携帯電話を握りしめて、俺は暗くなった液晶を眺めていた。
後ろからクラクションを鳴らされ、俺は道路脇へ避ける。
ドライバーが窓から、何か叫んでいた。
俺はたった今、彼女と別れたばかりだ。
振ったのは俺だ。……でも、実際は振られたのかも知れない。
電話に出た声に、聞き覚えはあった。
木下雄太。
倫子と同じサークルだったヤツだ。
彼ってT6の長世冬也に似てるよね〜。
一度だけ、アイドルタレント好きの倫子がそう言っていた。
就職浪人は俺も倫子も木下も、置かれた状況は、みんな同じはずだった。
俺はバイトをする傍らで、在学中と変わらず企業訪問を続けていた。
自然とデートの時間は減っていた。そんな状況に、当然彼女は不満を洩らした。

じゃあクリスマスに、五番街のセントラルパーク沿いにある、ザ・プラザのパークビューに泊まって、タヴァーンオンザグリーンのクリスタルルームでディナーをさせてくれたら、許してあげる! 

仕方ないなと思い、俺は彼女と約束した。
ここのところ、俺たちはカップルと呼ぶには、あまりに会う回数が少なくなっていた。
それに俺も、ニューヨークには、前から一度行きたいと思っていた。
だが調べてみてから仰天した……。
ザ・プラザはニューヨークでも五つ星の高級ホテルで、ご所望のパークビューは一泊80000円もする!
そこにクリスマス料金を加算したら、おれの頭の電卓はそれ以上の稼動を拒絶した。
代わりに身体を動かした。
バイトを増やし、早朝から深夜までとにかく働き続けた。
そんなときだった。
学生時代からお世話になっていた運送屋の社長が、声をかけてきてくれたのだ。

「ドライバーの鈴木が、突然田舎へ帰ることになってね。……どうだろう、もし河口君さえ良かったら、うちで社員として働いてみないか?」

願ってもいなかった有り難い話だ。
俺は二つ返事で承諾し、仕事を終えて会社を出ると、家へ着くのももどかしい気持ちで、従業員入り口を出るなり、その場でさっそく倫子に電話をした。

RRRRRR。 

倫子、電話……。

RRRRRR……。

……電話。

RRRRRR……。

電話?


