漸く話しかけるチャンスが来たと判断して、僕は彼女の名前を呼ぼうとしたが、一瞬先に目の前の口唇が開いていた。
「……んな」
「え?」
想像を超えて低い声がまったく聞きとれず僕はさらに踏み出して耳を澄ました……愚かな一歩だった。
「さわんなって言ってんだよ、キモヤ!」
文庫本が至近距離から飛んできて顔を打つ。
「痛……ええと、あの……苫米地さん?」
「気安く呼んでんじゃねえよ! 名前が腐っちまうだろうが!」
「そんな、馬鹿な……」
「どうせアタシは、泰文にも受からない馬鹿だよ!」
「え……そうだったんだ……、ああ、いや、そういう意味じゃなくて……」
文庫本を拾いあげる……やけに平仮名と行間、及び、三点リーダーが多い、おそらく小説だった。ページ一杯に描いてある少女マンガのような挿絵は、やたらとキラキラしているスラリとした美少年だ……とても自分とは似ても似つかないと正直に思った。
しかし、まさか苫米地が推薦で落とされた大学がFランの泰文だったとは、夢にも思わなかった。未だに進路が決まらない自分が言えた義理ではないが、泰文へ進学するぐらいなら、バイトでもいいから就職して手に職を付けろと、留守がちな父から受験さえ許されなかった大学だ。仏教学部だけは名門だが、僧侶になるのでもなければ、4年間膨大な学費を投じて遊びにいくようなものである……その推薦を落とされたとなると、たしかに深刻かもしれない。
いや、問題はそこではない。
今目の前で、暴走族かヤンキーかと聞き間違えるような暴言を連発している少女が、数日前、頬を赤らめながら渡り廊下で自分に接近してきた苫米地弥生だということだ。
肩幅に足を広げて仁王立ちし、目をきつく釣りあげてまっすぐに自分へと睨みを利かせ、渡り廊下とは違う意味で顔を真っ赤に染めながら、大声で怒鳴っている……数日前には、高校最後の思い出を共に過ごそうと、卒業パーティーの参加会場を探ってきた彼女にとって、突然ここまでの怒りを買うほど、自分の何が少女の逆鱗に触れたというのだろう。あるいは、始めから彼女は自分に好意など抱いていなかったのかもしれない……よくよく彼女の行動を思いかえしてみる。卒業パーティーの参加会場を聞かれたが、苫米地が僕と同じ会場に参加したいと打ち明けたわけではなかった。そして会話に割り込んだ仲良い女子生徒に返した言葉。だって……思ったから。哄笑に掻き消された三点リーダーに入る言葉は、僕を蔑んでいるのであろう友人に抗弁してのものだ。話を聞き終えうちに高笑いを聞かせる友人に対し、仮にも参加会場を僕に合わせようと思って質問したのだと、抗弁したりするだろうか。そうではなく、僕がどちらの会場へ参加するかをリサーチし、別の会場へ自分が参加しようとしたのだと苫米地が質問理由を明かしたとしたら、……ちょうどあのような哄笑が返ってくるのではないだろうか。
僕は、最初から苫米地に好かれてなどいなかった……いや、好かれる要素など、始めからなかったではないか。
「キモイ、キモイ、キモイ!」
錯乱したように苫米地が叫び、漸くその原因が、不用意に彼女へ近づいたばかりか、スカートへ触れた指先にあったと気が付いた。
「ご、誤解だから……僕はただ、話をしたくて……」
「あっち行けよ!」
男のような言葉で拒絶を言い渡された直後、不意に進路指導室のドアが開き、有村教諭が出てくる。ほぼ同時に渡り廊下を走って来た学年主任が到着し、苫米地は担任とともに進路指導室へ、僕は学年主任によって階下の生徒指導室へと移された。
この事件は翌日の朝「キモヤ苫米痴漢事件」と教室で名付けられて、クラスの男子はニヤニヤと、女子は突き刺すような視線で僕を見てきた。肝心の苫米地は学校を休んでいた。当日の午後、僕も早退し、以後二度と学校へは行かなかった。幸いにして出席日数は充分足りていたため、卒業式の二日後、証書と通知表、そして卒業アルバムが宅配便で送られて来た。丁寧にエアキャップで梱包されていたアルバムは、開封せずにそのままゴミ箱へ捨てた。
事件以来、空気が抜けたようにやる気が失せた僕は、卒業と同時に受けまくるつもりでいたバイトの面接にも行かず、職探しを大義名分にネットへ齧りつき、ひたすら部屋に引きこもっていた。掲示板やSNSで自分と同じような毒男と交流するうちに、いかに女が身勝手で思い上がりが強く無駄に好戦的かを知り、日を追うごとに苫米地へ、そして女と言う生き物へ、憎悪を深めていった。そして、調子に乗って自分の拙い経験や思いを吐き散らしてはSNSを炎上させ、削除する羽目になったアカウントは数え切れない。
そんな生活を3年半も続けた頃、突然両親が離婚して父親が出ていった。母に泣かれて重い腰をあげた僕は、久しぶりに外の空気を吸った。手間取りながら切符を買い、車両が入れ替わったことさえ知らなかった学園都市線に乗った。そして連日足を運んだバイトの面接は、片っ端から落とされた。面接の数が二桁に乗った日の夕方、帰路の電車に揺られつつ、僕は自分という存在の無意味さを苦々しく噛み締める。
帰宅ラッシュで乗車率150%を超えるドア付近で、ふと、目の前に立っているOLらしき若い女に目が止まった。155センチほどの小柄な身長と肩までのまっすぐな髪、地味だが清楚な印象の横顔……あれから苫米地はどうしたのだろう。
考えているうちに、OLが伏し目気味に俯いて、必死に通勤鞄を抱きしめていることに気が付く。気分でも悪いのだろうかと様子を探ってみると、すかさず彼女がチラリと後ろを……間違いなく僕の気配を窺い、ますますバッグを持つ手に力を入れる……両肩がすっかりせり上がっていた。おそらく、身を守っているのだ……僕から。なぜ……? 今度は彼女の隣に立っている、30歳ぐらいの女と目が合い、すぐに逸らされた。不意に頭の中で合点がいく。
さわんなって言ってんだよ、キモヤ!
