「おっと……」
 アパルトマンの入口で、飛び出してきた影を避けるために、脇に寄る。
「……っ!!」
 立ち止まり、衝突を回避した小柄な相手は、俺の顔を見ると、一瞬で表情を強張らせ、さらに万感の思いを込め、涙を溜めた瞳で睨みつけたのちに、通りへ飛び出した。
「何なんだ、一体……」
 玄関脇に止めてあった、宅配ピザ屋のバイクがエンジンをかけ、マゼンタ通りへ出ていく姿を目で追いながら、やれやれと溜息をつく。いよいよピザ屋の少女とは、巡り合わせが悪いらしい。これでは、いつになったらピザを注文できるのやら、わかったものではない。まあ、どうしてもピザが食べたいわけではないのだが。
 それにしても、人目も憚らず、顔を真っ赤にして泣きながら飛び出してくるとは、何事だろう。アメリカ人の住人から、何か酷い無茶を言われたのだろうか。年若い女を泣かせるなんて、とんでもない男だ。果たして毎日のように、ピザを注文するアメリカ人住人なんて実際にいるのか、そいつが男か女か、そもそもあの少女が本当に宅配ピザ屋なのか、俺は何一つ確かめちゃいないが。
 そしてエレベーターを降り、自分の家に辿りついた俺は、それこそ人目も憚らず泣きたくなった。
「何だよ、これは……」
 つい今朝がた錠前屋に鍵を交換させた玄関は、ハンマーか何かでドアノブごと壊されていた。リビングの床には、テレビが倒され、クローゼットから俺の服や下着が散らかり、本棚からペーパーバックや雑誌が一冊残らず抜き取られて、靴で踏みつけられていた。寝室もベッドからシーツが剥ぎ取られ、枕はカバーが破かれて中身がそこらじゅうに飛び散っている。
 不意に意識が遠のきそうになって、キッチンカウンターに掌を突き、身体を支えた。
 そしてカウンターの隅に置いてある受話器へ手を伸ばす。

 

 電話を切ってから二十分足らずでアドルフは来てくれた。
「こいつは酷いな……盗まれた物は?」
「財布は持って出てたし、通帳は無事だ。他にこれといった金品の類は、とくに持っちゃいない。ちゃんと確かめたわけじゃないから、はっきりとは言えないが……たいしたものは取られてないと思う」
「カード類は財布の中だろうとして……、なるほど。言われてみれば、どちらかというと、嫌がらせ目的って感じの荒らし方だな。最近、誰かに恨みを買った覚えは?」
 フロアに散らばる服や本を手にとって、アドルフが言った。
「そんなの……」
 即座に否定をしようとして、俺は一瞬で考え直していた。
 自分に恨みを抱いているであろう人物は、掃いて捨てる程いる。俺が日常的にカモにしている連中だ。ただ、彼らが俺の居所を突き止める術はない筈だ。
 それでは、俺を特定できる人間の中で、俺を好ましく思わない人物ならどうだろう。実は一人、思い当たる男がいた。しかし、彼の名前をここで口に出すわけないはいかない。
 アドルフも知っているその男と俺の間に、今も存在し続けているわだかまりを、どの程度彼が理解しているのかは、俺にはわからない。そして、もしもそれを知ったなら、絶対にアドルフが気に病まないわけがない。それだけは確かだ。
「服や本を散らかしまくり、怒りに任せて靴で踏みつけまくっている……とても計画的な犯行とは思えない。激情に駆られ、玄関を破壊して押し入り、思うに任せて部屋を荒らした。逮捕覚悟か、そこまで頭が回らないただの阿呆か。これだけ派手にやらかしたなら、住人の誰かが気付いてる可能性も高い。聞き込みをしたり、あるいは前科持ちなら科学捜査ですぐに捕まりそうなものだが…………、まあ、いずれにしろ警察に通報できたらの話だな」
「それができるなら、さっさと連絡してる」
 俺はあれからアドルフにしか電話をしなかった。警察などという公共機関に頼れる生活をしているなら、苦労はしない。出来もしないとわかっていて、不毛な楽観論をわざわざ繰り広げたアドルフが、少しだけ憎らしかった。
「となると、こっちで解決するしかないわけだ。お前、今日は俺のところに来い」
「そんなわけにいかないだろ、ドアを壊されたままだし。部屋もこのままじゃ……」
「これを片付けていたら、明日になっても終わらないぞ。俺も手伝ってやるから、とりあえず今夜はここにいない方がいい。入口のことなら心配するな。ちょっと電話を借りる」
 そう言うと、アドルフは俺の返事も待たずに、どこかへ連絡をして、人を呼び出していた。間もなく警備会社の人間がやってきて、アドルフから指示を受けると、背中に会社のロゴが入った制服姿で玄関前に立ってくれる。一晩このまま見張ってくれるらしい。お蔭で少しだけ安心出来た俺は、アドルフの車で彼の家へ向かった。
 何も持たないで自宅を出てしまった俺に、アドルフは未使用のパジャマを貸してくれたが、一人暮らしである彼の寝室には、俺も何度か利用したキングサイズの寝台が一つきりである。彼とはすでに関係を持っているのだから、ベッドを共にすることを今更躊躇う必要もないのだが、さすがにああいう事件があった直後で、肌を重ねる気にはなれない。結局、リビングのソファを使うと決めた俺に、アドルフは何も言わず一人で寝室へ向かった。
 その晩はほとんど寝ることができなかった。それでも、ときおりウトウトとしていたらしく、いつのまにか足元で丸くなっていたモンブランを見付け、彼が俺を慰めてくれているような気がして、少しだけ癒された。



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