アリーヌと別れた俺はシャンゼリゼまで車を飛ばすと、まだ開店前の一軒の店へ入った。
シャルル・ジョルダンやヴァージンメガストアが立ち並ぶシャンゼリゼの並木道で、立地条件だけは超一流の<パリの顔>とも言うべきこの場所に、ひときわ怪しげな佇まいを見せる一軒のギャラリー。
メトロポリタン美術館やオルセー美術館にあるはずのモネやゴッホといった名画を、平気で売買しているここのオーナーは、ギャラリーのくせに夕方六時を回らないと店を開けない。
しかも一見さんはお断り。
俺はシャッターをガンガン打ち鳴らすと店が開くのを待った。
しばらくすると目の前のシャッターがガラガラと持ち上がり、青白い顔をした長身の男が姿を現す。
「何の真似だ。まだ昼の二時だぞ」
「もう昼の二時だ」
「いいから入れ。太陽光線を浴びると、俺は骨から溶けてなくなるんだ」
アドルフは俺を店に引き入れると、再びシャッターを下ろした。
 

「今日は年に一度のデートの日じゃなかったのか?」
目の前に差し出されたコーヒーに手を付けようかどうしようかと戸惑っていると、
「安心しろ。睡眠薬や催淫剤の類いは一切入れていない」
その言葉を立証するように、アドルフは自分のカップと入れ替えてコーヒーを口に運んだ。
「ああ、アリーヌとはさっき別れたばかりだ」
足元にアドルフの飼い猫モンブランが擦り寄ってきて一声鳴いた。
彼女を膝に引き上げながら俺は話を続ける。
「来月彼女の結婚式があるんだ」
「めでたいじゃないか」
アドルフはソファの背に肘を立てて、薄金色の髪を気怠そうに掻きあげた。
「だが俺は呼ばないって言われた。ついでに一生顔も見せてくれるなとも」
猫の口元にカップを持って行くと、モンブランは焦げ茶色の飲み物を美味そうにピチャピチャと音を立てて舐め始めた。
白い口元が一気に茶色く染まってゆく。
「そいつはまた…、ショックだな」
「まあな。自分で撒いた種といえばそうなんだが、やっぱりそこまで嫌われていたのかと思うと、父親としては辛いもんだ」
「べつに嫌われているってわけじゃないだろう。嫌っていたら、例え一年に一度とはいえ、わざわざお前と会ったりしないんじゃないのか?」
「そう思うか?」
「ああ。嫌いだから呼ばないんじゃなく、それはつまり……相手の、なんて言ったっけ?」
「ド・カッセル家か……」
「ああ、伯爵家だっけ? そっちのご大層な親御さんに引き会わせて、お前に恥を掻かせたくなかっただけだろう」
「お前それ慰めてんの?」
「そのつもりだが……、なんだ、どこか気にいらないのか」
「俺って恥ずかしい父親だって、言われたような気がしたぞ」
「そう聞こえたら悪かったよ。でも、出してやったコーヒーをウチのモンブランに毒見させているヤツに、そこまで気を遣う必要もないだろう」
「生憎、俺の寝込みを襲った野郎から出された飲み物を、バカ正直に口へ運ぶほど、めでたくはないんだよ」
「一度だけだろう。しかも学生時時代の話だ。それに抵抗したから止めてやったじゃないか」
「あれ以上やったら、強姦っていうんだぞ」
友達づきあいを存続してやっているだけでも感謝しろよ。
「とにかく俺にいわせりゃ、アリーヌが言ったことなんて、気にする必要はないってことさ。そもそも昔も今も、お前は彼女に父親らしいことなんて何一つしてこなかっただろう。だったらアリーヌだって、今さらお前にそんなものは求めちゃいないさ。……そんな顔するなよ。俺はべつにお前を傷付けようとしてこんなことを言っているわけじゃない。まあ最後まで聞けって。……つまり、それでも彼女は今までお前と、繋がりを絶とうとしなかった。だから年に一回の彼女の誕生日……そんな特別な日に、お前のためにわざわざ時間を割き続けてきたんだろう? だったらそこに、彼女の本心があると考えていいんじゃないのか?」
「お前の言ってることって、よく判らないよ」
不貞腐れた顔で青白い面を睨みつけている俺に、彼は大袈裟な溜め息を吐いて見せた。
「これだから、ストレートのヤツは駄目なんだ」
そしてソファから半身を乗り出し、細長い両手を振り回して熱弁をはじめる。
「……あのな、言葉には表と裏ってもんがあるんだよ。つまりアリーヌがお前と付き合いを絶とうと思えば、そんなことはいつでも出来たんだ。だけど彼女は今までそれをしなかった。だが今になって、もうお前と会いたくはないと言ってきた。そこに考えられる理由は何だ、言ってみろ?」
「だから……俺みたいなヤクザもんにウロウロされると、迷惑なんだろ?」
そんなこと俺に言わせるなよ。
すると意外と大きな手が伸びて、素早く視界を横切った。冷たい感触が軽く頬を刺激する。
「額面どおりに考えてどうする」
「叩くことないだろう……」
痛くもない頬を押さえて、俺は言う。
「だから、彼女にそう言わせているヤツは、一体誰なのかって考えてみろよ」
俺の言葉を無視して彼は言葉を添えた。
「……ド・カッセル家ってことか?」
