ルイに部屋から放り出された直後、背後から太い男の怒声とともに、複数の足音が耳に飛び込み、咄嗟に反対方向へ駆けだす。角を曲がろうとしたところで、声を張り上げる緊迫した会話が、後ろから聞こえてきた。
「中国語……?」
思わず振り返ると、部屋から出てきたルイが、五、六人に囲まれている。全員男でスーツ姿ではあるが、背が高く、身体に厚みがあり、見るからに格闘慣れしているのがわかる。警察かマフィアか、あるいは軍人か……とにかく何かのプロフェッショナルだろう。彼らが鉄道部の差し金かどうかはわからないが、いずれにしろルイ達の味方ではなさそうだった。
俺が足を止めて躊躇していると。
「馬鹿っ、何やってんだよ、行けってば……!」
派手なゼスチャー付きでルイが訴える。
「けど、お前……っ」
確かに俺が助けに入ったところで、あの連中を相手に勝てるとも思えない。だが、このまま放っておけば、ルイは確実に捕まるだろう。そしてどうなるのだろうか。
絵を廊下へ下ろし、やって来た方向へ一歩戻りかける。
「俺と一緒にみすみす捕まるんじゃないっ……アンシーと逃げて、そしてその絵をかならず彼に渡してくれ! 何のためにあんたを呼んだと思ってるんだ!!」
悲痛な訴えに俺は躊躇う足を踏みとどめる。そしてルイの叫びに背中を押されるように、その場を離れ、再び出口を求めて走りだした。
屋敷は広く、まるで迷路のように感じられた。幾何学模様を描かれた絨毯の廊下を端まで走りきると、左右にまた通路が伸びている。一方に下へ向かう階段が見え、そちらから出られるだろうかと期待して近づくが、間もなく階下から中国語の会話が聞こえて、しかたなく反対側の通路まで引き返した。そして通路の奥に扉が開いている部屋を見付け、中に天蓋付きベッドの存在が見えてくる。
「アンシーっ!!」
走る速度を上げ、咄嗟にそう叫びながら部屋へ飛び込んだが、中は無人だった。
「……畜生っ、どこにいんだよ!」
怒りと落胆の矛先を扉へぶつけて、拳を握りしめながら元いた廊下へ引き返す。さらに走り、角を曲がると絨毯の模様が変わって、行く手が明るく光って見える。
「外に出られるのか……?」
だが、やはり進行方向から男達の声が聞こえ、足を止める。片側には部屋が並んでおり、反対の壁は大きなガラスを嵌めた窓が続いていて、ガラスの向こうにはどうやらテラスが広がっている様子が確認できる。テラスは印象的な朱色の円柱が並び、柱と柱の間に赤い灯籠が吊るされている。石造りの手摺は複雑な格子模様になっていて、庭へと階段が伸びていた。階下は緑豊かな庭園と、その先に見える、牌楼というのだろうか……瓦屋根の付いた、目を引く中国様式の門が建ち、そして門の向こうへ広がる、見覚えのある道路と建物群に、俺は自分が今いる場所を確信した。
「パゴダ・ルージュだったのか…………!」
そうとわかれば、急激に外への欲求が高まってくる。
だが、その前にアンシーを見つけなくてはならない。そのうえで、ルイの救出方法を探る必要がある。どうにかして、アドルフへ連絡をとるか……、しかし、ここを襲撃した連中が、マフィアという可能性もあるし、それなら警察へ通報した方がいいかもしれない。この際、自分が逮捕されるかどうかなど気にしている場合ではないだろう。
ひとまず、向こうからやってくる連中と遭遇しないように廊下を戻りかけるが、そちらからも足音が聞こえて、一旦立ち止まる。すぐ隣にある扉へ飛び付き、部屋の中へ隠れようとしたが、残念ながら鍵が掛かっていた。
窓側を振り返る。すばやく視線を巡らせてテラスに通じる出口を探すものの、扉はここからは10メートルほど先にあった。出口まで移動していたら、どちらかの追手が角を曲がって鉢合わせてしまうだろう。しかし目の前の窓は嵌め殺しで、ここからは出られそうにない。
「畜生っ……こうなりゃ、止むをえまい……!」
サロメを窓の下の壁へ立て掛ける。そして両手で拳を作り腕で顔面を覆うと、二、三歩さがった。気合いを入れて、僅かな助走を挟むと、肘でガラスを割りながら、力いっぱい窓へ飛び込む。派手な破壊音とともに、ガラスと木枠がそこらじゅうに砕け散って、俺は屋外へ放り出された。
「ってえ……やっぱ、無傷ってわけにいかないか……あうっ……ててて……」
