ゆっくりと戻った意識の中で、最初に気が付いたものは、視界のほぼ全てを覆い尽くすようなサロメ……いや、こちらを覗きこんでいるアンシーだった。
「大丈夫?」
女にしては低めのトーンと言える程度の、中性的で、気遣うような控えめの声が尋ねる。同時に、艶めかしく濡れて光っている、口唇がその通りに動き、アンシーに訊かれたことを理解した。
「ああ……」
短く応えを返し、自分の発した音量の小ささと、声の酷い掠れに驚く。
そうしながら、艶めかしい口唇のやけに目を引く赤さに、キスをされたのだろうかと、ぼんやり考えていた。丸みを帯びた、彫りの浅い顔立ちの中で、黒目がちな瞳が戸惑うように揺らめき、間近に合わさった視線の絡みが、次第に解けていく。
詰まっていた襟元は、いつのまにかボタンが外されていて、視線を下ろすだけで、深い合わせ目から瑞々しく肌理の細かい胸元が覗けた。膨らみのない胸と、色素の濃い小さな粒が二つ確認できて、間違いなく目の前のアンシーは少年であるのだと、改めて理解する。いや……、東洋人は実年齢に比して若く見えると聞くから、思っているより年齢は高いかも知れない。十七か十八……あるいは、もう少し上だろうか。
「そう……」
不届きな俺の視線に気が付いたのだろうか。そう言ってアンシーが、俺の視線上から外れていく。
「ああ、悪い」
思わず謝りながら一旦視線を逸らし、それから少し遅れて、魅力的なシルエットの後ろ姿を、遠慮がちに目で追うと、肌蹴た服はそのままで、乱れた髪から細長い飾りを抜き取り、纏め髪を崩した少年が、小さな首を勢いよく左右に振っていた。長い黒髪がふわりと扇状に広がり、艶やかな流れが胸や背中に落ちてくる。その瞬間、辺りに広がる、花の様な甘い香りは、アンシーが身に付けている香水か、それとも整髪料だろうか。
俺の謝罪が聞こえなかったのだろうか、それとも無遠慮に服の中を覗きこんでいたことなど、最初から気付いていないか、気にしていなかったのだろうか。アンシーは勝手に話を続けようとした。
「あなたも後ろの方が、良い人なんだね……だから、マルセルがあんなこと言ったんだ……」
言われている内容がすぐに理解出来ず、ぼんやりと視線を巡らす。
視界を緩やかな弧を描いて切り取っているのは、オーガンジーのカーテン。半透明の素材には、色とりどりの小さな花が刺繍され、足元から高く伸びている、金色の支柱へ纏められている。俺はどうやら、先ほどとは違う部屋に移されていた。
柔らかすぎない弾力が体重を支えており、乾いた手触りと、目に映る白さから、寝台だと理解する。所謂、天蓋付きベッドというやつだろうか。だとすると、相当裕福な人物が所有している屋敷にいるらしい。さきほど裸で転がされていた部屋も広々としており、納得がいく。いつのまにか俺はあの部屋で気を失い、この寝室へ移送されたのだ。
そしてなぜ気を失ったのか、直前に何があったのかを思い出そうとした瞬間、視界の片隅に何かが映る。
ベッドから二メートルほど離れた場所で、前後の脚を折りながらじっと俺を見つめている、黒い塊……。
「ひっ……やめろっ、近づくなっ……!」
次の瞬間、俺は人目も憚らず錯乱に陥りかけていた。
「大丈夫……落ち着いて」
「放せっ、あいつを……あの獣をここから追い出してくれ……!」
俺はあの四足動物に犯され、あろうことか快感を得ていたのだ。
「平気だから、心配ない。メイユイは人を襲ったりしない……」
そう言って華奢な両手が、俺の肩を押さえようとする。あの派手な爪飾りは、いつのまにか外されていた。跳ねかえそうとするが、体重を掛けられているせいか、そう簡単に動くものではない。細い体格と女の様な外見を持ってはいるが、そこはやはり男なのだろう。
「冗談じゃない、俺はあの犬に……よ、よせ……やめろおおおお!」
いつのまにか興味を示してきた犬……アンシーによると、名前をメイユイというのだろうか、黒いドーベルマンが寝台へ近づき、上ってこようとする。
「大丈夫、大丈夫だから……。僕が悪いの、ごめんなさい……」
何度も大丈夫と繰り返すアンシー。そして付け加えられた、謎の謝罪。どういう意味かと考える余裕もなく、また逃げ出す間もなく、無骨な前脚が俺の胸に掛けられた。
後になって気付いたことだが、いつの間にか俺の身体には、着ていた服が戻されていたのだ。
「やめろっ、向こうへ行けっ……!」
暴れ、逃れようとする俺の視界に入ったもの。その違和感は、一瞬のうちに頭を混乱させ、次の瞬間落ち着きに変わった。
変化が元来人懐こい気質の犬を安心させたのだろうか、細長い顔がにゅっと顔を突き出し、大きな口からダラリと伸びたピンク色の舌先が、これでもかと俺の顔を舐めまわす。
「メイユイが、あなたと仲良くしたいって言ってる」
「いや、それは……お、おい……わかった、わかったからやめろって……」