「ああ。……それとたぶん、ジュスティーヌの両親だろうな」
「そうか」
それはそれで、悲しい気がした。
「でもアリーヌの本心は、きっと違うと思うぜ」
「……」
「彼女がお前を望むなら、きっとまたいつか会えるようになるさ。お前がそれを信じてやらないでどうするんだ」
「お前……いいこと言うじゃないか、たまには」
頬を押さえて彼を睨みつけたまま、俺は言った。
少しだけ、胸の奥が熱くなる。
「伊達に46年もゲイをやってないさ。少なくともストレートの男よりは、心の駆け引きに長けていると思うぜ」
乗り出していた身を引き、ふたたび背もたれへ体重を預けると、彼は目を細めて微笑む。
黒いシルクシャツに包まれた痩せた身体が、しどけなくソファに流れた。
「そういうもんなのか?」
「とくに、失恋した間ナシっていうのは、嫌でも敏感になるもんさ」
淡い色の瞳が、物言いたげに宙を彷徨う。
「失恋か……」
こういうのも、一つの失恋になるのかもしれない。
そこまで考えて、俺はハッとした。
「……そういえばお前、マルセルはどうしたんだよ」
考えてみれば、ここ数日彼の恋人を見ていない。
「ゴッホやルノワールとともに、三日前から行方不明さ」
彼が仕事で扱っている、コレクションのことだ。
「それってまさか……」
嫌な予感がした。
「逃げられたんだよ。ついでに金庫の中身も綺麗になくなっていた」
「おい、警察……」
言ってか気が付いた。通報できるわけがない。
アドルフもまた、俺と同じ日陰者の身だ。
犯罪者がさらに狡猾な若者に騙されたからといって警察に訴え出ていたら、この国の犯罪件数はもっと減少しているだろう。
そして俺も彼も、とっくに刑務所の中にいる。
「情けないよな……」
「ああ。……お互いな」
俺もアドルフも所詮、小悪党ということだ。
「盗られたモン、今さら愚痴ったって始まらないとして、問題はこの先どうするか、…なんだよな」
「これからって、お前べつにギャラリーなんか止めたって、いくらでも食って行けるだろう」
アドルフの本業は、高給取り相手の人材斡旋業だ。
それも、大っぴらにゲイバーなどへ足を運ぶことの出来ない、そちらの趣味を持った政治家や弁護士に少年の出張サービスをして、とんでもない金額をふっかけるという、口が裂けても綺麗とは言い難い仕事である。
「まあな。先月やった、スタッフの大幅な補充が利いたせいか、ここのところコンスタントに予約が入ってきている。固定客からの紹介も段々増えてきたしな。お蔭さまで、売上は右肩上がりに伸びているよ」
そんな彼にとって、ギャラリーはあくまで副業みたいなものだ。
もとはといえば、彼が派遣スタッフの人材確保を行なっている、いくつかのゲイバーがバスティーユにあり、そこでたまたま美大生のマルセルと知り合ったことがこの仕事の始まりだった。
二人は酒を飲みながら話をしているうちに意気投合をして、顧客相手に名画の贋作を大金で売りつけるという、とんでもない商売を思いついたというわけだ。
もちろん客の方も贋作と判っていて金を出す。
アドルフに売りつけられたら、どんな酷いコピーだろうが500万でも1000万でも金を積むだろう。
まったく、いつ刺されても可笑しくない仕事だった。
「だったらこれを機会に、ギャラリーなんか止めたらどうだ? 潮時じゃないのか」
俺はあくまでアドルフの友達として警告した。
だが淡いブルーの瞳は、一瞬だけ俺を映し、そしてまたすぐに逸らされた。
「そんな簡単に止められるわけないだろう」
「アドルフ……」
アドルフがマルセルと恋に落ちたのはまったくの計算外だったが、付き合って一ヶ月も経たないうちに根こそぎ売り上を持ち逃げされたということは、アドルフには気の毒だが、彼が思っているほどマルセルは本気じゃなかったということだ。
あるいはマルセルのほうが先に潮時だと思って身を引いたのか……、おそらく両方かも知れない。
いずれにしろ、マルセルがアドルフと同じか、それ以上に狡猾な男だということだけは間違いない。
それを認めるのは確かに辛いが、意地を張って続けるにはこの仕事はリスクが多すぎる。
「悔しい気持ちはよく判るが、ムキになって続けていたって意味はないだろう。お前だってこの仕事の持つ危険性を忘れたわけじゃないだろうに……」
「ああ、俺もあまり手を広げるつもりはないんだが、そうは言っても予約だけはちゃんと消化しないと、信用に関る」
「予約って、何の予約だ?」
「ゴッホが三枚、モネが一枚……、それからエバレット・ミレーが一枚・・・オフィーリアだ。なかなか趣味がいい客だよな」
色の薄い唇が、淡々としたビジネス口調でそう言った。
「まさか、需要があるっていうのか? 贋作のくせに」
「その贋作をありがたがって、応接室やオフィスの玄関に飾りたがる物好きがいるんだよ。金持ちの考えることって、判らないよな」
それは贋作と思っていないから、飾りたがるんじゃないのか?
