがちな淡路を思いやり、月読はいつも車を出してくれているようだった。
母に続き、赤茶けた独特の色合いを見せる、一心朋友(いっしんほうゆう)観音像の前で手を合わせる。
この観音像は、戦時中に陸軍大将であり、北ア方面軍司令官であった父の秋津叢雲が、終戦間際に現地の赤土を持ち帰り、殉死した兵士達を弔うために建てた仏像だ。そこには敵も味方もない、ただ若くして命を落とした多くの兵達に対する慰霊の気持ちから、生き帰った者の務めとして祈りを捧げたい一心があっただけだ。それは在りし日、父からよく聞かされていたという、母が語った親エスティア思想が形を変えたものだと瑞穂は思った。
戦前、アグリア半島東北部地域には、ロニアやソヴェティーシュなど、多くのユーリア諸国が侵攻しており、また内乱も含めて極めて政情不安な状態にあった。半島であるアグリアは長くソヴェティーシュの属国であり、ロニアに沿岸部を明け渡すなど、自国を防衛出来る力はなかった。
それでなくとも、多くのエスティア諸国は、既に数々のユーリアの国々に占領され、植民地支配を受けていた。アグリアを保護下に置き、当時、国境付近にあたる東北部沿岸開発を進めていたカミシロは、アグリアの安全と自国の権益確保のために政情不安の国境付近へも軍を駐留させた。だが、次第に各地で戦乱が勃発し、群雄割拠の様相を呈してくるにしたがい、カミシロもエスティア大陸での戦いへ巻き込まれるようになる。
そんな中、当時、国境付近の街であったホクマで、多くの一般市民がカミシロ軍により組織的に虐殺されたという事件が、後になって伝えられた。秋津家にとって、それはまるで青天の霹靂のような出来事だった。終戦を迎え、北ア方面軍司令官だった叢雲は、戦死した多くの兵士達の遺族を訪ね歩く傍ら、秋津家の菩提寺にあたる寺の住職の協力を得て、持ち帰ったアグリアの土を観音像へ変える作業を進めつつ、軍での残務に追われる忙しい日々だった。そんなときに、突然思いもせぬ嫌疑をかけられ、OGP本部へ連行されたのだ。
三十万人を超える一般市民の虐殺……戦争中、国際都市であったホクマには、世界中から多くの新聞記者も詰め掛けていた。そんな事件があったなら、国際平和軍側へも共闘連盟軍側へも報道される筈だ。既に動画配信もあるインターネットの時代である。それほどの虐殺行為があるなら、人の目を誤魔化すことは到底不可能だと、誰にでもわかる。だが、OGPは反論を認めず、叢雲を平和に対する罪に反する一級戦犯だと烙印を押し、収監した。
親エスティア思想とは、エスティアの人々が心をひとつにし、朋友として共に手を携えあい発展していこうと願う、平和的思想のことである。かつてユーリアの列強に侵略され、植民地支配を受けていたエスティア人にとっては、まるでユートピアであり、夢見がちだが、辛い現実に歯を食い縛り、前を見据えて歩き続ける為の、かけがえのない道しるべでもあった。エスティア人たるアグリア人とは、紛れもなく親エスティア思想観点から言えば同胞の一員だ。そんな叢雲が、よりにもよって三十万人のアグリア人虐殺命令を下したと、OGPは言ったのだ。そして収監から四年後、判決によって叢雲は絞首刑に処された。
瑞穂は憎む。いい加減な裁判を四年も行ったOGPを、敗戦した途端にカミシロを裏切り、彼らを守ろうとした叢雲を嘘で陥れ、国家機能を失ったこの国で暴虐を繰り返すアグリア人を、そんな敵国達と手を結んで愛国者面をする、偽善者の志貴を。
ヤチヨ山の新緑を背に、斜面に祀られる一心朋友観音像。半眼の見下ろす先には一面の杜若が紫色の花を咲かせ、アオガキ川の支流が小さなせせらぎとなって流れている。オレンジ色の夕日を浴びて、キラキラと輝く流れを追いながら、坂を降りた。
「カミシロ人もアグリア人も皆、同じエスティア人。いつか共に手を取り合って生きていける日が来ると、そうお父さんは仰っていたものよ」
語って聞かせるように淡路が話すと、少し後ろを寄り添うように歩く月読が微笑みながら同調した。
「そうですわね。私もそんな日が早く来るといいのにと思ってます」
「そうね」
本物の母子かと思うほど、二人は同じような笑顔で微笑みあった。
カミシロが置かれた現状の厳しさを認識し、OGPとともにカミシロへ牙を剥くアグリア人達が、決して良き友などではないことを、志貴とともに瑞穂は理解している。そんな志貴と瑞穂は、愛する祖国と同胞を守りたいという信念においては同じであっても、とるべき手段に違いがあり、瑞穂はその一点に於いて志貴を解さない。だが、これほどまでにカミシロを、同胞を、そして父をも愚弄し、暴虐の限りを尽くし続けるアグリア人を、未だに手を取り合うべきエスティアの友だと口に出来る、この母と縁戚は、さらに瑞穂の理解を超えていた。
力と本能で全てをねじ伏せようとするアグリア人に、カミシロ人のような理性や優しさが通用するわけはない。毬矢を凌辱し、夏月を暴行し、そして瑞穂もまた到底及ばぬ力で捩じ伏せられそうになったのだ……。
