「まさか、そいつら……いや、2012のお客様が注文されたラベイってのは、1985年なのか」
 そもそも、いつのまにラセールは、そのようなプレミア酒を手に入れていたのだ? というか、一体誰が頼むのだ……まあ、今回嫌がらせで頼んだ大学生が、確かにいたが。
「ええ。でもフルボトルですよ」
「あたりまえだっ……!」
 1985年は750ミリリットルで二十万前後する。ラセールでは当然特別注文になるため、値段は明記されないが、もちろん市場価格に二〜三倍の上乗せプラス十五パーセントのサービス料だ。
「先輩〜、大丈夫ですか?」
 ネクタイを締める手を止めてロッカーの前で固まっている私に、横から並木が掌をヒラヒラと泳がせる。
 たった今私は、クソガキどもの悪ふざけで、冬のボーナスが消えて行っただろうことを自覚した。
「すまん。…………で、部屋はもう予約したのか? 先方の要求では、スイートということだったが」
 一言でスイートといっても、グランドイースタンには三種類の部屋が用意してある。
 正規料金でいえば、セミスイートが一泊四万五千円、スタンダードスイートは七万八千円。それぞれ、部屋の広さやアメニティーの違いだけでなく、使用している調度品にもそれなりの差が出てくる。
 たとえば、セミスイートなら、当ホテルのデラックスツイン、デラックスダブルよりも、一回り大きい程度の差しかなく、値段も似たり寄ったりで、いわゆるスイートルームという言葉から連想される豪華さを期待して宿泊されたお客様の中には、がっかりされる方も出てくる。それだけに、予約時にはなるべく部屋の違いを詳しく説明してさしあげるように勤めているのだが、中には慌てて予約される方もいらして、クレームに発展することも少なくはない。部屋から顔を覗かせたお客様が、われわれ客室係を廊下で突然捕まえられて、怒りをぶつけられることもしばしばなのだ。
 そして、当ホテル最高級の客室が、最上階フロアのインペリアル・スイート・ルーム。
 八人掛けのダイニングテーブルと、十二人掛けのローテーブルにソファ、そして二部屋あるリビングのうちひとつにはグランドピアノが置いてあり、天蓋つきのダブルベッド、およびキングサイズベッドが二つ、それぞれに入っている寝室が二部屋。そのほかキッチンにリラクゼーションルーム、サンルーム、サウナとジャグジー付のバスルームにゆったりとした玄関ホールの合計九室から構成される。
 ちなみに玄関とリビングのシャンデリアはバカラで、アメニティーはすべてブルガリだ。
 正規料金で一泊六十万円。
「はい、来てそうそう、最上階のインペリアル・スイートへご案内しましたよ」
 頭の中で何かがスパークした。
「俺はいったい、何のためにここで仕事をしているんだろうな……」
 そのまま黄昏る。
「ねえ、先輩……?」
 小柄な並木が心配そうな声で呼びかけた。なぜか頬がほんのりと赤い。
「並木……」
 ラセールの特別ディナーに1985年のラベイ、そしてインペリアル・スイート……2012のゲストが、気まぐれに、あるいは腹いせに消費したそれらの料金は、このあとすべて私が支払うことになっているのだ。当然社員割引も使わせてもらえるわけがない。
 どうして、こんなことになったのか……。
「あの……ええっと、よかったら、うちにご飯食べにこられます? これでも一通りの料理はできると思いますし、毎日は無理ですけど、シフト合ったときだけで、よければ……」
 どうやら大体の事情を察してくれているらしい並木が、可愛らしい提案をしてくれた。よくよく考えれば、非常にありがたい申し出だったのだが、このときの私は、冷静に損得勘定できるような余裕を持ちあわせていなかった。
 納得がいかないことは、いろいろとある。だが、文句を言って何かが大きく変わるわけではない。