「お前、そのうち本当に誰かに殺されるぞ」
「俺は嘘を吐いていない。客が勝手に勘違いしているだけだ」
アドルフは悠然と笑みを浮かべた。
「だいたい『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』やゴッホの『自画像』を50万フランで買おうとする連中だぜ。こんな話、信じる方がどうかしているだろう」
どちらもオルセー所蔵のフランス名物だ。
本物なら当然50万ごときで買える代物じゃない。騙される方がどうかしている。
つまりその客は、相当の美術オンチということだ。
確かに当分バレる心配はないかも知れない。
まあバレたとしても、アドルフに文句が言える彼の顧客は、皆無だろうが……。
「この悪徳オカマが」
「ぼったくりタクシードライバーに言われたくないよ」
そのとき、膝の上でおとなしく座っていたモンブランが、何を見つけたものやら突然ドアの向こうに飛び出した。
俺はたった今まで彼女が口をつけていたマグカップを見つめて、一瞬躊躇し、思い切って口に運んでみる。
途端にキリマンジャロの芳醇な香りが、口一杯に広がった。
<アルプスの女王>の名を持つ猫は、どうやらアフリカの<輝ける山>がお好きなようだ。
ふと見上げるとカップ越しにアドルフと目がかち合い、お互いに少しだけ気まずくなる。
俺はカップを下ろして苦笑した。
「断るしかないんじゃないのか?」
どっちにしろ、マルセルがいないんじゃ話になるまい。
贋作とはいえ、画家がいなければ商売は成立しない。
「信用に関る」
神妙な顔でアドルフが言った。

アドルフの店を出たあと、俺は行く当てもなくフラフラとシャンゼリゼのショーウィンドーを眺めて歩いていた。
するとそこへ、覚えのある声が耳に飛び込んでくる。
「なんだよっ、このケチ!」
観光客やビジネスマンがごった返すパリ随一の大通りで、オープンカフェの軒下から、野良猫よろしく文字通りつまみ出されていた子供を見つけ、俺は「あ!」と指さした。
「頼んだってお前の店なんか、二度と入ってやんないからな!」
野良猫はF10サイズのスケッチブックを片手に、店のドアに向かって舌を見せていた。
パーカーの背中に逆立てている毛まで見えてきそうだ。
「おい、坊主じゃないか」
いつまでもギャルソンに向かって百面相を続けている少年のフードを掴むと、俺は道の脇に彼を引き寄せる。
これ以上通行人の注目を集めると誰かが通報しかねない。
「放してよ、猫じゃないんだから!」
「おっと間違えた。これは失礼」
少年は身体を揺すって俺の手を振り払う。
その拍子に小さな肩からカンバス製の大鞄がずるりと落ちて、道路に画材が散らばった。
足元に転がる、セヌリエやセーブル社製のチューブや絵筆。
どうやら水彩画が専門らしい。
「店員から派手につまみ出されていたけど、無銭飲食でもしでかしたのか?」
どれもよく使い込まれた絵筆や絵の具を拾うのを手伝ってやりながら、何気なく聞いてみた。
「人聞きの悪いこと言わないでよ。ちょっと椅子借りただけなのに、あのギャルソン、まるでホームレスを追い払うみたいに人のこと追い出しやがって……」
ずいぶん手ひどい扱いを受けたらしい。
「でもここはカフェなんだから店に入って注文しなきゃ、そりゃ店員だって怒るだろうさ」
「中じゃないよ、外だよ」
「テラス席でも店は店だよ」
「いいじゃんあんなガラ空きなのに」
そう言って絵筆を持ったままの小さな手が、赤屋根の美しいカフェの店構えを指差した。
「まあ確かに暇そうだけどな……。でも一体なんだって、勝手に椅子なんか借りたりしたんだ?」
ほとんどペタンコになるまで使い切られた、微妙な色合いの黄色いチューブを少年に手渡してやると、それを不機嫌に受け取った彼は、パッと小さな背中を向けて、
「あれだよ」
緑の並木道から美しく威容を見せる白亜の建造物を指差した。
「凱旋門?」
「そう。ここから凄く綺麗に見えるでしょ?」
「なるほどね」
たしかにこのテラスはベストショットだ。だからといってカフェの軒下で、スケッチブックを広げていいということにはならないが。
少年を見ると、拾い集めた絵の具や筆を無造作に鞄へ突っ込んだあと、未練がましく凱旋門を見上げ、ションボリと肩をおろしながら立ち去ろうとしていた。
「待てよ坊主」