「Bonsoir……」
遠くで聞こえる男の声で、携帯の呼び出し音が静かになる。
俺は目を開けて、辺りを見回した。
薄暗い天井、埃っぽい室内。
硬い絨毯を敷かれた床の上には、蓋を開けられたダンボール箱が乱雑に置かれ、中から剥き出しのTシャツやポスターがはみ出している。
どうやら店内で気を失った俺は、店のバックヤードあたりに寝かされているらしい。
……そうだ、あのお茶!
「おや、気が付いたみたいだね」
声をかけられて俺は、店内への通用口らしき扉の前へ視線を巡らした。
電話での会話を終えた男がドアノブに手を掛けて立っており、その姿は背後から、まだ営業中らしい店の明るい照明を浴びて逆光になっていた。
「あんた、一体っ……」
起き上がろうとして絶句した。
縛られている?!
「相変わらずせっかちだなあ、君は」
そう言いながら男が部屋へ入ってきた。
俺は一まとめにされた両足で床を蹴るように男から後退る。
腕は後ろ手に纏められ、手首をきつく縛られていた。
男が目の前に立って、俺をじっと見下ろす。
「あ…あんた……、こんなことして許されると、思って……」
声が震えていた。
「どうだろう……誰にもバレなきゃいいんじゃない?」
まさか……殺されるんじゃ?!
俺は恐怖に潤んだであろう目を見開いて、男を見上げていた。
男の顔は相変わらず逆光になっていて、シルエットに近く、表情が見えない。
でも、俺は絶対に笑っているのだろうと確信していた。
きっと、頭が可笑しいヤツなんだ……!
「何が望みだ? どうして俺にこんなことをする?」
俺は多分、こいつに殺される……。
考えてみれば、パリについた瞬間から、タクシー料金をボッタくられたり、財布を無くしたり、悪いことばかり起きていた。
もっと言えば、200社以上の企業に内定を一つも貰えず、やっと就職が決まりかけたと思ったら、今度は恋人に裏切られ………。
「おやおや、可哀想に……、泣いているのか?」
「五月蝿いっ……!」
クソッ、なんでこんな男の前で涙なんか! 
でもこの一年以上、俺の身の上に起きた出来事は、どれも碌でもないことばかりで、悔しさと悲しさと、情けなさとで、俺はヤケクソになっていた。
気が付いたら叫んでいた。
「そうやって見てないで、……さっさと殺せばいいだろう!」
自分の言った言葉にはさすがに驚いたが、それもいいかも知れない。
 そもそもなぜパリへ来たのか・・・実のところ、そこに大した意味はない。
 倫子と別れたその足で、携帯さえ手にしたままで通りかかった城西駅北口改札横の、そこにときおり置いてある事務的な長テーブルに、鉄道会社系列の旅行代理店が設置している格安パッケージツアーの青色一色刷りの広告が、安っぽいプラスティックの籠に入れて1枚残っていたことに気が付いたからか。
それとも、その後で、朝食用の食パンが切れていたことを思い出し、立ち寄ったコンビニの入り口で、強くなり始めていた西風に吹かれ、着替えずに出てきた作業服の足首へ、煩げに纏わりついてきたパンフレットの、トップページで募集していたツアーだったのかもしれない。
 いずれにしろ、パリという土地に深い思い入れや、理由など何もなかった。
 日本から、倫子がいるあの町から離れることができれば、べつにどこでも良かったのだ・・・そこがニューヨーク以外なら。
しかしこうしてみると、俺は、俺のことを誰も知らないこの土地で、よりにもよってこんな頭の可笑しい野郎に殺されるために、パリへやって来たような気がしてくる。
 きっとそうなのだろう……運命とは、そのように、気紛れで無慈悲で滑稽で、ドラマ性に欠けるものなのかもしれない。
叫ぶと俺は、次の瞬間訪れるであろう、痛さや苦しさを予感して、そのままきつく目を瞑った。
……だが、何ものも俺の五感を刺激しなかった。
「殺す?」
裕に一分以上は経過したであろうか・・・のんびりとした声が、俺の言った言葉をそのまま繰り返してみせた。
俺の応えを待たず、男は言葉を接いだ。
「誰が君を殺すなんて言ったんだ?」
「……違う……のか?」
俺は恐る恐る目を開ける。
それを待っていたように男はゆっくりと身を屈めると、その手を差し延べて、指先で軽く俺の頬を撫でてきた。
その瞬間、例の白檀の香りが鼻を突く。
かさついた手の感触に、俺はゾクリと背筋を震わせた。
「君を殺して、一体何の得があるんだ?」
男は相変わらず、俺の反応を楽しむような顔をしていた。
「じゃ……じゃあ、一体何が目的で」
「さあ……何だと思う?」
そう言って、頬を撫でていた手が、顎を掠め、首筋を伝って、ゆっくりと胸へ上へ降りてきた。
……この展開は、まさか。
俺はそれこそ、全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。
「お……俺をレイプするっていうのか?」
その言葉を口にするのは、相当の勇気がいった。
「そうだなあ。今まで男を抱きたいと思ったことはないが、君が相手ならそれも悪くないかもしれない」
ニヤニヤとした下品な笑いを浮かべて、男の手はさらに大胆な動きを見せていた。
Gジャン越しにまさぐられていた掌は、第二ボタンまで外していたコットンシャツの襟元からズカズカと中へ入って来る。
「や……やめろよ。俺なんかとそんなことして、何が楽しいっていうんだ……」
知らない異国でこんな、奇天烈な格好をした変態野郎に拉致されて、身体を縛られ、あまつさえ性的に辱められるなんて……、そんな生き恥を掻かされるぐらいなら、さっさと殺して貰った方がましだ!
「楽しいか楽しくないかは、やってみないと判らないだろう? 真面目そうな顔をして、君は結構好きそうだしな。……ホラ、じっとしてろって」
「冗談じゃない…っ!」
男は身体を跨ぐようにして俺の身体をうつ伏せにすると、足を眺めるような形で背中の上に腰を下ろし、無遠慮に尻を撫でまわし始めた。俺は縛られたままの下肢の膝で、爪先で、床を蹴りながらありったけの抵抗を試みる。
「こら暴れるんじゃない。探せないじゃないか」
「そう言われて、大人しくできるか! 退けったらこのブタ! 変態!」
ん……? 探せない、だと?
「くそっ……やっぱり持ってないな」
