(エピローグ)
「父さん・・・?」
受話器から聞こえてくる明るい声は、半年ぶりに聞く娘のものだった。
この半年の間にミスからミセスになった彼女。
マシュクール邸のバルコニーにいたアリーヌは、彼女を見つめる俺の存在に気付いていた。
「びっくりしたわ。声を掛けてくれたらよかったのに」
「そういうわけにいかないだろ。・・・見違えたよ。すっかり綺麗になった」
「父さん、会うたびに同じこと言ってる」
「そうだったか?」
互いに笑い合う。
「元気にやってるのか」
「ええ。とてもよくして頂いてる。最近は忙しくて目が回りそうだけど」
「ジョリスが出馬するんだってな」
「そうみたい。・・・父さんこそ、無理してない?」
「俺の事は心配するな」
「本当に?」
「ああ」
「寂しくない?」
「君の父さんは、これでもモテモテなんだぞ」
「何それ」
そのとき受話器の向こうから聞き慣れない男の声がアリーヌを呼んだ。
あれがジョリス・・・ひょっとしたらド・カッセル氏の方だろうか。
「ごめんなさい、父さん。行かないと」
「ああ」
「父さん愛してるわ」
「俺も愛してる、アリーヌ」
通話がとぎれる。
その向こう側に人の気配が感じられなくなった無機質な受話器をそっと電話に戻すと、俺は窓の外へ目を向けた。
バルコニー越しに見える10区の夕景が、少しばかり湿った夏のそよ風を部屋の中へ運んでくる。
目の前に横たわるマゼンタ通りの雑踏。
ブラッスリーで新聞を広げながら、サラリーマンが疲れた顔で煙草を吹かしている。
その前を大きな声で喋りながら歩いてゆく、マルシェ帰りの主婦たち。
茜色に染まった、この街の日常風景。
愛しく、そして俺を寂しい気持にいつもさせる。
無意識に机の上の煙草へ手を伸ばしかけて、突然いぶし銀の灰皿が見たくなった。
複雑なレース仕立ての縁に嵌め込まれた、アドルフ自慢の大きな二つのラピスラズリ。
ふと顔をあげて、机の向こう側に掛かっている鏡を見つめる。
気の抜けた己の顔の瞳の色が、二つのラピスラズリと重なって、俺は吹き出した。
「あの馬鹿め・・・」
俺は擽ったい気持で窓を閉めると、味気のないガラスの灰皿の隣へ放置していたS560のキーを手に取って、アパルトマンを出る。
シャンゼリゼに住んでいる、憎たらしくて愛しくて仕方がない彼の部屋を目指して。
車窓の外を流れゆく茜色の景色は、いつのまにか俺に寂しさを忘れさせていた。
FIN
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