呼び止める声を無視して少年は歩き出す。
俺はその後を追いかけると、
「なあ、もう諦めるのか? お前ここで凱旋門をスケッチしたかったんだろ?」
「いいよ。べつにここじゃなくても凱旋門は見えるんだから。また他を探せばいい」
「よく言うぜ。あんなところでスケッチブック広げるぐらいなんだから、よほど拘りがあったんだろう? なんだったら俺がコーヒー奢ってやってもいいぜ。そしたら店員だって文句言わないだろうしさ……」
ヨレヨレのTシャツにくたびれたパーカー、それに裾の擦り切れたジーンズ。
……おまけに少々匂う頭。
画材こそ、その拘りのせいか一級品を使っていたが、見るからに金がなさそうなその見てくれは、聞かなくてもコーヒー一杯注文する余裕もなくて、泣く泣くベストショットを諦めるのだと物語っていた。
「冗談じゃない。あんな失礼な店こっちから願い下げだよ。何があったって入ってやるもんか!」
「あの店が気に入らないんだったらさ、俺がもっといい店紹介してやるよ。といってもシカゴピザだけど。このすぐ近くにあって、そこのテラスから見る凱旋門もなかなか優雅なもんだぜ。どうせメシ時だし、そこでなんか食えばいいよ。坊主も腹が減っただろ?」
「あのね、オジサン」
とつぜん坊主が立ち止まった。
「どうした坊主?」
「さっきから人が大人しく聞いてれば坊主、坊主って……、あたしの名前は、河上ミノリ! れっきとした女で、しかも22歳!」
坊主……いや、彼女はそれこそ顔を真っ赤にして、俺を睨みつけていた。


タバスコを一本使い切る気かと思うほど毒々しく真っ赤に染め上げたピザを一枚まるまる食べきると、ミノリはナプキンで口元を拭い、手を合わせてゴチソウサマと唱えた。
「どういう意味だ?」
「お腹一杯って意味だよ」
ナプキンをクシャクシャと丸めてテーブルに放り投げると、ミノリはLサイズのカップからストローを刺した蓋を剥ぎ取り、コーラの直飲みをはじめた。よほど腹が減っていたのだろう。
「坊主……あ、いやミノリは留学生なのか?」
俺は呆気にとられながらそれを見守り、注文したセブンナップを飲みながら、煙草を吹かしていた。
「違うよ。ただの絵描き志望さ」
「学校に通わないで自力で勉強ってところか。エライじゃないか」
「そんなんじゃないよ」
そう言うとミノリは殻になったカップをテーブルの上でグシャリと捻り潰し、
「ぼったくりタクシーにみんな持ってかれたのさ」
「え」
俺は煙草を口に咥えたまま、思わず固まった。
「ロワシーに着いた途端、変なタクシーに捕まってしまって、ナイフ突きつけられて、有り金みんな盗れちゃったんだよ……、チクショウ!」
「ひでぇな、そりゃ……」
俺が言えた義理じゃないだろうが、そこまでやれば立派な強盗だ。
「警察には行った?」
ミノリは首を横に振った。
「行ったけど、車のナンバーや形式も判んないし、大体料金メーターの付いてないタクシーに乗るほうが不注意だって説教受けて、それでオシマイ。こっちは人相描きまで用意してやったってのに、クソッ……、あの刑事、ツーリストだと思ってバカにしやがって!」
「人相描き用意して……って、自分で描いて持って行ったのか?」
「そんなわけないじゃん。でも刑事があんまりヘタっぴな絵しか描かないから、途中でふんだくって描いてやったんだよ」
「さすが絵描き志望だな……」
ミノリは大きく溜め息を吐くと、
「アタシだって自分が不注意だったことぐらい判っているし反省もしているよ。でも、少しでも切り詰めようと思って、三箇所も乗り継いでパリに着いたもんだから、頭が朦朧としていてさ。身体は鉛のように疲れきっていたし、声かけてきたタクシーに、ついフラフラ入っちゃったんだよね……」
「ああ、判るよ」
だからそのドライバーは、彼女に声をかけたのだろう。俺たちにとって、そういう若いツーリストが、まさに狙い目なのだ。
そいつは到着ダイヤを頭に入れた上で、彼女が乗り換えを重ねてやって来た日本人だと、すぐに見破ったはずだ。
俺がその場にいたとしても、間違いなくミノリに声をかけていた自信がある。
「でもさぁ〜、こっちは親の反対押し切って留学決めて、一年もかけて溜めた軍資金だったんだよ? 酷いじゃん、それみんな持ってっちゃうなんてさ……ありがと」
