「あいつの実家について、何か聞いているか?」
再びアドルフが話を始めた。
「いや・・・お前から、牡蠣の養殖をしているって聞いただけだ」
本当に俺はステファヌと何も話していないのだ。
「あの看板、見えるか?」
不意に足を止めたアドルフは、ある停留所をさして俺に聞いてきた。
「シャンゼリゼ行きの停留所だろ? 車で来ていないんだったら送るから、べつにバスなんか乗らなくても」
「その必要はない、俺の車はちゃんと駐車場に止めてあるから、心配するな。・・・・俺が見て欲しいのは、もう少し下にある、牡蠣の写真だ。そこに加工メーカーの名前が書いてあるだろう。わりと有名だと思うぞ」
アドルフに言われて、俺はそのポスターに視線を落とした。
新鮮な殻付きの、肉厚な牡蠣の写真と、パリ市内・・・いや、フランス国内の少し大きなマルシェなら、どこにでも置いてあるような、有名なラベルの缶詰の写真。
業者の名前なんて、わざわざ見なくても知っている。
この広告自体、年がら年中テレビCMや新聞、メトロの広告で見かけるし、国内有数のメーカーだからだ。
「リュイットル・ド・ヴァレリー・・・ヴァレリー!?」
口に出してから息を呑んだ。
「そう。あのヴァレリーだ」
「まさか・・・ステファヌとシャルルの実家って、ここの会社の経営者なのか!?」
だとしたら、とんでもない御曹司じゃないか。
そんなところの息子が、なぜアドルフの店で出張ホストのバイトをしたり、ルブールのような怪しい男の、カルト教団などに入っていたというのだ。
俺はますます混乱した。
「俺がステファヌの家族について知らされたのは、ほんの2週間前のことなんだ・・・つまり、兄貴が行方を眩ましたあと。あいつが度々、客の所へ遅刻するようになって、俺は叱ったんだよ。金を頂いている以上、中途半端は困るってな。あいつは素直に反省していた。けど、元々真面目な奴だし、あんなことは初めてで、俺は改めて話を聞いてみることにしたんだ。そのときに、初めて兄貴のこと、家族のことを教えてくれた。ゾラっていうのが、母方の名前だってこともな。ついでにあいつの夢も教えてくれた」
「夢・・・?」
「ああ、ステファヌは歌手になりたいんだと」
「へえ・・・歌が好きなのか」
「そうらしいな。ただし、大学の専攻は音楽とはまったく無縁だが・・・それで、色々自分で音楽活動をしたり、自主制作CDを作ったりするために金が要る。だから、俺のところでバイトを始めたんだ。ついでに、あんな奴だからさ、社交性を身につけたいとも言っていたな」
「そうだったのか・・・なんだか、凄く意外だ」
今になって、初めて知らされる、ステファヌの本当の姿。
いくらでも話す機会は、あったと思う。
ほとんど印象がなかった、大人しい少年の・・・心に秘めた熱い夢を、活き活きとアドルフに語る姿が、目に浮かぶ。
それは、彼にもキラキラと輝く、明るい表情をする時があったのだと、知ることができた嬉しさと、それを俺には想像すらもさせることがなく、静かに去ってしまったことへの悔しさとが半々の、複雑な気持ちだった。
「ステファヌは、もうパリに戻らないつもりなのかな」
蛻の殻となっていた、小さなアパルトマンの部屋。
実家に頼れば、バイトなんてしなくても、いくらでも金はあった筈だ。
それでもステファヌは、アドルフの店で働き、アパルトマンで地味な生活をしていた。
家賃も生活費も、すべて自分で稼いで。
「それはわからんな・・・だが、自分なりに何らかの決着を付けるために、あいつは帰ったんじゃないかと、俺は思っている」