「全てのエスティア人が、我々カミシロ人と同じような考え方をするとは限りません。お父さんは理想をもって尊い任務に就かれましたが、それはカミシロがまだ強かったときの話です。祖国が手足を捥がれた今、それまでと同じようにみんなが微笑みかけてくれるほど、世界は甘くはありません。現に今、この街でも、かよわき女性達が無法者のアグリア人の犠牲になっているではないですか……」
瑞穂は出来る限り言葉を選びつつも、納得のいかぬ思いを母へぶつけた。
「瑞穂、そのようなことを言うものではありませんよ。あの人たちはかつて、長きに亘り大国ソヴェティーシュから奴隷的扱いを受けた歴史があります。そして自国を守る術を持たない彼らは、ユーリアの列強から攻め込まれました。あなたのお父さんは、少なくともそのような辛い境遇から、アグリア人を含めたエスティア人を解放する為に戦い続けたのです。母はそれをとても誇りに思ってます」
「それはわかってます。ただ僕は、今の時代のアグリア人達が……」
静かに諭され、瑞穂はそれでも食いさがろうとした。
「憎しみ合っていて、何が変わるというのかしら。互いに対する尊敬の念を失ったときこそ、いつの時代も争いを生む。人の間も国家間も同じことでしょう」
「そう……かもしれませんね」
息子が理解の言葉を示し、母は菩薩のように穏やかな笑みだけ返して、車へ向かった。瑞穂はそれ以上何も言う事が出来なかった。おそらく、一生かかっても、この母とはわかりあえないと、そう考えた。それでも、平和主義の母や、同じような考え方をする大多数のカミシロ人は、瑞穂が愛する同胞であり、彼らを守る為に父が戦い抜いたことに変わりはない。
誰しも好んで憎しみ合って、血を流すわけではない。それは、カミシロもアグリアも、アルシオンとても同じことだ。世界平和だけ謳い他国に隷属して、民の財産を、心身をすり減らす愚行を、どの為政者が選ぶというのか。かつての戦争で、カミシロが、エスティアが、どのような危機に晒され、どれほどの想いから国民を、愛する人を守ろうと、兵たちが戦い抜いたことか。父、叢雲とてその一人であり、陸軍大将であった彼であれば、容易に計ることの出来ない重圧の中で戦い続けたことだろう。
反戦、平和、友情を礼賛し続けて民を守れるなら、それほど簡単なことはないのだ。それが出来ぬから、地上から争いが絶えない。
どうしてもわかってもらえず、わかり合う事ができず、そしてそれでも母への愛は変わらない……瑞穂は言い尽くせぬ思いを噛み締めた。
「志貴さんも来ればよかったのにね」
不意にそう言って、月読が寄り添った。なんとなく、素直に車へ入る気がせず、ぼんやりと外へ立っていた瑞穂を、彼女は案じてくれたようだった。己が無意識にとった子供っぽい態度を瑞穂は恥じ、下を向く。
「兄さんは、仕事人間だから」
「忙しそうだものね。近いうちにまた、瑞穂ちゃんと、志貴さんと、一緒にここへ来ることが出来たら、どんなにか小母様が喜ぶかしら」
「それはどうだろうね。……強欲な兄さんは、お父さんの遺志なんて興味ないでしょう」
「まあ、どうしてそう思うの?」
「だって、そうじゃない。お父さんをあんな目に遭わせたアグリア人やアルシオン人なんかと、平気で付き合ってるなんて、俺には理解出来ない」
「確かに、小父様のことは、とても残念で辛いけれど……でも、志貴さんはきっと、本音は違うわよ。あまりこういうことを言うと、志貴さんに怒られそうだけど、ここだけの話、暇を見てはしょっちゅうおうちに帰っていらっしゃるのよ。私と小母様二人の女世帯では頼りないから、とても心配していらっしゃるのね。……けれど、それは小母様も同じなの。いつも帰ってこられる度に長い時間、ずっとお仏壇の前で手を合わせていらっしゃる姿を見て、それが真剣であるほど、何かを思い詰めているみたいで、怖くなる……小父様が亡くなられたとき、小母様と瑞穂ちゃんをこれからは自分が支えていくんだって、志貴さんが言っていたこと、今でもよく覚えてる。そして二人の前ではけっして流さなかった涙を、お部屋に籠って吐き出すみたいに、号泣してたことも。」
「兄さんが、そんなこと……」
瑞穂には初めて聞く兄の素顔だった。それはこれまで自分が見てきた志貴の姿と、あまりにかけ離れていて戸惑った。月読が眉根を寄せて見上げる。
「瑞穂ちゃん……お願いだから志貴さんから目を離さないでね。何か、とても嫌な予感がするのよ……うまく言えないけど、今にすごく不吉なことが起こりそうで。瑞穂ちゃんみたいに、言いたい事をもっと言ってくれたら、小母様も私も、何を考えて、何をしようとしているのかわかるけど、志貴さんは多くを語らないから……けれど、あの人ほど小父様を敬愛されていて、祖国を深く愛していらっしゃる人を、私は他に知らないわ」
せつせつと訴え、月読は目を伏せる。
「……」
それだけに心配なのだ……と、憂いに満ちた横顔が言葉を結び、車へ向かった。
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