捻り潰したカップを手にしたまま、不貞腐れた顔でだんだんテーブルに沈みこんできたミノリの声に、僅かに涙が混じりはじめていた。
俺は未使用の紙ナプキンをテーブルから取り上げて手渡すと、彼女はそれを受け取って、おもむろに鼻をかんだ。
周りに座っていた、おそらくは彼女と年の変わらないであろう同国人の女性たちが、驚いて振り返る。
「でさ、お前今どうしてるんだ?」
強盗タクシーに遭って有り金を奪われた彼女が、どうやってパリで暮らしているのか不思議だった。
「まさかと思ったけど、こんなこともあろうかと用心してね……」
そう言うと、ミノリは突然その場でブーツを脱ぎ始めた。
先ほどの日本人女性客が、今度こそ真剣にこちらを睨んでいる。
俺は極力、そのテーブルから顔を背けて彼女たちと目を合わさないように務めた。
今苦情を言われても、言い返せる自信がない。
「……マジかよ」
ケチャップのこびり付いた紙皿の上に、差し出された重厚なつくりのワークブーツ。
靴底へ施された仕掛けに、俺は思わず目を瞠った。
ミノリが靴底のシートを爪の先でペロリと捲った隙間から、パッと見ただけでも500フラン紙幣が20枚以上は見えていた。
左足にも同じ仕掛けが作ってあるという。
「なんだよ……それじゃあ、べつに日本に帰れなくて困っている訳じゃないんじゃないか。どうして帰らないんだ?」
「帰る? なんでアタシが帰らなきゃならないのさ。それじゃあ、まるきり強盗に遭うためだけにパリに来たみたいじゃん。アタシはここで絵を勉強するために、コツコツ一年間もバイトしてきたんだよ? 強盗なんかにくれてやるために働いたわけじゃない」
「そりゃ判るけど…、待っていたって犯人はたぶん捕まらないと思うぞ。そんな被害はここじゃ日常茶飯事だ。安全な日本とは訳が違う」
ミノリには気の毒だが、警察だっておそらくまともに捜査する気はないだろう。
「判っているよ、そんなこと」
「だったら、まだ帰りの飛行機賃が残っているあいだに、日本へ帰ったほうがいいんじゃないのか? その様子じゃ、まともに宿にだって泊まってないんだろう? ……その、一応女の子なんだしさ」
「一応ってのは余計だよ。ご忠告ありがとう。でもアタシは帰る気なんかないよ」
そう言うとミノリは早々に席を立った。
「おい、どこ行くんだ…」
俺も後を追うように店を出ると、
「大体親も心配しているんじゃないか? 犯人探しなんて馬鹿なことはやめて……」
「そんなんじゃないよ。犯人なんてアタシも捕まるとは思ってない。でもこのまま帰るのだけは嫌だ。たとえ野宿したって、食べるもんがなくなったって……」
意気込みながらミノリは肩を怒らせて、ふたたび凱旋門に向かって歩き始めた。
小さな身体に、斜めがけにされたカンバス地の画材入れが、不釣合いなぐらいにダラリと、お尻を覆う大きさで重そうにぶら下がっていた。
「そいつは気合だけに留めとけよ」
その後ろを、咥え煙草で俺は歩く。
「だいたいオジサンさっきからなんでついてくるの? ピザを奢ってくれてありがとう。でもこれ以上ついてくると警察に通報するよ」
「オットそいつだけは勘弁してくれ」
洒落にならない。
「でも君がここにどうしても残るっていうんなら、ちょっと紹介しておきたいヤローがいてね」
「紹介?」
あどけない顔が立ち止まって、不信そうに俺を振り返る。
こうしてみると、本当に娘と同い年には見えない。
「まあ俺を信じてついてこいよ」

「何の真似だ、まだ昼の5時だぞ」
「もう夕方の5時だ」
どうやら再び寝なおしていたらしいアドルフを押しのけて、俺は半分まで引き上げられたシャッターから腰を屈めて店の中へ入った。
「紹介したいヤツがいる。……入れよ」
相変わらず気怠そうな顔をして俺を見下ろしている彼にそう告げると、俺はシャッターの下から顔を覗かせて、外で待っていた同行人を引き入れた。
「なんだ、……可愛い少年でも連れて来てくれたのか?」
欠伸を抑えようともせず、興味がなさそうな顔を見せてそう言う彼を無視した俺は、同行人が中へ入りやすいように、シャッターの下を少しだけ広げてやる。
小さなそのシルエットが露になった瞬間、無表情だったアドルフの目に一条の光が灯った。
「これはまた……」
「紹介する。ミノリだ。日本から絵を勉強しに来ている。……アドルフ?」
