『雲の彼方へ』(中)
臨海公園駅前東ビルの階段は、人が歩く度に鉄製のステップが五月蝿く鳴り響き、段差からバラバラと埃が落ちて来た。階段を上りながら言い争う誰かの声を聞きつつ、うんざりと背中を壁に凭れさせる。
胃の不快感は飲み食いした物を戻したお蔭でいくらか収まったが、気分はまったくすぐれなかった。
「あの店、マリンホールだったのか……」
階段脇に見えている看板に視線を送って呟く。つい10分前、やけに横柄な店長から追い出されるようにして出てきた地下の店が、高校時代、女子達がやたらと持ちあげていた『お洒落で大人の雰囲気』のカフェバーだったことを、僕はあとから知った。そして、トラウマでもなければ、そうそう覚えることもなかったであろう、『ラナペケーニャ』なる、わけのわからない名前の店とともに、卒業パーティーの会場となった店のひとつだ。結局、どちらのパーティーにも行くことはなく、また一生足を運ぶつもりもなかったが、こんなところで知らぬ間に入っていたわけだ。
「ああ、糞……」
各フロアの非常口を繋いでいるらしき鉄階段を仰ぎ見ながら毒吐くと、口内にまだ残る嘔吐の饐えた名残が己の嗅覚に触れてうんざりとした。
カクテルライトを埋め込まれた噴水と観葉植物のパームツリー、そして青光りする壁の一画をしめている大きなアクアリウムに、ピンクや黄色、尾びれがキラキラ反射している熱帯魚達……、いかにも若い女が好みそうな南国的な演出だった。しかし広いフロアと中二階というか半地下から構成される店内の大半は、大学生程度の五月蝿い連中が客層のメインを占めており、『大人の雰囲気』からは程遠い……と感じるのは、自分が年をとったせいもあるのだろう。高校生から見れば、大学生は大人に見えたのかもしれない。
カウンターの端で呑んだ、慣れないアルコール飲料は、ラガーがジョッキ2杯とウーロンハイ、そしてレモンハイだかレモンサワーだかと……それから……メニューの端の方にあった、なんとかドライバーという酒。一見オレンジジュースに見えたので、オーダーの聞き間違いかと思って、店員に文句を言ったら、それがドライバーだという。そして簡単なカクテルのレシピを説明したあとで飲んでみろと言われ、ロンググラスを煽ったら、大半がカウンターとスーツに流れ落ちた。その瞬間、傍にいた若いグループから「ダセェ」という嘲りと哄笑が上がる。思わず睨みかえすと、一瞬笑いは鎮まったが、今度はさんざめきとともに、ときおりくぐもった笑いが起こるようになった。そうなると、そのグループが気になって仕方がなく、ついつい耳を澄ます……酒が不味い。そして何人かが「ハゲ」と嘲るように口にして、我慢ならなくなる。ムカムカとして、先ほどの店員を捕まえ、ヤケクソ気味に同じカクテルをもう一杯頼んだ。財布の中身など計算していなかった。暫くしてその店員が「騒々しくてごめんね」と言いながらグラスを持って来て、なぜかサービスだと付け加えられる。よく見れば、小柄で綺麗な顔をしている中性的な美形だった。少し救われた気になり、店にやってきて初めて穏やかな気分に浸っていると、前後してカウンターの中で忙しく動き回っていた、長身の男が近付いてくる。
「兄さん、悪いがそれ飲んだら帰ってくれるかい? どんな嫌なことがあったのか知れないが、自棄酒ならこれ以上は家で飲んだ方がいい。他のお客さんに迷惑だ」
そう言いながら、僕がまだ座っているのに、彼は布巾でカウンターを拭き始めた……そこには呑み零したオレンジ色の水溜りや、いつグラスを倒したのかも覚えていないが、透明な炭酸と解け始めたブロックアイスが、来店してすぐにオーダーした皿の下に広がっていた。そして了承もとらずに皿が下げられる。白い陶器の上には、食べ残したフライドポテトがビールでふやけて倍ほどの大きさに膨れ上がっていた。胸のネームプレートには、石田という珍しくもない姓とともに、店長の肩書があった。
あのとき……。
「人生なんてわかんないもんだな」
……仮にあのとき、自分が苫米地弥生(とまべち やよい)に声をかけようとしなければ、……苫米地弥生に近付こうとしなければ……もしくは、中学のとき、いい加減なテレビドラマに影響されて、誤解を受けるようなことを、クラスメイトに言ったりしなければ……、もっと言えば、子供の頃、変な正義感に突き動かされて、近所のユウタを不良中学生から守ったりしなければ……。或いは、卒業パーティーに自分も参加して、あの店にもときおり足を運び、あの大学生たちのように、五月蝿く飲んで騒いで、冴えないサラリーマンをあげつらって嗤い、店長に追い出されるみっともない酔っ払った背中を、冷ややかな目で自分も見送っていたのかもしれない。また、そんな店へ知らずに入っていたことも、奇妙な因果だと思った。
