『君に触れる』(下)
目を覚ました俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)が最初に見たものは、吊るされた玉葱の塊。茶色い球が紐を通して束ねられ、列を作って、風通しのよさそうな高い位置に保存してある。その向こう側に、プレハブの継ぎ目のような、赤っぽい光の差し込み。
……プレハブ?
「あ……いたたたっ」
見慣れない光景と、横たわっているらしい自分の姿勢に気が付き、上体を起き上がらせようとして断念した。拘束されている。
「気が付いたかい?」
「てめっ……なんの真似だ!」
両腕を背後で纏め、手首で縛られている。下も膝と足首の二か所へ、用心深く二重、三重にロープを回され、緩まないように両脚の間を通して固く結び目が作られていた。贔屓目に見ても、拉致監禁されている状態だ。
動いた拍子に靴の爪先が、弾力のある塊を蹴った。薄暗くてはっきりとわからなかったが、何かをパッキングして積み上げた、袋の山だった。恐らく土か肥料が入っているのだろう。
よく見ると、板張りの壁際には、鋤や鍬のような細長い木の柄が立てて並べられ、別の方向へ視線を向けると、草刈り機や薪割り機、チェーンソーといった小型機械から、トラクターにフォークリフトといった重機まで揃えてある。どうやらここは、農機具類を保管している倉庫のようだった。
「江藤里子(えとう さとこ)っていうのは、ひょっとして江藤警部……ああ、今は警視だったっけ。彼のお嬢さんのことかな?」
広中正純(ひろなか まさずみ)はそう言いながら、俺の前に1メートルほどの間隔を空けて座った。
少しだけ腰の浮いた姿勢に気が付く。束ねた薪か何かを椅子代わりにしているようだった。
手には俺のスマートフォンが握られている。メールか通話履歴をチェックされているらしい。発言内容から察して、さきほど交わした江藤との会話を見ているのだろうと見当がつく。
「俺の質問に答えろよ。こんなことをして、一体何が目的だ」
「随分な言い方だねぇ。それはこっちのセリフだよ。君こそ、色々と探ってくれたみたいじゃないか。それにしても、秋彦の彼女が江藤警視の娘だったとはね……なるほど。最近また刑事が近くでウロチョロしている気がしたけど、君の差し金だったなんて、ちょっとショックだよ」
そう言って広中が、スマホを持っていない側の手を伸ばしてくる。頬へ触られそうになり、反射的に背を逸らして顔を背けると、苦笑するような声が聞こえた。
「あんた、霜月なんだろ。正直に言えよ」
俺はストレートに追及した。
これまではただの勘でしかなかったが、今は確信を持っていた。そうでなければ、彼にこんなことをされる理由がない。
「……どうせなら、もっと可愛らしく質問ができないのかい? こんなに美人になったのに、台無しだよ」
「ふざけてないで答えろ。広中なんて偽名だろ? ご丁寧に顔まで整形したのか? スパイ映画じゃあるまいし、まるで別人だ」
百竜ヶ岳(ひゃくりゅうがたけ)の死体は霜月勤(しもつき つとむ)だと断定されていた。殺人は容疑不十分で、おおっぴらに警察のマークがなかったとはいえ、それでも江藤の親父や探偵の尾行を嘲笑うかのように、他人になりすまし、堂々と泰陽市(たいようし)へ戻ってきた。だが、霜月の擬態は名前や顔だけではなく、身長こそ俺とあまり変わらないものの、肉体は筋骨隆々として、浅黒い肌を持ち、記憶の中の霜月とは、まさに別人だった。
それでも、この男は霜月勤に間違いない。その考えに、俺は自信を持っていた。
目の前の男は溜息を吐くと、わざとらしい素振りで肩を竦めてみせる。
「人を犯罪者扱いして嗅ぎまわった揚句に、上から目線の命令口調……おまけに一方的な言い掛かりだなんて、あの女そのままだね。さすがに親子だ。その過剰な被害者意識も、そろそろ、いい加減にしてほしいよ」
「なんだと……?」
「いいさ、そんなに言うなら教えてやろう。顔は君が指摘したとおり、整形したよ。といっても、正当な理由がある……さっきも言ったけど、僕は色々な日雇い労働の仕事を渡り歩いていた。あるときに、子供が規制を潜り抜けて、解体現場に入って来たんだ。すぐに出してやろうと思って近づいたら、垂れていたケーブルに子供が引っかかり、転んだその子の上に、組んだ足場からコードリールが落下してきた。慌てて子供を庇ったら、運悪く僕の頭に落ちてね。おまけに工具のコンセントが抜けてショートして、飛び散った火花で顔をやられたのさ。……あまりの衝撃に本気で死ぬかと思ったよ。お蔭で今でも、左目は殆ど見えない。辛うじて運転は出来るけどね。……まあ、傷が殆ど残らなくて感謝はしてるけど、確かに印象は随分変わったらしいね」
「そう……だったのか」
本当なら壮絶な体験で、気の毒な話だった。
なるほど、言われてみれば、違って見えるのは目元だけで、鼻から下は面影が残っているかもしれない。だが、それにしたって受ける印象が全然違う。霜月はこんなに逞しい男ではなかった。
何より、他人の名前を騙っているのはなぜだ。
広中は話を続けた。
「君はいい年をして定職に就かないと僕を批判したけど……」
「そんなつもりは……」
「いいさ、理由はあるんだから。……日雇いを募集しているような、ハードな労働現場は、僕の肉体をすっかり変えてくれた。お蔭でこうして、10年の時を経たとはいえ、戻って来たこの街で、誰もかつての僕だとわかる者がいなかった。……ほんの最近まではね」
「俺が……初めて見破ったってわけか?」
「それと、どうやら君の彼女の情報によると、最近、刑事が僕を探っているらしい。まあ、そっちは、はっきりした理由がわからないけどね」
「そんなの、あんたが人殺しだからに決まってるだろ」
「証拠は?」
「しらばっ……」
いきり立つ俺に、広中は言葉を被せた。
「君は幼かったから覚えてなくても仕方はないけど、君のお母さんが死んだのは、不可抗力だよ。僕だって悲しんだ……なによりショックだったよ。頼ってくれていた夏子(なつこ)ちゃんからあんなふうに詰られて」
広中が顔を俯ける。その表情は視界の暗さでわからない。
「教えてくれ。百竜ヶ岳で見つかった死体は誰なんだ?」
江藤の親父さんによると、霜月は10年前にそこで命を断った。
動物に荒らされ、顔の判別も付かない死体は、霜月の身分を示すものを複数所持していた。歯医者のカルテと歯型も一致。残された証拠は遺体が本人であることを物語っていた。
だが目の前の男が霜月であることは、本人も認めており、俺もそうだと確信している。
山には当時霜月が面倒を見ていた中国人と登っていた筈だ。