裏通りに泊めてあるベンツへ向かい、追及してくるアドルフへ仕事へ行くと告げると、案の定彼から引き止められた。今日のところは大人しく、アドルフの家へ戻り、彼と一緒にいたほうがいいというのだ。だが、俺は真っ向から反論した。
「自分で犯人が見付けられないなら、じっとしていても仕方ないだろう。それに、犯人がどこかで俺を監視しているのだとすれば、ここからお前の車を尾行して、俺の逃げ場を突き止めるかも知れないじゃないか」
「そりゃそうかもしれないが……」
一応の理屈を認めたらしいアドルフが、語気を緩める。俺はさらに彼へ告げた。
「それなら一日車で動きまわっているほうが、気が付いた時に撒きやすいし、逃げやすい。……お前の心配は有難いが、俺の言い分ももっともだろう? 大丈夫だ、何かあったらすぐに連絡する……」
そう言って素早くアドルフへキスをすると、俺は自分の車へ乗り込んだ。
「約束だぞ」
「ああ」
まだ何かを言いたげなアドルフをまたしても置き去りにして、俺はアクセルを踏み、マゼンタ通りへ車を出した。
彼の細やかな気遣いには感謝しているし、心配してくれる気持ちも理解している。自分で言った内容が、実はただの理屈でしかないということも。
それでも俺は、このままアドルフの家へ逃げ込んで、犯人が見つかるまで家から一歩も出ずに過ごすことだけはしたくなかった。それでは俺に悪意を持っているらしい犯人の、思う壺となるような気がしたのだ。そしてこのつまらない意地は、アドルフと別れて一時間もせぬうちに、完全な裏目に出てしまう。
辿りついたシャルル・ド・ゴール空港は、ハブ空港があるアジア方面からの便が、連続して到着してから既に一時間半が経過していた。
屋根看板のない同業者たちは、すでに出払ったあとらしく、タクシー乗り場から少し外れた定位置に車の影は消えていた。こうなると待っていては当分仕事にならないため、到着出口付近まで行き、こちらから客へ声をかけるしかない。
車のエンジンを止め、シートベルトを外していると、窓ガラスをノックされた。
一瞬、警察かと思ってドキリとしたが、運転席のすぐ外側を見ると、二十歳そこそこの青年が、大きなバックパックを背負って立っている。心細げな表情とあまり金を持っていそうにない風貌から察して、おそらく駅かバス乗り場の場所を聞きたい観光客だろうと見当をつけた俺は、あわよくば車内に引き込んでやろうと思い、窓を降ろした。
「すいません……タクシー乗り場を探しているんですが、どうも道に迷ったみたいで……」
弱り切った青年は、縋るような目をして俺に、理想的な質問をぶつけてくる。
「だったら乗りなよ。送ってやるから」
運転席を降りた俺は後部座席へ青年を誘導した
。
鴨が背負った葱ならぬバックパックは、よほど大切なのか、俺の手をわずらわせたくなかったためかは知らないが、トランクではなく青年の足元へ収まった。そして運転席へ戻った俺は、シートベルトを絞め、エンジンを掛けながら行き先を訊く。
「すいません……手荷物を受け取って通路へ出てみたとたん、客引きが凄くて。ああいう人達はみんな、闇タクシーだと聞いていたので無視していたのですが、中にとてもしつこい男がいて、逃げ回っているうちに迷ってしまって……」
「そりゃあ災難だったな。ところで、あんた、どこへ行きたいんだ? そろそろ車を出さないと、後ろからせっつかれそうなんだが」
ルームミラーに、戻って来たらしい同業者の車両が二台見えていた。ここは三台以上停めていると、すぐに空港職員がやってくる。わかっているドライバーは、別の場所で待機してくれるが、恐らく二台後ろの馬鹿野郎は、新参者か、日頃は別の縄張りで商売しており事情を知らないのだろう。すぐ後ろの運転手が、今にもキレそうな顔をしてルームミラーと、こちらを交互に睨みつけている。これ以上並んでいると、ブチ切れたドライバーが前後のどちらへ飛び出してくるにしろ、揉め事になりそうだった。喧嘩などを始めた日には、やはり空港職員か下手をすれば警官が飛んでくるので、結局ややこしいことになってしまう。仕方なく俺は、緩めにアクセルを踏みつつじりじりと車を動かし、呑気な田舎者から返答を待った。
ルームミラーを見ると、青年は後部座席で背を丸めており、どうやらバックパックの中を探っている。ガイドブックか、ホテルの住所を書いたメモでも探しているのだろうか。観光客にはよくあることだが、名所や市内のホテル、デパートにレストラン、裏道に至るまでの通りの名前はもちろん、大抵の場所なら頭に入っているので、いいから行き先を教えてほしかった。
「とりあえずですね……俺の言う通りに動いてくれますか、ムッシュウ・ラスネール」
「何……っと、うわっ……!」
ルームミラーに見えた物体に気を取られ、危うくセンターラインを超えて、対向車線へ突っ込みそうになっていた。慌ててブレーキを踏みこみ、後ろから衝突しそうになった後続車から、派手にクラクションを鳴らされる。わざわざ運転席のウィンドウを降ろした車が、何事かこちらへ怒鳴りながら追い越して行ったが、それどころではなかった。いや、寧ろ運転席を降りて、俺に直接文句でも言いに来てくれたらと願ったが、パリジャンは他人のすることへ、それほど深く関心を持ってはくれない。
「危ないですから、取り敢えず車を出してください……さあ」
固く冷たい感触が、直接首の皮膚へ押し付けられる。
「ああ、わかった」
ルームミラー越しに見える、銃口が俺を狙ったリボルバー銃を視界に認めつつ、俺は言う通りにするしかなかった。
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