人生なんてわからない。どこで道が分かれて、どう転ぶかもわからない。少なくとも自分は、転げ落ちてばかりだ。
また吐気が込み上げてきて拳を口に押さえ付けながらじっと堪える……その瞬間、何気なく上目遣いに視線を送った、表通りを歩く女と目が合ってしまい、続けて嫌そうに顔をしかめながら、早々に視線を外された。
「お兄さん大丈夫?」
不意に気遣うような声が路地の奥から聞こえ、それが惨めな自分へ宛てたものだと気付くまでに数秒かかった。
口元を手で覆ったまま振り向くと、穏やかな表情が自分を見ている。青年はダークカラーのフライトジャケットを身に付け、やや前傾姿勢で未開封のポケットティッシュを差し出していた。原色遣いの折り込みチラシは付近の店舗名が書いてあるキャバクラだ。
「ええと、……どうも」
ありがたく受け取り、数枚をひっぱり出して口の周りを拭った。
「こんなところに座り込んじゃって、風邪ひいちゃうよ。ひょっとして立てないの? 手貸そうか?」
「ああ、いや……もうだいぶマシになりましたから。本当にありがとうございます」
若いのに随分と人間が出来た青年のようだった。マリンホールで受けた仕打ちの直後でもあり、若者の気遣いが身に沁みる。だが、感謝しながら立ち上がろうとした途端に、足元がふらついた……地面に直接座っていたせいだろうか、どうやら冷えで膝の神経がおかしくなっていた。
「無理しなさんなって」
「ごめんなさい……ありがとう」
すぐに腕を貸してくれようとする若者に礼を言った。パッと見た目には細く見えたが、骨格のしっかりとしている青年のようだった。加えて、気遣いが出来る性格。よく見れば、モデルでも通用しそうなほど整った顔立ち……これで、女にモテない筈がない。そういえば、彼はどう見ても年下に見えるのだが、先ほどから敬語を使う気配もない。そして、そういう臆さない一面ですら、プラスアルファで女ウケはいいだろう……。もちろん、それはイケメンを前提にした話であって、仮に僕が年上の女性にタメ口を聞いたらどういう結果が待っているかとなると、想像するのも恐ろしい。
「少し休んでいきなよ。近くに良い場所があるんだ」
笑顔のままそう口走ったかと思うと、若者は僕の手首を掴んで路地を出た。そして臨海公園駅前東ビルの前を通り過ぎ、商店街を駅とは反対方向へ誘導した。手を引く力の強さに、僕は足を縺れさせながら付いて行く……というより連れて行かれそうになる。
「良いところって……ええと、どこ行くんですか?」
唐突の、思いがけない強引さに面食らって、不安がむくむくと頭を擡げる。僕は青年に質問するが……。
「すぐそこだから。ところでお兄さん、いい会社に勤めてるよね。一流じゃん。フジエレクトロニクスって有名大卒しか入れないんでしょ? お兄さん、頭いいんだあ〜」
「そ、そんなことないけど……」
いい加減な返事で流され、続けて会社の話を持ち出されて、却って戸惑った。そして、どうやら襟章を見ていたらしいと気付く。彼は随分目敏いようだ。確かにフジエレクトロニクスは……それも出向中の部署にいる正社員は皆有名大学の卒業者ばかりなのだろうと思うが、人それぞれということは、僕が身を持って証明している。
ストレス発散のつもりでさんざん飲んだというのに、その主原因である職場の人間関係を思い出させられ、また気分が悪くなってきた。
「いやいや、そんなことないでしょ。さぞかしいい給料貰ってんでしょう? ……お兄さんは随分と倹約家みたいだけど、フジエレクトロニクスの人達って、うちに来ても羽振りいいし、嬢達も同伴やアフターで、鞄買って貰っただの、寿司食いに行っただの、よく聞いてるよ。……あ、こっちだからね」
「ジョウって何……一体さっきから何話して……」
言われている事が相変わらず理解できない。倹約家というのは誤解だ。僕は自分の収入に見合った生活をして、分相応の物を身に付けている。
アーケードの終わりで、また違う路地に連れ込まれていた。両側に並んでいるのは、キャバクラや風俗の店ばかりである。この男が優しく声を掛けながら差し出してくれたポケットティッシュの店もそこにあった……漸く合点が行く。
「最初の1時間はセットだから」
「いや、あの……」
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