突然に身体が軽くなった。首を捻って見上げると、男は立ち上がって、俺をじっと見下ろしている。
その顔は先ほどまでの、俺の反応を楽しんでいる意地悪な笑顔ではなく、何かを考え込み始めた真剣な面持ちだ。
「あんた……、俺を犯すんじゃなかったのかよ……」
「ん? ……ああ、少しだけ黙っててくれるか。やって欲しいなら、あとでいくらでも相手になってやるから。でも今は、それどころじゃないんだ」
なんだよ、それっ……!?
そこでふたたび電話がかかってきて、男は携帯に出た。
「Bonsoir……。ああ、アンタか」
始めだけフランス語だった会話の続きは、すぐに英語に変わった。
この男、本当はフランス人じゃないのかも知れない。
「……ああ、アテが外れた。どうやら持っていないみたいだ。……ああ、判ってる。そんなヘマはしないさ」
その会話が、俺を話題にしていることは明白だった。そして男が何か、危険な組織と絡んでいるらしいことも。
すぐに通話を切った男は、再び俺へ濁った碧眼の視線を向けると、
「パスポートはどうした? ツーリストのくせにどうして持っていないんだ?」
驚いたことに、俺に向かって単刀直入に質問してきた。
なるほど、先ほど俺の身体を撫でまくっていた、……いや、身体検査していたのは、日本国パスポートを探していたということらしい。
ウェストポーチが外されているところを見ると、おそらく変な茶を飲まされて、俺が気を失っている間に、そっちも調べていたのだろう。
大方偽造パスポートでも作りたいのかも知れない。
「それは残念だったなあ。でも、誰が教えるかよ、バーカ!」
「ふん……」
男は横柄に鼻を鳴らして立ち上がると、再び何かを考えるような難しい顔をして、一旦店の方へ消えた。
いつのまにかBGMの有線が切られていることに、今更気が付く。
しばらくして男が、短冊型の黄色い用紙を手にして姿を現わした。
数本の罫線で仕切られた紙面には、紺色の乱筆で何かが書いてある……どうやら店で伝票を切っていたらしい。
「じゃあここにサインだけしてくれるか」
そう言って、男は紙とボールペンを俺に差し出した。
「なんだよ、それ……」
肩で体重を支えるようにして首を上げると、俺は記載された内容を覗き込む。
どうやらクレジットカード決済用の伝票だった。
商品欄に『lampe』とだけ書かれた購入金額は、500000フラン……100万円だ。
クレジットカードの番号は俺のもの。
「アホか。そんなものにサインなんかするわけないだろう」
どうやら俺が倒れている間か、あるいはこの店で財布を失い、俺が悠長にカレー屋で食事をしている間に、しっかり見つけ出されていたらしい……まあ、当然だろう。
「どうしてだ。ここにサインをすれば逃がしてやるって言っているんだぞ」
「ここまでしておいて、信じられるわけないだろう! 大体なんでたかがランプひとつが、50万フランもするんだ! 馬鹿じゃないのか?」
 そもそも、ご丁寧にサインを求めてくる一種の生真面目さが、笑えるというか、理解に苦しむというか……やはり頭が可笑しい。
「おい、まさか僕がボッタくっていると思っているのか?」
真剣らしい。真剣に、大真面目にこの商品を俺に買わせたいらしい……。
あくまで、俺とは店員と来店客というスタンスを踏み超えないつもりらしい……俺を眠らせ、監禁し、縛り付け、パスポートを盗もうとしたくせに!
 「違うっていうのか!」
絶対こいつ馬鹿だ! そうに違いない! 言っていることから、手順から、何から何まで無茶苦茶だ。
「これは魔法のランプだぞ? 君にさっき見せてやっただろう」
いや、違った。馬鹿より始末に終えない狂人だ……。
「よし、もう一度みせてやろう」
そう言って男はふたたび店へ戻ってしまった。
「いいよっ……ああ、行っちゃったよ。もう、そういう話じゃないのに」
魔法のランプとか、魔法じゃないとか、そんなことが、問題なんじゃない。
俺はそんなわけの判らないものに、たとえ強要されようが、サインする気はないって言っているのに、どうして判らないんだ!
 ……というより、サインなんて適当に書いて処理すればいいのに、なぜあくまで俺に買わせようとするんだ!
どうせ逃がすつもりもないくせに……。
 「ほら、よく見てみろよ。さっき君に見せたランプだろ?」
だが男は、今度は実演販売を始めるつもりらしかった。
「もう、勝手にしろよ」
俺はとうとう日本語でぼやいていた……もうこの男の為に英語を話してやる気力も失っていた。
「三回撫でて願い事を唱えたら、なんでも叶えられるんだ。今からやるから、ちゃんと見とけよ」
そう言って男は、ランプの側面を掌でゴシゴシと擦りはじめる。
1回…2回…3回。
「………」
俺は諦め半分でその様子を見守った。もうどうでもよくなっていた。
こいつは馬鹿で狂人だ。
何が魔法のランプだ。
そんな物があるわけないのに、しかもこいつはこのランプが本物だって、心の底から信じている。
どうせ何も起こる筈なんてない。
……でもたとえその嘘が証明できて、この男が現実から裏切られて、夢をひとつ失ったからと言って、だからどうなる? 
嘘でした、ごめんなさいと謝って、この男が俺を解放してくれるのか? 
だいたい俺は、ここを出たら当然警察に直行するし、カードも止める。
……その前にレストランの支払いも済ませる。
さすがの馬鹿もそのぐらいはわかっている筈だ。
「君は俺の言う事を聞きたくなる……」
男は呪文を唱えるように、数時間前にもここで聞かされたような言葉を呟いていた。
男は俺を殺すだろう。
俺が助からないのだとしたら……、じゃあ、俺がここで、たかがクレジットのサインを拒む意味は?
サインをしようがしまいが、結局殺されるのだとしたら……。
「君はここにサインをしたくなる」
男はベルトの先につけていた小さなナイフで、俺の手首に巻かれたロープを解放し、右手にペンを握らせると、その下に伝票を滑り込ませた。
「君は自分の名前を書きたくなる……」
抵抗し続ける理由を見失っていた俺は、次の瞬間、痺れる指先でペンを走らせていた、河口哲平と。
いいんだ……、どうせ死ぬ運命なのだから。
ふと目の前が暗くなり、俺は崩れるように再びその場に倒れていた。
意識が途切れる瞬間、遠くで男の声を聞いたような気がした。

