神門の奥には、春であれば花吹雪に包まれる桜が、参道の両脇に林立している。その桜の園からは、祭りの準備を急ぐ男達の野太い声が、神域に戦々恐々と響いていた……どうやら絵灯篭の設営の真っ最中といった様子のようである。
 一礼し、神門の先へ足を進めた途端、何者かが脇を通り抜け、九頭は敷石から外へと慌てて退いた。
「お父さん危ないよ」
「どうもすいません・・・」
 鉄パイプの束を肩に抱えた男達が通り過ぎる様子を九頭は見送った。ねじり鉢巻きをしたランニングシャツの屈強な男達が通った後に汗と体臭の香りがほのかに漂う。
 鼻梁からずれた太いフレームを押しあげ、老眼鏡のレンズから労働する男達を暫く見守った。
 近くにいるとまた怒られるだろうかと落ち着かなかったが、目の前の職務に忠実で勤勉な彼らが、奉納灯篭の設営を見守る九頭を、再び邪魔だと咎めることは幸いにしてなかった……もっとも、カミシロ国第92代内閣総理大臣を、道行くお父さん呼ばわりした先ほどの青年も、老眼鏡をかけたジャージとスニーカー姿の男が我が国の現首相だとは夢にも思わなかったであろうが。



 中門鳥居を潜るより早く、拝殿前に見知った後姿を見つける。質の良い夏物スーツに包まれた痩せぎすの背中が、神殿に向かって礼をする。気品あふれるその姿を、彼よりもずっと大柄な男が見守り、別の男たちが、ぬかりのない視線を全方位に配っていた。退陣以降も彼を守り続けている男たちが、この日も職務に忠実であることを喜ばしく思った。
「総理・・・」
 もっとも屈強なSPが一番早く九頭に気づいたようだった。しかし、参拝を終えたらしい彼が反応してしまう。
「森之宮(もりのみや)君、なんでしょうか」
「あ、いいえそうではなく、九頭総理が・・・」
 総理という呼称は、現職でなくとも経験者であれば、死ぬまでそう呼び続けられることは、この国の慣例だ。従って、彼もまた自分のSP達から、相変わらずそう呼ばれているため、どうやらちょっとした行き違いが起きてしまったらしい。
 それにしても、レスリングの元カミシロ代表でもある身長192センチの筋骨隆々とした男が、真夏だというのに暑苦しい黒スーツを着用し、剃り跡の青々としている角ばった勇ましい面を、見事に高潮させてうろたえる姿は、実に滑稽だった。これでは彼のSPが皆必要以上に仕事熱心である理由について、少々穿った見方をせざるをえまい。
「いや、マリちゃんはさすがに気付くのが早いなあ」
「おはようございます、一郎さん……」
 中門鳥居を抜け、白い敷石へ足を進めながら、笑顔とともに九頭が軽快な声をかけると、漸く拝殿前から振り返った彼がやって来た男の名前を呼ぶ。ほぼ同時、大柄なSPが、四角い顔に嫌がっているような顰め面をあからさまに浮かべた。
「九頭総理、僕の名前はマリではなく、森之宮真理(もりのみや まさり)です……前にも何度か申しましたが」
「おはよう秀慈、おはよう諸君」
「おはようございます総理」
 体躯に似合わず神経質な声色で、自分の名前を訂正してくる大柄なSPを目線だけで受け流して、総理大臣自ら一同に挨拶をすると、黒服達が伸ばした背筋を綺麗に45度傾けながら声を揃えて返礼してきた。朝から不機嫌そうな森之宮もまた、同じであったが、いち早く上げた顔には、変わらず神経質な眉間の皺を刻んだままだったことが、心の奥底で九頭を愉快にさせた。この仕事熱心な男と目の前の伊沼秀慈との間隔が、不必要に近く、また、繊細なようでいてどこか抜けている伊沼が、その距離を適切に改めさせない事が九頭の気に障っており、それゆえに非常識なSPへ嫌がらせをしたいというわけではない。単純に、反応が面白く揶揄い甲斐のある男というだけである……もちろん、黒服の分際でありながら、前総理に対して業務に適切なマナーを欠いていることは、まったくもって気に入らないのだが。
「何か……」
「いや、別にね……マリちゃんも暑いのに、黒スーツで御苦労だと思っただけでね」
 またしても神経質そうな目線で問われ、初めて自分がこのSPを無遠慮に笑顔で眺めていたことに気付いた九頭は、不自然がない程度に視線を逸らしつつ、軽く背筋を伸ばしながら応えた。
「仕事ですので……それに、今がとりわけ朝早いというほどではありません」
 確かにそうだろう。総理大臣の仕事は激務だ。それも伊沼秀慈が在任中は、下手をすれば寝に帰るだけの公邸に、滞在時間が五時間を切るということが一ケ月近くも続いていたことさえ、何度もあった。ただでさえ男としては華奢な部類の、この11歳年下の男が見る見る痩せ細っていく姿はまともに見ていられず、辞任を進める言葉が喉まで出かかったのは、二度や三度のことではなかった。
 それでも言い出せなかったのは、伊沼が国家主権を取り戻すという情熱を、まだ1年生議員だった20年前からずっと胸に抱き続け、総理大臣となった3年前の初夏、その職務に命を捧げる覚悟でいたことを知っていたからだ。


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