「おい、君…………!」
 乱れたキングサイズのベッドと、マットから流れ落ちているようなシーツの端を握りしめ、カーペットへ横たわっている青年……彼が狩尾の友人なのだろう。
 瞼を閉じた青年は額から血を流しており、恐らく凶器に使われたのであろうラベイのボトル……彼らは飲み残したボトルを、どうやらレストランから持ち帰っていたらしい。そのラベイの残骸が、残されたシャンパンの染みと、砕け散った薄いベージュのラベルを見せて、ガラスの破片を散乱させていた。
「警察……呼ぶの……?」
 いつのまにか後ろに来ていた狩尾が、細い声で訊いてくる。
「ここで俺の口を塞いだら、呼ぶことはできないだろうけどな」
「ははは……その手があったね」
 力ない笑いを聞かせながら私の隣を通り過ぎると、狩尾は寝室へ入り、友人の傍にペタリと座り込んだ。そのまま自分の両足を抱えて、膝の上に細い顎を載せる。肩が細かく揺れていた。
 自分がしたことに怖くなったのか、あるいはけして本懐ではなかった友の死を、今更悲しんでいるのだろうか。
 私も寝室へ入ると、サイドボードを確認した。
 半分ほど開けられたグレープフルーツジュースと灰皿に残っている吸殻が五本。さらに白いカプセルが六粒、直接ボードの上に転がっていた。
 別のボードにはカラフルなラベルの見慣れない缶と、これもまた珍しいパッケージの薄い箱。手にとって見てみると、どちらもオランダ産であり、それが煙草の葉と巻紙だとわかる……いや、違う。
 部屋に漂う甘い香りは、おそらく煙草のものではない。近くには缶に入った草を砕くための、内側に突起が付いた容器が置いてあった。
「お前ら、マリファナやってたのか?」
「そこに書いてるでしょ? それとも読めないかな」
「憎たらしいガキだ」
 ブランド名らしきロゴこそ、草という意味の英語だが、それ以外の記載はおそらくすべてオランダ語で、私にはさっぱりわからない。
「草。マリファナの別名のひとつだよ。ほかに、ガンジャとかウィードとか言われるけどね。ガンジャっていうのはヒンディー語で神の草って意味。……上手いこと言うよね」
「ジャンキーめ。それでハイになって、ダチを殺ったっていうのか」
「違うよ。……もうたくさんなんだ、あんな酷いこと」
 そう言うと、狩尾は震えた嗚咽を漏らし始めた。
 ふたりがこの部屋でマリファナ煙草を吸っていたことは、本人も認めているのだから間違いないだろう。だが、それによって気が大きくなった狩尾が、口論の末に友人を殺したのではないというなら何が殺害の原因だ。
 それに狩尾はなぜ、先ほどから震えて、そして泣いているのだろう。二人に一体何があった。
 私は未使用のカプセルを手にとる。白いと思っていた小さな入れ物は、よくみると透明で中に白い粉末が包まれていた。カプセルに薬剤を識別するコードの類は何も書かれていなかったが、それらが入れられていたと思われる空の透明袋に『5-MeO-DIPT』と印刷されたラベルが貼られている。
「まさか、ドラッグか?」
 思った以上に厄介な事態になりそうだと覚悟した。
「ゴメオって聞いたことない?」
「怪獣か何かの……なわけないな」
 狩尾は力なく笑うと。
「FOXとかって名前で一時期商品化されてたこともある。脱法ドラッグってやつになるのかな。『5−メオディプト』っていうのがクスリの名前で、それを穴に仕込むと気持ちいいんだって。けど、される方は歩けないぐらいお腹下すし、寒気は止まらないしで最悪。おまけに、メチャメチャされたのは間違いないのに、記憶飛んでて何やられたか全く覚えてないしね。だからもうヤだって言ったら、喧嘩になっちゃった……しかもあっちは、クサもSも昼間っからやってるし、殺されると思ったよ……」
 それで、逆に殺してしまったわけだ。事情が事情だから、正当防衛が成立する余地がなくはないが、判断するのは警察や司法の仕事だろう。
 しかし、穴に仕込むだの気持ちいいだの……やけに綺麗な青年だとは思ったが、つまりこの同伴者は、友人ではなく彼氏だったということだろうか。ろくでもない男に捕まったものだ。
 サイドボードのグレープフルーツジュースを見る。
「しかし、なんでまたそんな野郎と付き合おうと思ったんだ? クスリ漬けにされて、ボロボロになるのがオチだろうに」
「あんなヤツじゃなかったんだ。僕もともと友達少ない上に、親父……ええと……」
「知ってる」
「……そうか、わかるよね。高校の頃、ちょうど親父の違法献金疑惑問題で、酷い苛めに遭ってね。それ引き摺ってて、大学に上がっても、なんだか友達作り辛くて……そんなときに、コウ……こいつが声をかけてくれた。けど、サークルに入って変な連中と付き合うようになって、コウはどんどん変わってしまったんだ。……クリスマス前だったかな、コウにつまんないって言われて……捨てられるのが嫌で、言う通りにするって言ったら、グランドイースタンでひと芝居やって来いって……れて……ごめんなさい…………全部、弁償……から……なさい……」
 最後の方は、ほとんど聞きとれなかった。
 要するに、根が真面目な青年だった狩尾風雅は、背伸びをしてコウという死体のチンピラと付き合っており、唆されてこの度の茶番を引き起こしたということだ。
 狩尾が通っている泰陽文化大は、先日、薬物取締法違反で複数名の在学生が逮捕されている。大方、コウという学生は、そのグループと付き合いがあったのだろう。
 だが、脱法ドラッグで一度酷い目にあっていた狩尾は、再びそれを強要されそうになって、ラベイのボトルで強打した。
「まったく。酒も飲めないようなヤツが、無理すんなっての……」
 サイドボードのグレープフルーツジュースを、手にとりながら溜息を吐くと。
「ええと……どっちかっていうと、お酒はコウの方が弱いんだけど……?」
 風雅が首を傾げながら、上目遣いに顔を上げる。せっかくの美人が、涙と鼻水で台無しになっていたが、その仕草はあまりにあどけなく、我知れず顔に血が昇って行くのを意識せずにいられない。ベッドサイドのスタンドしか明かりが点いていない薄暗さに感謝しつつ、改めて手の中のボトルを見つめた。
「このジュースは、お前が飲んでいたんじゃないのか?」
 だが、コウという青年は間違いなくラベイを呑んでいた筈で……。
「ああ、そっか……ええと、確かに僕が飲んだというか、飲まされたんだけど……」
 そう言うと、風雅が気不味そうに、顔を背けた。
 酒やドラッグならともかく、グレープフルーツジュースを無理強いされたというのだろうか。
「好きで飲んだわけじゃないのか?」
 意味がわからない。何のためだというのだ。
「つまりさ……そうすると、よくゴメオが効くんだよね。トロマンになるって言ってた」
「トロ……」
 さすがに全部は言えなかった。
 可愛い顔をして、そんな言葉を口にしている風雅を見ていると、死体を前にしつつ、こんな野郎は死んで当然だと思えてくる自分を自覚して、恐ろしくなる。
 要するに、そのドラッグは柑橘系の摂取で相乗効果が得られるらしい。さらに効き目は絶大で、強要された本人が恐怖心を覚えて、相手を殺してしまうほどに、容赦がなかったというわけだ。
 サイドボードの電話からフロントへ連絡し、事態を報告する。
 その間風雅は膝を抱えてずっと座り込んだままだった。



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