土曜日、午前中のうちにミノリから電話が架かってきて、このところとりかかっていた絵が完成したから、搬入を手伝ってほしいと依頼を受ける。一時間ほどでモンマルトルへ向かい、梱包から手伝うことになった。
ミノリが手掛けた絵は、有名なギュスターヴ・モローのサロメのひとつ、『出現』だ。いつもであれば、本物と寸分たがわぬそっくりなコピーを仕上げるミノリの筈が、このサロメには違いが一箇所あった。それも、アドルフやミノリのような専門家ではない俺でも、あきらかに見付けられるようなビッグミステイクである。
「なあ、……サロメってのは、ファムファタルだよな」
クローゼットに半身を突っ込むミノリに向かって、俺は問い掛ける。
「ヨハネの生首を所望した代表的な悪女で、ヘロデ王の前で踊るサロメだとか、牢獄のサロメだとか、サロメばっかり描いていたモローにとっては、まさに運命の女、ファムファタルだったかもね……ええと、これでいいかな」
棚の奥から五十号程度の額縁を引っ張りだすと、それをイーゼルに重ねて納得したように頷いた。そしてマホガニー材の木枠を外し、ガラスの下へ収まっていたデッサン画を抜き取る。どうやら額縁を使い回すつもりのようだ。
「だとしたら、なんでこのサロメにはペニスがあるんだ?」
イーゼルに立て掛けられた、水彩画を見つめながら俺は疑問をぶつけるが、返事はなかなか聞こえてこなかった。不思議に思い、ミノリへ視線を戻すと、果物のデッサン画を手にしたまま彼女は固まっている。顔は真っ赤だ。
「なっ……なっ……」
なんてこと言うのよ……とでも、俺のダイレクトな発言を非難したように見える。
「いやだってな、これ、そうじゃないのか?」
イーゼルを指差しながら俺はミノリに確認した。
空中に浮かんだヨハネの頭部を指差し、艶めかしくも露出気味な肢体も露わに、腰を突き出すように立っている黒髪のサロメ。瓔珞(ようらく)というのだろうか、全身をきらびやかな装飾品で引き立たせた彼女は、本来であれば腰も宝石や貴金属を編みこんだ太い帯で覆っていて、飾りの一部が交差した膝頭近くまで、重々しく垂れさがり、股間は完全に目隠しされている筈だ。だが、目の前のファムファタルは、下半身に頼りない薄衣を巻きつけているだけであり、白い布襞を透かして、うっすらとではあるが、明らかに男根のシルエットが確認できる。
「そっ……わ……からっ……」
薩婆訶……ではない。それは、だから……、何なのだろうか。どうやら理由があるらしいのだが、密教の呪文のような言葉だけ聞かされても、さすがに何の事だかさっぱりわからない。続く述語を言えと思う。
ペニスを持っているサロメ。どこか意味深で、想像を掻き立てられる一作には違いない。
そのくせ、上半身は原作に忠実で、装飾的な胸当ての上に未発達な膨らみが残されたままであり、未発達であるがゆえにそのほっそりとした全身は、下半身で起きている性の矛盾が、なぜか自然に溶け込んでいる。つまり、このサロメは両性具有になっているのだ。もちろんこの明らかな矛盾を抱える絵画に、落ち着いた調和が感じられる理由は、一重に天才であるミノリの高い技量だからこそ為し得た奇跡と言えるだろうが、いかに優秀なミノリでも、注文に勝手な手を加えて良い筈がないし、するわけがない。
ミノリを落ち着かせ、理由を聞いてみると、案の定この改竄は、顧客たっての希望であるらしかった。
「ほう……ペニスをリクエストねぇ……」
「ちょっとっ、本当なんだからねっ! そっ……、あっ……あた……すき……っ」
「あたしも好きモノだから?」
俺が訊き返すと。
「そんなもの、あたしが好きで描くわけないって言ってるのっ! ばかっ!」
真っ赤な顔のミノリが、握り拳を振りおろしながら、大声で聞き間違いを訂正した。ちゃんと喋られるんじゃないか。
一体どこの酔狂な客が、この象徴派巨匠きっての代表的な名画に、このような小細工を要求してきたのか気になったが、ミノリをからかい続けていてもきりがないので、そろそろ作業へ戻ることにした。
ところで、多少シルエットとしてぼやかしてあるとはいえ、よく見れば、ここに描きこまれている男性器はなかなかリアルなものである。その為の習作をどのぐらい重ねたのか、何より一体誰にモデルを頼んだのか……疑問は尽きないが、またおいおい作者を問い詰めてやろうと俺は考えていた。
額装した水彩画をダンボールとエアキャップで梱包し車へ運び入れると、シャンゼリゼに向かう。南にエッフェル塔、北に凱旋門という、パリのランドマークを繋いだ美しい並木通りの中ほどに、小さな三角形の公園がある。その公園の曲がり角から裏通りへ入るとシャンゼリゼ通りへ出られるわけだが、通りの終わる少し手前に、白い外観を持つあやしげなビルが一軒建っている。それが、アドルフが営むギャラリー『フルニレズ』だ。
営業時間は日没近くから日付が変わるまでの間における数時間で、休みは不定期。オーナーがその気にならなければ、いつまでも店は開かないし、気分次第で勝手にシャッターを降ろす。まあ、シャッターが上がろうが下がったままだろうが、一見さんはお断りで、仕事の依頼や商談の予約は、奥の事務所にある電話が中心となるのだから、あまり関係ないわけだが。
九月第一週の週末、シャンゼリゼ通りの並木道が眩い黄金色に包まれた夕暮れどきに、珍しく早めに店を開けていた『フルニレズ』の事務所で、俺とミノリはアドルフが淹れてくれたキリマンジャロを口に運んでいた。
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