『La boheme, la boheme <<six>>』
皇帝の名前を冠したブラッスリーの軒先で立ち止まり、通りの向かいに建っているクラッシックなビルディングを見上げる。五階のバルコニーからは、いつになく整然と並んだ男物の下着が部屋干しされている様子を、ここからでも見てとることが出来る。
「やれやれ」
溜息混じりに紫煙を吐き出した俺は、咥えていた吸いさしを足元へ落とし、靴底でもみ消すと、車の切れ目を狙ってマゼンタ通りを横断した。
九月に入って尚、残暑が厳しいパリの下町は、黄金色に包まれた夕景の中で、気怠い陽炎にすべてがぼやけて見えていた。
黒い蛇腹の扉を押し開けて到着した薄暗い廊下は、二日前から一箇所だけ気になる点がある。
入れ違いにエレベーターへ乗りこんだ宅配ピザ屋が、このところ頻繁に出入りしているということではない。ましてや、そのピザ屋が若い女の配達員で、恥ずかしがり屋の彼女が、俺の挨拶を無視する為に、注文をしようとしても受け付けてもらえないものだから、実は少々憤慨しているということでもないのだ。ひょっとしたら彼女は配達専門のため、出先で注文は受けていないだけかもしれない。そうだとすれば、彼女に責任がないことである。俺にしたところが、どうしてもピザが食べたいわけでもないので、それは大した問題ではない。
非常階段の隣の部屋には真新しい表札が入っている。物静かな部屋の主は、昼間はいつも留守だ。表札の見慣れたアルファベットの並びと、併記された日本語らしい文字を見て首を捻りつつ、俺は一軒隣の前に立つ。自宅であるその部屋の、ドアノブに手を掛けながら一瞬で考え直し、インターフォンを押した。扉越しに聞こえる、パタパタとした軽い足音と、解錠される硬質な金属音……そのせいで、中から施錠されていたらしいことを改めて知る。
「お帰りなさい、ピエール」
元気よく開いた扉から覗く笑顔は、せいぜい二十歳前後といった感じである、美人の部類に入る東洋人女性だ。
「やあ……ただいま」
礼儀としてこちらも笑顔を返しつつ、複雑な心境で俺は我が家へ帰還した。
「結構遅かったのね。行きつけの煙草屋さん、ひょっとして閉まってた?」
「いや、煙草屋に行ってたわけじゃない。ちょっと用事があったから……仕事、もう終わったのか?」
「今日のところはね。お昼早かったから、お腹空いてるんじゃない? もうすぐ出来あがるから、ちょっと待っててね」
そう言って、女は料理中らしい台所へと舞い戻った。
ジーンズの後ろポケットから中身を取り出した俺は、いつもより薄く感じられる革のキーケースをテーブルに放り出し、財布から今しがた貰った予約票を抜き出して乱筆を眺める。北駅前にあった筈の店舗がいつのまにか閉店していた為に、さんざん歩きまわって漸く見付けた錠前屋。金額と施工日が空欄になっている、なんとも頼りない限りの紙片を畳み直し、再び財布に挟み込むと、それをベッドサイドの抽斗に仕舞った。
チェストの端に腰をかけ、咥えたジタンに火を点すと、開け放したままの寝室のドアからリビングを介し、丸見えになっているキッチンスペースを眺める。酸味が強く青臭い匂いから察して、トマトの料理を作っているらしい女は、束ねた長い黒髪を背中で揺らしながら、柔らかそうな白いスカートの裾を翻しつつ、壁越しに華奢な肢体を見せたり隠したりしていた。
キッチンの反対側には、マゼンタ通りに面した大きな窓が開放されて、差し込むきつい西日がリビングの床を眩しく照らしている。窓枠より一メートルほど手前には、ウォールランプとクローゼットの金具を利用して、洗濯ロープが器用に張られ、自分が昨日身につけていた衣料品が、綺麗に部屋干しされていた。
通りへ向けて、まるで目隠しでもするように、みっしりと並べられた、コットンシャツやジーンズ、トランクスといった、俺の日常は、黄金色に輝くおぼろな視界の窓際で、バルコニーから誘引された排気ガスと生温い夕方の風に晒されながら、微かに揺らめく。コインランドリー常連者である俺にとっては、自分の所持品である筈の洗濯ロープの存在など、ここ十年ほどもすっかり忘れていたというのに、彼女はよくそんなものを洗面所回りの混沌から見付け出してきたものである。皺もなく整然と並べられて、近所に公開され続けている己のプライベートを、微妙な心境で眺めつつ、俺、ピエール・ラスネールはこの三日間の出来事を胸に思い返した。