次に目が覚めた場所が、幼馴染が住むこの部屋だったのだ。
  問いかけた質問……なぜ自分がここにいるのかという疑問へ回答はなされぬままだった。 ムンファは教えてくれなかったが、大体のことは想像が付く。 恐らく命からがらスタジアムを脱出したパジュはどこかで倒れており、自分を知っている同胞の誰かがムンファへ知らせてくれたのだろう。
  あの両性具有を二度目に抱いたとき、木船スタジアムへは『一心会』が来ていた。 銃撃戦で仲間達は次々と倒れ、今ほかに生きている者がいるとも期待はできない。
  仮に同郷の彼らが生きていたとしても、あの醜態が『ブトウレン』の上層部へ知れたら、制裁は免れないだろう。 ただでさえ自分たちは、統制が利かない跳ね返りだと睨まれているし、上の連中は警察やOGPとの揉め事を嫌う。 少なくともグループの解散を覚悟するしかあるまい。
「だりぃな……」
  不意に喉の渇きが気になった。
  痛みを堪え、派手な柄のカラフルなブランケットを壁際へよけると、寝台から抜け出す。 身体のあちこちへ押し寄せる鈍痛と、霞みがかかったようにはっきりとせず、重い頭、……それらが、寝ている間に投与された鎮痛剤か何かの副作用だろうと見当を付ける。
  着ているスウェットに覚えがないところを見ると、恐らく幼馴染が着替えさせてくれたのだろう。 自分との体格差を思えば、脱がせるのも着せるのも、さぞかし苦労した筈だ……申し訳ない。
  それにしても、一体自分に何が起きたのか、まったく覚えていない。 わかっているのは、手足どころか、指一本ですらも思うように動かせない事実だけだ。
「畜生……」
  喉の渇きを癒すべく、部屋の隅に見えている小さな台所へ行くというだけなのに、どう見てもたった数歩の距離でしかない、ベッドとの間隔が、今は数百メートルにも感じられる。 何度もあちこちで身体をぶつけ、その度に倒れそうになる。 折り畳まれた座卓や屑籠を倒し、安っぽいブックシェルフから文庫本を10冊ばかり床へバラ巻く……ムンファが好きそうな人気ミステリー作家の探偵シリーズだった。 時間をかけて、ようやく銀色の流し台へ辿りついた。
  水きりワゴンからガラスのコップを取って水道水で満たし、生温くカルキ臭いそれを一気に呷る……。 しかしコップの水を呑むという、それだけの行為が上手くこなせず、盛大に足元へ零してしまう。
「なんだってんだ……まったく」
  もう1杯水を汲んで、同じように呷り、同じように失敗した。 おまけにコップを手から滑らせ、足元でガラスを真っ二つに割る。
「やっちまった……」
  破片を拾いあげようと、身を屈め、バランスを崩して、その場に跪く……その瞬間、パジュは不意に視界へ飛び込んだものが、何であるのかを理解できなかった。 たとえるならば、ホラー映画のポスターか、あるいは心臓に悪そうな恐怖系マスクといったところだろうか……しかし平均的な女の感覚を持つ幼馴染に、そのようなキワモノ趣味があるとも思えない。
  もう一度それが見えた辺りへ視線を戻す。 質素だが女らしいこの部屋のどこにも、悪趣味なポスターやマスクなど飾られてはいない。寝室の一画には、たった今まで自分が占領していた、アグリア人の男には、かなり狭いベッドと、小さなクローゼットがあるだけだ。
  僅かに扉が開いているクローゼットには、彼女が部屋着にしているのであろう、地味なスウェットの上下が見えている……それが、今自分で着ているものとよく似ていて、ペアであるように感じられて、なんだかこそばゆい。 スウェットの隣には、マホロバ駅前にいる街娼達が好んで着そうな、色鮮やかなドレスやワンピース、派手なショールなどが数点並んでいた。
  結局、何を見間違えたのかがわからず、もう少しクローゼットへ近付いてみる。 バランスを崩しながら立ちあがろうとし、……パジュは再び目を疑った。
「なんだよ……今の……」
  あらぬものが見えた角度へ、ゆっくりと上半身の姿勢を戻した。
  クローゼットの扉には、細長い鏡が設置されており、姿見になっている。 そこで灰色のスウェットを着た怪物が、無様に薄暗い台所で跪き、鏡を見つめていた。 怪物の頭は包帯が何重にも巻かれ、分厚いガーゼ越しにも、頭の形がデコボコと歪んでいることがわかった。 そして鼻の上を通過している包帯の下は、大きく抉れ、斑なピンク色にぼんやりと染まっている……包帯が汚れ、恐らく血に染まっているのだ。

「…………っ!」

  どうなってんだよ……、そう言おうとしたパジュの声は、しかしくぐもった呻きでしかなかった。 思わず自分でその部分を探る……すると鏡の中にいる、スウェットを着たミイラ男も、同じように手を動かし、斑模様の包帯で覆われた顔へ触った。 指先に湿った感触が伝わり、つい先ほど水を呑もうとして失敗していたことを、即座に思い出す。

  嘘だろ……これが俺だっていうのか……?

  よく見るとミイラ男の顎は奇妙に抉れていた。 包帯で覆われた右の眼窩も、生々しい肉の塊が頬まで見えており、そこに眼球があるのかないのかすらもわからない状態だ……この狭い部屋を横切るだけの移動で、あれほどあちこちに身体をぶつけた理由がわかった……片目が見えていないのだ。
  まるでゾンビのような惨状になって尚、こうして意識が戻り、歩ける体力は、強靭なアグリア人の回復力のなせる業と言えるが、怪我に比して痛みがそこまで酷くない原因は、強力な鎮痛剤を飲まされているせいだろうと想像できた。
  おそらく自分は、もう暫くの療養で、日常生活が支障なく送れるまでに回復出来るのだろう。 だが、この顔はどこまで戻るのだろうか……。 包帯に覆われ、歪に形を変えた頭は、ガーゼの下に毛髪どころか、頭蓋骨すらも、本来あるべき形が残されているとは思えなかった。 脳みそが一体どうなっているのか、自分でも疑問だ。 何より、どう見てもこの顔には下顎があるように見えない……これから先飲食ができるようにも思えなかった。
  この状態で生き長らえる人生とは、どれほどの価値があるのだろうか……。

「ふぉおおおおう……ぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……」

  わけもなく叫んでみると、不思議な事にそれは思った通りの声とになって現れた。 パジュはそのまま、幼馴染が住む小さなアパートの一室で、本能の求めるまま暫く叫び続けた。

fin.