Merci―――。

下ろした瞼の向こうで俺は、霧が立ち込めた部屋の中で、ガネーシャに姿を変えた男がランプの中へ吸いこまれてゆくのを見たような気がした。……いや、ランプの精……アラジンと魔法のランプ? 馬鹿な。

RRRRRRR……。

遠くでベルが鳴っている。だが、ランプの精に戻ってしまった男は、もう電話に出ることが出来ない。

RRRRRRR……。

五月蝿いな……もう出られないんだ。諦めてくれ。

RRRRRRR……。


聞き覚えのある音楽を聴いた。

Montmartre semble triste  Et les lilas sont morts  La boheme, la boheme……

ラ・ボエーム……ラ・ボエーム……。

心地良い振動が身体を揺すっていた。

 

ゆっくりと瞼を上げると、どこかで見たような景色が視界に飛び込んだ。
澄み切った青い空に、楕円形の飛行船……、隣の車線を走っている、白いベンツ…。
「…夢…?」
「Etes‐vous Japonais?」
夢の中で聞いたものと同じ質問……。
「y…oui」
俺が戸惑いながら、どうにかフランス語で返事を返すと、ドライバーはミラー越しにニッコリと笑いかけてきた。
彼はまた同じ歌を口ずさみはじめる。
どうやら自分が、悪い夢を見ていたらしいことに思い至り、俺はホッと胸を撫で下ろすと、大きく溜め息を吐く。
そしてハッと目を見開いた。
そうだ財布!
まさかと思うが、俺がうたた寝をしている間に、ドライバーが路肩に車を停めて、財布に手を出すってことだって、ありうるんだ。
さっきまで見ていた夢のせいか、俺は随分、疑り深くなっていた。
ウェストポーチを開けて、財布の中身を点検し、紙幣とクレジットカードの存在を確かめて安心する。
大丈夫、変わった様子はない。ふたたびウェストポーチに財布を元に戻そうとして、ふと、手を止めた。

……なんだ、これ?

指先に硬い感触を感じて首を捻り、男の掌に収まるぐらいの、それを取り出した瞬間、俺は思わず悲鳴を上げかけた。
タクシーはロータリーの流れに乗って、賑わった蚤の市を横目に、大きな弧を描き始めている。
次第に近くに見えてきた、<Ibis de Montreuil>の看板文字。 
俺は咄嗟にその小さなもの手の内に握りしめると、もう一方の掌を沿えて、冷たい側面を擦っていた。
1回、2回、3回……。
車は流れから抜け出して、ゆっくりとホテルの前に到着する。
それを確認するのと同時に、俺は素早くこう呟いた。
「こいつにボッタくられませんように!」
車の動きが止まってドライバーが後ろを振り向くと、ニッコリと俺に微笑み、そして小さな紙を差し出した。
そこに書かれた文字は178F。

fin



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