訳のわからない店に連れてこられて、居心地が悪そうにキョロキョロと辺りを見回しながらミノリが立っている。
アドルフは彼女を見つめたまま、声を無くして、血の気がない薄い唇をポカンと開けていた。
「おいアドルフ、聞いているか?」
反応を見せない彼に声をかけると、アドルフは吸い寄せられるようにミノリの目の前まで足を進め、形の良いその指先で彼女の頬をツルリと撫でた……。
茫然とされるがままになっていたミノリの肩が、冷たい感触にビクンと跳ね上がる。
そして次の瞬間、黒い目がカッと見開いたかと思うと、真正面にあったアドルフの薄い胸を、両手でドンと突き飛ばした。
「何すんだよ、このクソジジイ!」
線の細いアドルフの華奢な体は、小柄なミノリに弾き飛ばされただけで、無様にその場で尻餅を突いていた。
それでも尚、薄い色をしたその双眸は、ぼんやりと彼女へ釘付けになっている。
俺が呆気に取られてその様子を眺めていると、突然隣から力強く肩口の生地を握り締められ、そのままグイっと下へ引っぱられた。
「ちょっとどういうことだよアンタ! バイト紹介してやるっていうからついて来たのに、一体何なんだ、この気色の悪いオッサンは?!」
間近で怒鳴りつけられた鼓膜が、キーンと不快な耳鳴りを響かせた。俺は顔を顰めつつ、それでも旧友に確かめずにはいられない。
「おい、アドルフ……、お前、いつから女が好きになったんだ?」
学生時代からの古い付き合いで、彼が女を前に今のような反応を見せたことは、俺が知る限り間違いなくはじめてだ。
「女……?」
床に腰を付けたまま、ぼんやりとアドルフの白い顔が俺を見上げた。
魂を失いかけていた表情に、見る見る冷静さが戻ってくる。
「お前、そういうことか……」
なるほど。
などと失礼ながら俺は納得をしつつ、彼とミノリの顔を交合に見比べてみる。
身長こそ俺より十センチ以上も高いが、アドルフの線の細い青白い顔、そして焦点の定まりにくい病的なまでに艶っぽい目つき。
片や、ミノリの気の強そうな黒目がちの瞳と不揃いな黒髪、そして化粧っけゼロの日に焼けた健康そうな褐色の肌。
まったくもって、性の境界線なんて、いいかげんなものである。
俺が勝手なことを考えていると、ミノリが女と判った瞬間、興味を失ったらしいアドルフがさっさと腰をあげ、続けて要らないセリフを吐いた。
「まったく、ストレートのくせになかなか目が利くと感心してみれば……。おい、ピエール、ここに女を連れてくるだなんて、一体どういう了見だ? いくらマルセルに手酷く捨てられたとはいえ、有り金も全て奪われたからといって、女に走るほど俺は落ちぶれちゃいないぞ」
黒いシルクシャツに包まれた細い括れに、華奢な両手を沿えたポーズで俺を見下ろしながら、まったくもって横柄な口調でアドルフはいった。
ゲイにとって異性と恋愛することは、落ちぶれることに繋がるらしいということを、俺はこのとき初めて知った。
「待ってくれ。何が楽しくて俺がホモの仲介などしてやらなくちゃいけないんだ? 誤解するなアドルフ。そんなつもりじゃない」
俺はすぐにアドルフの誤解を解いてやる。
それにしても、ミノリのような容姿がアドルフのストライクゾーンだったとは、さすがに俺も気が付かなかった。
当のミノリは、この展開に気を良くするはずもなく、画材を詰め込んだカンバス地の鞄を肩から斜めにかけて、反対側の手にスケッチブックを抱えたまま、もの凄い勢いで俺を睨みつけている。
アドルフの言う『目が利く』というのがこういうことを言うのだとしたら、やはり俺にはホモの審美眼なんて判らない。
「それじゃあ一体何の目的でここへ彼女を連れてきた? ここに女のいる場所なんかないぞ」
今にも噴火しそうなミノリの怒気に気が付かないのか、それとも突き飛ばされようが、怒らせようが、相手が女ではまったく堪えないのか、アドルフは相変わらず薄金色の髪を気怠そうに掻きあげながら、また一つ大きな欠伸を吐いた。
黒シャツにタイトな黒レザーパンツという黒づくめの装いが、アドルフの病的な面を、さらに白く惹き立てている。
「まあ聞けよ。マルセルはお前にとって恋人だっただけじゃなく、ビジネスパートナーでもあったんだろう?」
「それがどうかしたのか」
「いいからこれをちょっと見ろよ」
俺はそう言うと、彼女からスケッチブックを奪い、アドルフに渡した。