 後輩を連れて飲み歩き、人生を嘆きながら店先でゲロを吐くことは簡単だ。だが、酔っぱらって道端で居眠りしながら冷たくなることが出来ず、今この仕事を辞めるわけいもいかないなら、きりきり働くしかないだろう。
 私はジーンズのベルトに手を掛けて、並木を見る。
「すまないが……」
 きれいにマスカラを塗った大きな目が、よりいっそう丸く見開かれた。私を映している二つの茶色い瞳が、ゆらゆらと揺れている。
「ああ、べつに、変な意味はないんですよ。……そりゃ先輩がもてることは知ってますけど、私と先輩は、ただの先輩後輩ですし、そんな彼女気取ろうっていうんじゃないんです。ただ、今回のことはちょっと、気の毒っていうか、見てられないっていうか…………でも私、貸してあげるほどお金に余裕ないですし、…………だけど、まあ、ご飯ぐらいなら、作ってあげられるかなあって意味で…………め、迷惑だったら、別にいいんです! まあ、考えたら、先輩に食事作ってくれる彼女さんの、一人や二人、そりゃあいるでしょうしねー…………ははは…………って、私一人で、何言ってんだろ……」
 それだけまくしたてると、並木は顔を真っ赤にして俯いた。忙しいやつだ。
 私は軽く咳払いをする。
「いや、…………俺こそ、心配かけてすまない。確かに、今彼女はいないし、お前から金を借りる気もないが、あのな並木……」
「ええと…………だ、だったらその…………よかったら明日…………」
 そのとき、更衣室のドアが開き、一人の男が入ってきた。
「うっす……マネージャー、昨夜はどうも」
 私と同じく、夜勤シフトの板垣稔(いたがき みのる)へ、こちらからも挨拶を返す。
「おはよう、板垣。こちらこそ、昨夜はすまなかったな」
 そう言いつつ、途中で置いて行かれたことに対する弁解のひとつも待ってみたが、それはなかった。もっとも、迷惑をかけたのはこちらなのだから当然なのかもしれない。
「いえ、大丈夫っしたか? ……それよりマネージャー、例のゲスト下に……っつうか、なんで、並木ここにいんすか?」
 間に一つ挟んで隣の扉へ手を掛け、正に着替えようとしていた大柄な男が、今更並木の存在に気が付いたようだった。まあ、視界が高い板垣の目には、三十センチ以上低いキャノピー層に生きている並木の存在を、安易に視認できないのは無理もないだろう。私は改めて、並木へ目を向けると。
「……並木、すまないが出て行ってくれないか?」
「えぇえええっ、そ、そんな同棲してもいないうちから……!?」
「黒木マネージャー、並木と同棲するんすか?」
 大きな目に涙を溜める並木の隣で、板垣がリュックを背負ったまま胡乱そうな目を向けていた。
「板垣、誤解だ! 並木、人目のあるところで、紛らわしい言い方をするな! それと、そろそろここから出て行ってくれ、居座られると、着替えられないだろ!」
「わか……わかりましたって、押さないでくださいよ、もう〜。セクハラで訴えますよ? それに息匂います」
 そう言って並木が、小さな鼻を摘まみ、顔を顰めて見せた。
「ナチュラルに男子更衣室へ入ってくる奴が、ちょっと肩を触られたぐらいで、何がセクハラだ」
「ははは〜、それもそうですね……って、そんな乱暴に、きゃあっ」
 並木を押し出すと、バタンと音を立てて扉を閉じる。念のために一応ロックをするべきかと悩んでいると、直後にドアが開いた。
 また、並木である。
「だから、お前は……」
「いやいや、先輩〜、ひとこと言い忘れてたもので」
「何だ」
「タイムカード……警備から押し忘れてるって連絡ありましたよ〜」
「それを早く言え!」
 私は並木を押しのけると、従業員出入り口へ走った。その後、板垣にミントタブレットを貰ってから仕事に入る。



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