そして苫米地のヒステリックな声が記憶に蘇り、次の瞬間、僕は目の前の女に言い放っていた。
「誰もお前なんて触んねえよ、ブス! ババアも見てんじゃねえ!」
となりの30女にも吐き捨てるように言って、間もなく開いた目の前の扉から、僕は電車を降りた。
降車すべき場所でもない駅から1時間近くかけながら家路へ向かった。帰る頃にはすっかり夜が更けてはいたが、勘違い女にはっきり言ってやった爽快感に、なぜだか久しぶりの高揚した気分を味わっていた。同時に、一瞬でも苫米地に感傷を刺激された自分に、無性に腹が立った。
再び厭世的な気分に囚われまたもや引きこもり生活に戻る。暫くして母の友人という人物の紹介で、僕はまた面接に行かされた。バイトではなく正社員だというから、母に金を出してもらい、僕は生まれて初めてビジネススーツなるものに身を包んだ。散髪こそしなかったが、伸び気味だった髪も自分なりに整えて挑んだ。
緊張しきった面接は自己評価に照らしても惨憺たるものだ。軽く目を通しただけで、机の端に追いやられた履歴書の扱いに先制パンチを食らわされ、高校卒業後の空白について聞かれて説明に苦慮し、志望動機で口籠り、頭が真っ白になったその後の経過は、思い出すだけで、未だに動悸が止まらない。紹介だからといって、碌に対策も練って来なかったことを後悔した。だが、1週間後に受けた合格の電話連絡にはさらに驚かされた。翌週からの出社命令を言い渡され、向かった勤務先は、臨海公園駅前に建っている、フジエレクトロニクス株式会社泰陽支社の総務部。2週間の研修期間を経て、正式に辞令が下った場所が、海豚(いるか)岬の第3工場だ。以来そこで3年間変わらず働き続けることとなった。
また当時は、プライベートでも僕と母は大きな局面を迎えていた。就職が決まって間もなく、母は民法が定めるクッション期間を消化して後に、僕に職を斡旋した男と再婚した。義父には高校へ進学したばかりの娘がいた。義妹は顔こそ可愛い部類だが、正体はとんだ猫被りだった。初対面ではしとやかに振る舞っていたが、ともにひとつ屋根の下で過ごした期間は合計で2週間にも満たない……会って3日目に彼女は友人の家を泊まり歩くようになった。この友人というのが、どうせ碌でもない男なんだろうと、憎まれ口のひとつも義妹に言えれば、僕はまだ救われたのだろうが、実のところ、同性の仲良しばかりだ。あるとき珍しく家で居合わせた彼女の部屋から、その理由らしき悩みを、携帯電話を片手に義妹はメギツネ仲間の一人へぶちまけていた。
うちベランダあるじゃん……それがあたしの部屋からキモオタの部屋に繋がってんのね。だから部屋じゅう鍵掛けても、カーテン越しに覗かれそうで落ち着かないんだよねえ……え? 7歳違いだから今年23じゃないかな……ちげえ、ちげえ、まじキモイんだって! 小太りで薄ハゲ! あたしより色白くってさあー、とにかくキモイ! なぁんか高校卒業してからずっとヒキッてたらしいよ、親父に仕事面倒見て貰ってさぁ、……ダッセーっしょ。生きてて恥ずかしくないんかねー。
義妹の話を聞いた一週間後、僕は家を出たいと母に相談した。
そうは言っても何しろ就職したばかりで、当面、引っ越し資金を貯めるまでは、自分も義妹も我慢するしかあるまいと考えていたが、意外なほどこの計画はトントン拍子に進んだ。
話を聞いた義父が引っ越し資金はおろか、当面の生活援助まで申し出てくれたのだ。あとで知ったが、再婚に際して顔合わせがあった当日から、義妹は僕の同居に難色を示していたらしい。彼女の部屋に取りつけられていた鍵類も、どうやら泣きつかれた義父が彼女の為に急遽設置したものらしかった。
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