とことんしつこい犬の親睦アピールに根を上げた俺に気付いたのだろうか、アンシーが飼い犬へ短く命令すると、人好きな黒い雌のドーベルマンは、大人しく寝台から下りて、先ほどよりもやや近い距離でこちらを見ながら座り直した。
その視線がそれまでと一体どう違うと言うのか……或いは、ただ犬を見る俺の目が変わっただけなのだろうか、黒く輝く澄んだ双眸は、次はいつ飛びついていいのだろうか、どれだけ待ったら遊んでくれるのだろうかという、期待に満ち、無邪気に輝いているようにも見える。
「身体ばっかり大きくなったけど、メイユイはやっと一歳になったところ……ちゃんと躾けたつもりなのに、なんだか人一倍遊び好きで、寂しがり屋さんみたいなんだ。ついでに言うと、とっても寒がりさん。ああ、もちろんけっして人を襲ったりはしないよ……まあ、飼い主を守るためなら、話は別だと思うけど」
確かに、あのような親睦の洗礼を受けたあとならば、アンシーの話も理解はできる。そして、無闇に人を襲ったりはしないということも。
行儀よくカーペットの上で脚を折っている、ブラックタンの大きい犬を見ながら、アンシーに言った。
「雌なんだな」
だから、ましてや人をレイプするなど決してありえないのだ。
ならば、俺が受けたあの経験は一体なんなのか。或いは、どこかに別のドーベルマンが潜んでいるというのか。
しかし、目を引く体格の大きさといい、ブラックタンの艶やかな毛並みといい、この犬だったとしか思えない。もちろん、雌犬にペニスがあるわけないのだが……わけがわからない。
「ごめんなさい」
アンシーがぽつりと謝ってくる。二度目の謝罪だ。
「なぜ謝るんだ?」
マルセルの口車に乗って、ここへ俺を誘拐してきたことを意味しているのだろうか。もちろんそれは、いつかは詫びてもらってしかるべきと俺も思うが、このタイミングは非常に唐突だろう。
未だ誘拐の目的も不明であり、監禁している真っ最中で、逃がしてくれるような気配もない。絶対に違う。
「まずはあなたを安心させてあげるべきだね……結論から言うと、あなたは何もされてはいない」
「されてないって……一体何の事を言っているんだ? ちゃんと説明してくれ」
俺は空港から銃を突きつけられて誘拐されたし、今もこの屋敷に監禁されている。そればかりか、獣に交尾を強いられるという、性的拷問さえ受けて、気を失いもした。それによって苦痛ばかりか、屈辱的な快感さえ覚えてしまい、最中には何度も鋭い犬の爪が引っ掻いたため、そこらじゅうに傷が……考えながら、自分の肘に目を下ろす。
続いて袖を捲り、両腕を確認し、そんな筈はないと、シャツの裾を捲りあげた。
「わかってくれた……かな」
「どういうことなんだ……じゃあ、あの出来事は一体……」
自分の身体に神経を集中させてみる。
アドルフとの行為なら、直後は無視することなんて到底できはしない、あの場所。
容赦のない獣に受けた激しい交わりであれば、こうしてのんびりと、尻を付けて横になってなどいられない筈……だが、痛さが気にならないというよりは、まるきり俺の身体は無痛の状態だった。
強いて言うなら、直前に剥き出しの肌を荷造り紐で拘束されていた手首と足首が、少しばかり今でもヒリヒリとしているぐらいのものだろう。そして未だに痛くて仕方がないのは、言うまでもなく、ルイにルガーのグリップで強打された後頭部だ。ここは恐らく、明日ぐらいまで、我慢が必要だろうと思われる。
ともあれ。
「あなたが感知したものは、僕が送りつけたビジョン」
「ビジョン……?」
展望や将来の構想……あるいは映像という意味だが、文脈から言って、ここは後者と容易に判断できる。つまり、アンシーが俺に映像を送ったということか。
だが、どうやって? アンシーが放送基地かなにかで俺が受像機だとでも言うならともかく、何も持たない人間同士の間で、そんなことが出来るというのだろうか。
混乱していると、アンシーがぐっと顔を近づけてくる。
キスされそうなその距離に、俺は胸の高鳴りを再び覚えた。同時にこれが、何度目だろうと考える。
意識がふっと遠のいて、頭の中では風景が広がる。
穏やかに流れる広々とした川には、小さな舟が何艘も行き交い、霞がかかった空を背景に、先端が丸びを帯びてそそり立つ、でこぼことした急傾斜な山並み。それらを川面から直接見上げているような視点は、中々迫力があった。
それらはまるで、中国の水墨画に見るような、見知らぬ異国の景色である。
再び意識が混濁し、俺に接近しているアンシーと目が合う。
「漓江(りこう)」
潤いを帯びた赤い口唇が、そう伝えてくる。
「今のは……お前がやったのか?」
再びアンシーは上体を戻し、ベッドサイドへ真っ直ぐに背を伸ばしながら立った。
そして俺に解説する。
04
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