袖や手の甲に突き刺さっている、目についた破片や棘を引き抜きながら、立ち上がる。廊下を振り返ると、双方から男達が走ってくる様子が見えた。こうしてはいられない。走り掛けてすぐに足を止め、慌てて窓枠へ手を突っ込むとサロメを回収し、絵を抱えた俺は、改めて階段を駆け降りる。
門は幸い開いていた。一目散にそちらを目指すが、建物の裏手から先回りしていた男達がこちらへ向かって走ってくる。背後からも、俺の真似をして窓から出て来た連中が、退路を塞いでおり、結局テラスの下で俺は連中から挟み撃ちを食らっていた。
「畜生っ、お前らいったい何なんだよ! 俺をどうする気なんだ!」
男達は口々に何かを叫んでいるが、俺にはまったくわからない。じりじりと間合いを詰められる。俺は無意識にサロメを庇いながら、徐々に追い込まれていき、ついに高い階段の手摺りに背中が当たった。
「俺の事は煮るなり焼くなり好きにすりゃあいい! けど、絶対にこの絵だけは渡さねえからな!」
半分ヤケクソになりながら言い放つと、目の前の男がなにかを言いかえしてきた。バイ・シャオトン……その男がそう言った気がして、不意に頭が冷静になる。
「おい、何なんだ……悪いけど、中国語はわかんないんだって。せめて英語で言ってくれよ……って、英語もほとんど、知らねえんだけどさ」
俺がそう言いかえすと、男はもう一度言葉を繰り返す。今度はゆっくりと、一音一音区切るようにして、言葉を伝えてきた。
「バイ・シャオトン……どこに……いる?」
落ち着いてよく聞くと、フランス語だった。それにしても発音が酷過ぎたが。
「バイ・シャオトンって……えっと、ルイの……誰だっけ……?」
マルセルが話してくれた簡易ファミリーツリーを頭に浮かべようとしたが、随分と適当に話を聞いていたため、ろくに思い出せはしなかった。
そのとき、間近で爆音が聞こえて、思わず目を閉じながら耳を塞ぐ。あたりに漂う火薬の匂いに気が付き、何があったのかと、おそるおそる目を開けると、俺に質問をしていた男が足から血を流して倒れていた。中国人達が口々に騒ぎだし、続いて門から制服警官達が一斉に雪崩れ込んでくる。逃げるなら今だと判断し、一気に駆けだした。同時に辺りで、警官達と中国人達とが激しい乱闘を始める。
門へ走りかけてすぐに足を止め、踵を返すとテラスの階段を上ろうとする。だが即座に強い力で後ろへ引っ張られた。
「うわっ……とと……!」
「どこへ行く気だ!」
綺麗なフランス語による制止に、ついに警察へ捕まったかと観念しかけて振り返ると、俺の肩を後ろから抑えている、長身の男に気が付いた。
中国人である。
奥二重瞼の涼しげな目に、細く筋の通った形の良い鼻、引き締まった口唇、短く刈り込んだ黒髪……。グレイのダークスーツを身に纏い、ボタンを外したジャケットから、ホルスターに収まったリボルバー銃を覗かせている彼は、まるで香港アクション映画の主人公を見ているのかと錯覚を起こすほど、見目麗しい青年だった。
「………………」
俺が思わず呆気にとられていると、身体が強く揺さぶられる。続いて音を立てて頬を張られた。容赦ない一撃に堪らず眉を顰める。
「聞こえないのか? それとも、フランス語がわからない? あんたはいかにもフランス人に見えるが」
再び肩を強く掴まれ、青年が間近に俺の顔を覗きこんでくる。俺は別に背が低いわけではないのだが、この中国人の身長は軽く180センチを超えているだろう。
後ろから制服警官が全員確保を伝えると、報告を受けた青年が連行を命じ、乱闘していた中国人達が門の外で待っている護送車へと収容された。青年がこちらへ視線を戻す。
「あんたにも来てもらう、ムッシュウ・ラスネール」
そう言いながら青年は、フランス警察の身分証明書を提示してみせた。俺は年貢の納め時を覚悟し、うなだれる。
東洋人の刑事に肘を掴まれて門へと向かいながら、邸を振り返る。もう片方の手で抱えたままの五十号サイズの絵が、やけに重く感じられた。
「アンシーとルイなら先に保護したから安心してくれ」
「えっ…………?」
俺は刑事を見上げるが、切れ長の瞳は前方を捉えたままで、一文字に引き締められた口唇も、それ以上何も語ろうとはしなかった。
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