「決着?」
「あいつは親父さんのことが嫌いなんだとさ。ヴァレリーの名を名乗らなかったのは、さすがに有名すぎる名前だから、外聞を気にしてのことだと俺は思っていたが、どうやらその名前を語ることに抵抗があったみたいだな」
「親父さんと喧嘩しているのか」
「さあ・・・何しろ大人しい奴だから、殴り合いとかはしてないと思うが、・・・・ところで、ルブールが逮捕されたのは、知っているか?」
いきなりの話題転換で、俺は拍子抜けした。
「ああ・・・そりゃ知ってるよ。ざまあみろだ」
俺達がルブール邸からシャルルを連れて帰ったあの直後、やって来たパトカーはすぐに礼拝堂で焚かれていた香の中に、違法ドラッグが混じっていたことを突き止め、邸に残っていた者たちは警備員も含めて、その場で拘束された。
つまり、アドルフの言う通りに、すぐにあの場を脱出していなければ、俺達も拘束されていたということで、それは俺達にとって、身の破滅を意味していた。
翌日、ルブール邸は家宅捜索を受け、隠し持っていたマリファナや、LSD、その他、数種類のドラッグが応酬されて、ルブールは麻薬取締法違反で改めて逮捕された。
大学生を中心とした若者から、カリスマ的な人気があったコラムニストの逮捕劇は、今でも新聞やテレビを賑わせている。
今度は顔写真入りで。
「俺としては、少々不満なんだがな・・・」
バス停を後にした俺達は、再び歩いてきた通路を逆戻りして、駐車場を目指して歩いた。
サングラスで表情を隠したままのアドルフは、抑揚のない声でそう言うと、吹き付けて来た一陣の風に髪を乱され、顔の前で踊り狂う、絹糸のような細い金髪の前髪を、鬱陶しそうに指先で掻き揚げた。
「それは一体、どういう意味だ?」
ルブールの逮捕を不満だという、アドルフの真意が俺には読めない。
シャルルの遺体を辱め、ステファヌの心に、一生消えないであろう傷を残した憎い相手だ。
悪事が世に知れ、罪人の烙印を押され、恐らくは二度と、かつての栄光を取り戻すこともないだろう・・・正直に言って、俺は良い気味だと思っていた。
「罪状は麻薬取締法違反だけだぞ」
言われて、その意味を漸く俺は考えた。
ルブールがシャルルに何をしていたのか、それが世に知れることもなければ、シャルルという少年の存在そのものを、人々が知ることもないのだろう・・・ずっと、この先も。
「けど・・・ルブールがシャルルを殺したという証拠はないし、エンバーミングをしたティエリも、その可能性は低いと言っていたわけで・・・」
「死姦は合法じゃないぞ。更に言えば、死後6日以内に埋葬しないといけないという法律も存在する。やむを得ない事情があるならともかく、ルブールは特別な理由もなく、本人の死を家族に知らせもせずに、ただ己の歪んだ欲を満足させんがために、それらの罪を犯していたんだ。これが腹立たしい以外の、なんだというのだ」
静かではあるが、吐き捨てるような声でアドルフは言った。
「けど・・・シャルルの遺体はその場になかったし、警察も・・・あれ・・・シャルルの遺体って、あのあとちゃんとご家族に返されたんだよな」
「ああ、当然だ」
だったら、勿論どこで亡くなったのか、なぜ発見されたのかという話になるだろうし、傷付いていたとはいえ、ステファヌがそれを隠したとは思えない。
何よりシャルルの遺体を警察が見れば、何が起きたのかは当然わかるだろうし、拘留中のルブールの体液だって検出された筈だ。
なぜ罪状は麻薬取締法違反だけなのだ?