適当にページを捲る彼の顔が、少し変化する。
「ふん……上手いじゃねえか。まあマルセルほどじゃないけどな」
不承不承といった褒め方に苦笑する。
しかし隣でミノリの目に殺意が燻り始めていた。
焦って俺は続ける。
「ゴッホに、モネ……、それにミレー。予約は目白押しなんだろ?」
ページを捲っていたアドルフの手が、ふと止まる。
それは『サモトラケのニケ』の前で描いていたデッサンだった。
首のない大理石像の前で、カメラを構えた群集が、思い思いの顔で美術品を鑑賞していた。
彼らを前に古代の女神は、ほんの背景でしかありえない。
ダリュ階段の踊り場を忠実に再現している、日常を切り取った何気ない光景が、そこには生き生きと再現されていた。
「君、油絵はいけるのか?」
スケッチブックからは目を放さず、アドルフがミノリに聞いた。
もうすっかりビジネスの顔だ。
「今は水彩専門だけど、四年間大学で専攻していたのはそっちだよ。……っていうか、一体なんの話してんのさ? ゴッホだとか、ミレーだとか、訳わかんないよ」
未だに不満を隠そうともせず、ミノリは直接アドルフに聞いた。
「言っとくが、俺はこれでも仕事には煩い男だ」
そんなミノリの質問に答える様子も見せず、アドルフは勝手に話を進める。
「金を貰う以上、期日はちゃんと守ってもらいたい。クライアントが精度に納得いかないと言ってくれば、もちろん一からやり直してもらう。その代わり、君には売上から50パーセントのマージンを保証する」
「ちょ……ちょっと、どういうこと……」
肝心な仕事の説明もなしに、一方的に提示された好条件を思わせる儲けの数字。
概要すらも掴めないまま、勝手に進められてゆく仕事の話に、不安を隠せない少女の顔が、俺に助けを求めてくる。
俺はその質問へ答える前に、アドルフへもう一度確認した。
「その50パーセントっていう数字は、絶対に変らないのか?」
「当たり前だ。仕事を取ってくるのは俺。顧客は店の常連客だ。長年に渡る信頼関係の上に成立出来る売買契約だぞ。それ以上譲れるか」
俺の質問に金銭感覚が桁違いなアドルフは、機嫌悪く返事した。
だったら一枚上げるごとに、約25万フラン。文無しに近い美術留学生には、想像も出来ない大金のはずだ。
「その話引き受けた」
俺は即答した。
「ちょっ……、アンタ、何勝手に話返事してんだよ! そもそも、あんたら一体……」
慌てふためくミノリの肩に両手を添えると、俺は彼女の不安そうな黒い目を覗き込み、
「悪いことは言わない。ミノリ、この仕事は受けておけ」
ミノリは唖然と口を開けたまま、驚きのあまり言葉も出てこない様子だった。
俺の返事を耳にするなり、アドルフが店舗の隣にある事務所兼、彼の寝室へ入り、すぐにA4版のバインダーを手にして持ってきた。
半透明のプラスティック表紙を捲ると、クリアファイルから何枚かの書類を取り出して、それをミノリに提示した。
「これがアーティスト契約書と誓約書だ。ここに描いてある内容をよく読んで、下にサインをしてくれ。それが終わったら、あとで作業工程表を渡してやる。工程表は写しだから、そのまま持って帰ってもらって構わない」
青白い病的なその風貌からは想像し難いビジネスライクな口調で、アドルフはミノリに早口で説明した。
そして仕度金として5万フランの小切手を差し出されると、とりあえず自宅兼アトリエとして、連絡の取れる固定住所を探すようにアドルフから命じられた。
ミノリは作業工程表を目にした途端、「贋作家の仕事など御免だ」と、一旦は憤慨して店から出て行きかけたものの、絵を納品してくれたら25万フランだと説明をされて、あっさり誓約書にサインをした。
引き続きこの先の作業工程や納品期日という細かい打ち合わせのためにミノリを一人店へ残した俺は、一足先にアドルフのギャラリーを後にする。


6時を回ったシャンゼリゼ大通りは、オレンジ色に染まる西の空を背景に、堂々と建っている凱旋門が白くぼやけたシルエットを見せていた。
イルミネーションに彩られた並木道をコンコルド広場へ向けて車を走らせ、テュイルリー庭園で拾った客をオルリー空港へ送り出す。
再び何人かの客をオペラやバスティーユで乗せて、しばらくは市内を流した。
深夜便へ乗るという女性客を見つけてロワシー空港へ送り、車を路肩へ寄せて、そのまま少し仮眠をとる。
