レイモンの報告によると、隣に住んでいる河上渚は偽名であり、本名は白春麗(バイ・チュンリー)。国籍も日本人ではなく中国人だった。そしてさきほど同伴してきた四十代がらみの女性は葉春華(イェ・チュンファ)で、案の定チュンリーの母親。なるほど、ミノリが指摘したとおり、彼女が俺に中国茶を振る舞ってくれたのも、彼女自身が中国人なのだから当然だ。では、なぜ日本人などと嘘を吐いたのだろうか。
 そもそもなぜ、俺の部屋を襲撃した犯人を探していたレイモンが、隣に住む中国人美少女の身元などを調べていたのか……それを突っ込むと。
「まあ、そりゃああんな美人がすぐ傍にいたら、素性を知りたくなるのが男の人情ってもんで……いやいや、冗談ですって。実はこのバイ親子ですがね……」
 どこまで本気か冗談か疑わしいニヤついた顔を、レイモンは一気に引き締めた。そうすると、元刑事という肩書が、眼光の鋭さに表れ、見る者を委縮させる。そして俺は、バイという中華的な姓に、このところ俺が巻きこまれていた、様々な事件の結びつきを予感した。
「ひょっとしてバイ・シャオトンの事件と……関係があるのか?」
 俺が問うと、レイモンは少しだけ目を丸くした。
「へえ、よくご存じで」
 だが、それほど驚きを見せることもなく説明を続けた。
 河上渚の名前で国籍まで俺に騙っていたバイ・チュンリーは、母親イェ・チュンファとともに、元々リヨンに住んでいたのだが、本国から彼らを追跡していた公安部の目を眩ますために母親と別れ、単身パリへ引っ越した。そして偽名を使いモントルイユのアパルトマンへ潜み、日本人留学生の振りをしてメッシーヌ・ベルシー大学へ通っていたが、そこで仲良くなった学生に付き纏われ部屋まで押し掛けられるようになり、しまいには勝手にパスポートを見られ、本名と国籍まで知られてしまったため、慌ててチュンリーはこのアパルトマンへ転居した。
 モントルイユの経験からガードを固くしたチュンリーは、ストーカーの尾行を警戒し、隣の男と同棲しているように見せかけることを思いついたという。ほとんどの時間を隣で過ごし、自分の部屋では常に遮光カーテンを閉め切り、物音を立てず、さらに玄関に監視カメラを取り付け、誰もいないことを確認したうえで出入りする徹底ぶりだ。彼女の警戒は正しく、予想通りチュンリーを追っていたストーカーは、まんまと騙され、隣の家のドアノブを破壊して忍び込み、盗聴器や隠しカメラを仕掛けているうちに、洗面所のシェーバーや洗濯物から男の影に気付いて逆上し、部屋中を荒らして出て行ったのだという。
「つまり、渚……いやチュンリーだっけか……あの子が俺の部屋に入り浸っていたっていうのは、付け狙うストーカーの目をくらますためだったってわけか」
 俺が言うと。
「隣に住む若い娘が、突然中年男性に恋心を抱いて、押し掛け女房のようなことをしてくれる……なんて、男からしてみりゃあ、夢の様な話ですがね。上手い話には裏があるってのが、世の常ってもんでしょ。でもまあ、いっときでも騎士のように、彼女を守ってあげたんだと思えば、そう悪い話でもないんじゃないですか?」
 意味ありげにレイモンがニヤニヤと笑った。
 俺は何も言っていないのに、どこか見透かしたような口調が勘に触ったが、まったく下心がなかったかと追及されると、元刑事相手に勝てる自信はないので、敢えて自己弁護は控えておく。
「でもって、そのストーカーってのが、あのピザ屋ってわけか」
 この話において、もっとも俺が驚いた点がそこだ。レイモンは頷くと。
「ダニエル・オジェ、十九歳。チュンリーと同じくメッシーヌ・ベルシーの学生で、近代美術史の授業で一緒になって以来、交友が生まれたようですね」
「つまり、最初は良いお友達だったってわけか」
「留学生のチュンリーにしてみれば、知り合いもおらず心細かったところへ、優しく声をかけてくれるダニエルの存在は嬉しい味方。しかしダニエルの独占欲はあからさまで、チュンリーが他に友達を作ろうとすると、怒りを露わに彼らを遠ざけようとする。それは当然で、チュンリーがダニエルを一人目の友達と見ていたのに対し、ダニエルは恋愛対象としてチュンリーを意識していた。おまけにダニエルの態度は傍目にも異常で、チュンリーが急用で席を立つと、後を追い、チュンリーが授業に来ていないと気付くや、ダニエルも帰ってしまうし、しょっちゅうクラスメイト達へ、チュンリーの居場所を聞いて回っている……恋愛が不器用では済まされない、一方通行な強い執着心ですね。おまけに招いた覚えのないアパルトマンへまで押し掛けられ、とうとう恐怖を感じたチュンリーは引っ越し……」
「俺を隠れ蓑にして、ピザ屋に扮したダニエルによって、俺の部屋が破壊されたわけだな」
「そういうことですね、ご愁傷様でした」
 言葉を受け継いだ俺を、レイモンが労い、同情的な表情を浮かべる。
 ちなみに、俺の玄関にはチュンリーが取りつけ監視していたカメラもあったらしく、レイモンによってそのカメラまで取り外されたため、家からチェックが出来なくなったチュンリーは、直後に玄関でダニエルと遭遇し、恐怖のあまりアパルトマンを飛び出して、警察に飛び込んだらしい。そしてこの度の逮捕劇に繋がるのだそうだ。自分も公的機関から追われている身だと言うのに、よほどの恐怖だったのだろう。確かに巻きこまれた俺としては、お蔭で散々な目に遭わされたが、よくよく考えてみれば、直接的に俺を狙っていたわけではないぶん、事態がはっきりしたことは、いくらか安堵につながった。なるほど、事情がわかってみると、さきほどチュンリーの母親が俺に謝ってくれた理由も理解できる。そしてあれは、単純に謝りに来たわけではなく、親子ともども挨拶に現れたという気がした。
「でもって、チュンリー母子はこれからどうするんだ?」
 公安部の目を眩まし、日本人に扮していたということは、チュンリー母子もまた、バイ・シャオトンと同じく、中国当局に追われていた筈だ。
「さてね……そこまではわかりませんが、公安部が家長のバイ・シャオトンを確保したとなると、妻と娘が野放しってわけにもいかないでしょう。たぶん、一緒に本国へ戻ることになるんじゃないですか?」
「シャオトン、捕まったのか……」
 果たして俺がパゴダ・ルージュに監禁されていた間か、それとも救出された段階かはわからないが、フーチェンはすでに訪仏の使命を終えていたようである。
 この仕事が終われば、アンシーを迎えに来ると言っていたフーチェン。あの兄弟が揃って漓江に戻る日は、結構近いのかも知れないと俺は考えた。



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