「つまりそれって・・・まさか、シャルルの親父さんが・・・」
「外聞のために、警察へ圧力をかけたんだろうな。或いは、本当の罪状を報道するなと、マスコミに報道規制があったのかも知れん・・・リュイットル・ド・ヴァレリーの広告費用は、どこも手放したくないだろうしな」
「報道規制だけだと、まだ良いんだが・・・」
事実が発覚すれば、傷付けられるのはルブールより、寧ろシャルルであり、弟のステファヌの方だろう。
それを恐れて、親父さんがマスコミに報道させなかったのであれば、救いはある。
そう信じたいと俺は思ったが、ステファヌはヴァレリーの姓を避ける程、父親を嫌っているのだと、さきほどアドルフは言った。
俺には残念ながら、楽観的な物の見方ができないと感じられた。
「それじゃあ、俺の車はこっちだから、そろそろ帰るな」
一般駐車場の入り口で、アドルフがそう言って立ち止った。
「ああ。・・・いろいろ教えてくれてありがとうな」
「なあに。お互いさまだろ・・・それに礼を言うのは俺の方だ」
「だからやめてくれって・・・じゃあ、ぼちぼち俺も仕事に戻らんといかんから、本当に行くぞ」
「ああ。・・・そうだピエール。もう一度確認するが、ステファヌは本当にお前に何も言っていなかったんだな」
「ステファヌか・・・ああ、本当に何も聞いていない」
俺に残されたのは、あの物憂げな表情だけだ。
嫌なことを思い出させられて、俺はちょっぴりアドルフが憎らしく思えていた。
だが、アドルフは微かに微笑むと。
「わかった。だったらきっと心配ない」
「どういう意味だ」
「ステファヌは必ず戻って来る・・・このパリにな。だって、あいつは俺との約束を違えたことは一度もないんだ。兄貴のことであんなに大変だったときでさえ、俺が遅刻するなと言ったら、二度としなかったんだぞ。そんなシャルルがさ・・・お前に礼を言うのを忘れたままで、田舎に引っ込んでしまうわけがないだろう」
「アドルフ・・・」
それは彼なりの、俺に対する慰めだったのかもしれない。
或いは俺を慰めながら、彼は自分に言い聞かせていたのだろうか。
「だってさ、昨日俺のところへ挨拶をしに来て、礼拝堂でずっと、自分の名前を呼んでいたお前の話を聞いたあいつは、自分から言い出したんだぞ。ちゃんとムッシュウ・ラスネールにお礼を言いたいって。なのに、それを忘れたまま、帰ってしまうなんて可笑しいじゃないか」
「そんなこと・・・アドルフ、お前・・・」
アドルフがステファヌへ、そんな話をしていたとは、さすがに俺も想像ができなかった。
「だからさ、俺はこう思うんだよ。お前と一緒にパリの景色を眺めている、40分程の時間のうちに、あいつが一体何をするために、この街に出て来たのかを思い出してしまったんだ。兄貴のことは辛かっただろう。お袋さんに帰って来るように言われて、それまで次男坊として許されていた少々の自由が帳消しになって、これからのことについて話し合う必要も出て来たんだろう。けれどさ・・・あいつがどういう決着をつけるかは、もちろんわからないが、少なくとも、ステファヌは自分で言いだした約束も守らずに、消えてしまうような、そんな奴じゃないんだよ。だからな、ピエール・・・」
言いかけた言葉は、上空を横切って行くエールフランス機の轟音にかき消され、しばし俺達は会話が出来るだけの静寂を待たされた。
大きな影を落として夏の空を少しずつ切りとって行く、鉄の塊。
それを見上げる悪友の、サングラス越しに見えた、水色の瞳は、眩しい太陽の光をキラキラと乱反射させていた。
「アドルフ・・・ありがとう」
再び静けさが訪れるより少しだけ早く、俺は友にそう告げた。
ありがとう・・・本当に。
「俺は・・・ステファヌを信じているんだ」
俺の言葉が聞こえていないのだろう、アドルフは、空を見つめたままで、先ほどの話を、そのまま繋ぐような調子で言った。
「そうだな・・・きっと、お前の言う通りだと、俺も思うよ」
ひょっとしたら、本当にステファヌは、俺に礼を言う事など忘れていただけかもしれない。
色々なことがありすぎて、夢半ばにパリを去ることは心残りで、両親との話し合いで頭がいっぱいで。
大して話もしなかった俺のことを、忘れていたとしても、べつに不思議じゃない。
ただ、傷付いた心を抱えて、帰って行かなくてはならなかった少年の、ボロボロになったその胸の内を考えると、それが哀れで仕方がなく、何もしてやれなかった大人の一人として、せめてもう一度、元気な姿と、大人しい少年の静かな微笑みを、再び見せてくれたら、どんなに救われるだろうと、・・・俺も、きっとアドルフもそんな願いに縋ってしまうのだ。
ただ、それだけのことだ。
fin.
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