翌朝、少し寝過ごした俺は、いつもより遅くアエロガール1へ向かい、ひとり目の乗客が捕まるのを待った。
10月だというのに真夏のような暑さを記録していたその日、冷房の効いたロビーへ入っていつものように到着便を確認する。
シンガポール発SQ334が、6:50ロワシーへ到着済み。
搭乗客は今ごろ税関や荷物受け取りを済ませ、そろそろロビーへ現われるころだろう。
車の前へ戻って本日一番目の乗客を待ち伏せる。
バス発着所では空港発のリムジンが、北駅へ向けて発車したところだった。
ふと見ると乗り遅れたらしいバックパッカーが一人、券売機の前で大袈裟な溜め息を吐いている。
日本人だろうか……。
俺は車のボンネットに腰をおろし、しばらく様子を見ることにした。
バックパッカーはおそらく二十歳前後の男性。
淡い水色のコットンシャツに細身のジーンズを穿き、腰に貴重品を入れているらしいウェストポーチをしっかり締めている。
スラリと伸びた背筋や、日に焼けた褐色の肌が若々しい。
学生だろうか。
ふと青年がこちらを振り向いた。
あからさまな視線を向けられて、どうやら相手も気付いたらしい。
俺は彼にニッコリと微笑むと、釣られるようにして、男がまっすぐこちらへ歩いてきた。
「Taxi?」
待ちかねた一言に本日一人目の客を確信して、俺は後部席を解放する。
「イビスポルトドモントルイユまでお願いします」
たどたどしい発音で告げられた行き先は、昨日もここから日本人客を乗せて向かったばかりの大型ホテル。

あまりウチの前でチョロチョロしていると、そのうち警察につきだすわよ。

昨日カウンター越しに脅迫してきたフロントクラークの顔が頭を過ぎり密かに苦笑を洩らすと、俺は車を出してパリ東部を目指した。
空は澄み切った秋晴れ。
彼方に楕円形の飛行船がゆっくりと上空を移動している。
ラジオから流れる音楽は、お気に入りのシャンソン。
 
 La boheme,la boheme……。

「日本人かい?」
質問しながらミラー越しに後部座席を捉えると、若者が飛び上がってこちらを見つめ返す。
どうやら、寝入りばなを起こしてしまったらしい。
シンガポール経由でやってくる日本人客は、大抵20時間以上のフライトを耐えてフランス入国を果たす。
疲れているのだろう。
青年は質問の意味を少し思案したのち、英語で「yes」と返事を返した。
おそらくあまりフランス語は話せないらしい。
俺も英語はまったく駄目だから、ということは、残念ながらこれ以上の会話は成立しないようだ。
諦めて苦笑を洩らすと、俺は運転に専念する。
車は快調に高速を飛ばし、一路モントルイユを目指した。
彼方に見えるヴァンセンヌの緑。
その少し手前で高速からおりると、車を市内の渋滞へ入れる。
ホテル前のロータリーでは、昨日と同じく蚤の市があたりを賑わしていた。
即席仕立てのテントの下で、Tシャツやレコードを売りさばく若者たち。
フロントグラスに高層ホテルのシルエットが見えてきてバックミラーを確認すると、乗客が早くも降りる準備を始めている。
カーキ色のウェストポーチからは、何の目的で持ち歩いているものやら、千夜一夜物語に出てきそうな<魔法のランプ>。
くすんだ金色の入れ物は、男の掌にちょうど収まりそうな大きさでジッパーの間から顔を覗かせている。
ロータリーを抜けてホテルの正面玄関前へ車を停めると、俺はダッシュボードの上から紙とペンを取り上げる。
いつものように金額を書き入れようとして、ふと車の前に気を取られた。
ホテルの一階にあるオープンカフェからは、何の騒ぎを起こしたものか、十七、八歳ぐらいの小柄な少女が店員から店の外に追い出されていた。
その姿が一瞬、ミノリと重なる。

親の反対押し切って留学を決めて、一年もかけて溜めた資金だったんだよ……。酷いじゃん、それみんな持ってっちゃうなんてさ。

シカゴピザのオープンテラスで、飲み干したコーラのカップを握り潰したまま、悔しそうな涙声で訴えてきた彼女。
<500F>と書きかけていた紙を捻り潰し、新しい紙を取り出すと、俺はそこに<178F>と書き入れた。

end  



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