エピローグ

 九月も半ばに入った『ラ・パゴダ』の中庭は、爽やかな夕方の風にゆっくりとした足取りで近づく秋の訪れを感じられる。午後7時過ぎに上映が終了した地下の映画館からは、相変わらず若い女性達が次々と建物の外に吐き出され、その顔はどれも冷めやらぬ興奮に蒸気して見えた。
 後方に席を確保していた俺達は、一番にホールから出ており、運よくオープンカフェの椅子へ陣取ることができた。六脚しかない白いベンチに腰を収め、ジタンに火を点けようとして止める。よく見ると、テーブルに禁煙のステッカーが貼ってあった。近頃はどこでも喫煙者が露骨に排除される悲しい風潮だ。それでもまだ、他のEU諸国に比べれば、この国は遥かにましだと聞くが。
「同性愛映画ならそうだと、どうして先に教えない」
 少し遅れてやってきたミノリの顔を見るなり糾弾した。
「訊かなかったじゃない。それに、日本様式の映画館で日本のサムライ映画が見たいって誘ってきたのはそっちでしょう? まったく、こっちは締め切りがあるっていうのに……オレンジジュースください」
 ミノリが、自分だけウェイターに注文した。そのまま戻ろうとした気の利かないウェイターに、俺はコーヒーを二つ追加で頼む。
「ああ、例の『パリの中の東洋』ってやつのことか。……だってお前、あのポスターを見たら、普通のサムライ映画だって思うじゃないか。サムライ同士のゲイ映画だなんて、誰が想像するかよ。まして日本人がそういうモンが作るなんて、思わないぞ」
 『パリの中の東洋』というのは、ミノリが日本の出版社から依頼されている本のタイトルであり、……いや、正式なタイトルかどうかまではわからないが、ミノリはその本の挿絵を依頼されていた。
 そもそも、その仕事に絡んで俺とミノリは、この不思議な映画館、『ラ・パゴダ』へ先週の金曜日にやってきたばかりだった。そのとき、ミノリの仕事関連で、俺達は地上階で上映していた『西大后』を見たが、地下では日本映画の『禁断』を上映していた。『禁断』のポスターは、若い美しいサムライが、カメラに向かい日本刀を構えていて、そのポスターを見た俺は激しくこの映画に惹かれたのだ。まさかその若きサムライが魔性の美青年で、他のサムライ達を次々と性的な意味で食いまくる内容だとは思わなかった。
「そのサムライ同士のゲイ映画を、見たい見たいってしつこく言ったのはおじさんでしょう? あたしはこの監督嫌いだって、最初に言ったはず! 自業自得だっつうの!」
 ミノリが机を叩きながら俺を非難する。そう言われてしまうと、反論の余地もない。凛とした佇まいの青年侍に惹きつけられ、何より日本様式の映画館で日本の歴史映画を見るという行動に強い衝動を掻き立てられたのは俺だ。
 確かにミノリは最初から渋っており、監督を嫌いだと表明もしていた気がする。あのような物語性の薄い内容であれば批判的になっても仕方あるまい。しかし、若い女性が大半を占める観客達は、ミノリを除いてみな一様に頬を染め、満ちたりた表情をしているのもまた事実。
「なあ、こういうことは、お前に訊くことではないかもしれないが、……お前以外の女子達はあの映画を見て、どこにあれほど満足しているんだろうか」
 ミノリへ質問してみる。すると、あっさり答えが返ってきた。
「主役の若い二人は、日本でも人気のある俳優なんだよ。主人公やってた子のお父さんは、もう亡くなってるけど、探偵ドラマで有名な俳優だしね。それに、美男子同士のラブシーンは女の人を歓喜させるものでしょう? 美少女同士のラブシーンが男を喜ばせるのとおなじで」
 レズものAVが世に溢れている理由を考えると、世界の真理も見えてくるというものだ。
「やや了解した」
「やや?」
 ならば、あれを見て不貞腐れているお前は女に入らないのかという疑問は残っていたが、口にしない分別も俺にはあった。
「日本の歴史的大舞台にホモセクシャルが無縁と考えるところから、お前は間違ってるぞ」
 さらに遅れて出てきたアドルフが、会話に途中参戦した。しかも話題を少々引き戻されている。
「地下からここへ出てくる間、あの子達に一体何をしてきたんだ?」
 アドルフの背後では、女性達があからさまにこちらへ視線を向けており、うっとりとした表情をしている。浮世離れしたアドルフの美貌に、見知らぬ通行人ですら目を奪われてしまうのはわかるが、振り返った俺と目があった順から、彼女達はその目を一層輝かせ、蒸気した表情で共にいる友達らしき女性らと、浮ついた声で花が咲いたようにお喋りを始めていったのだ。
 まるで映画スターにでもなったようだと、気を良くしていたら。
「おじさん、そこはあまり深く突っ込まないほうがいいと思うよ。夜眠れなくなるだけだから」
 同情するような声でミノリが意味深に言った。
「余計気になるだろ」
 仄めかすぐらいなら答えを言ってほしい。さらにアドルフが身も蓋もない調子で話を打ち切り、そして話題を戻す。
「女のことなんぞどうでもいい。……あの映画に描かれていたものは『衆道』と言って、れっきとした日本の伝統文化だ。女のいない戦場では、若い男が代わりを務めた。侍という男社会にその慣習は浸透していたらしいが、男色は昔から高貴な嗜みとして確立されてもいた。日本ではあたりまえの恋愛形式だ」
 堂々とアドルフが言い切る。俺はミノリに視線を移すと。
「そうなのか?」
 確認した。
「疑うのか」
 アドルフが不満を表明する。
「いや、だってお前は日本人じゃないだろ」
 日本へ行ったこともないフランス人から当たり前と言われて、素直に信じられるわけがない。ましてやアドルフはゲイだ。
「まあ、男色文化があたりまえかって言われると、言いすぎな気もするけど……」
「ほら見ろ……やめなさい」
 アドルフへ勝利宣言する一方で、ストローを口先で振り回すミノリに注意する。
「でも、衆道に小姓、陰間……確かに日本ではいつの時代のどんな社会であっても、男色文化が存在したのは事実だよ。古くは神代の時代、古事記の中で日本武尊にそういうことを匂わせる描写があるらしいけど、男色が本格的に広まったのは、たぶん奈良時代以降の僧侶や貴族達の稚児制度からになるから……となると、8世紀ってところじゃないかな。そこから武家社会、歌舞伎世界に小姓や衆道制度が流行して、19世紀後半、西洋文明の流入とともにキリスト教的価値観によって禁止されるまでは、確かに日本の文化へ根付いてる部分はあったかも」
「ってことは、日本では今でも禁止されてるのか?」
 俺が訊くと。
「まさか。一時的に禁止されただけで、すぐに禁は解かれたよ。っていうか、別に禁じる理由なんてないと思うし」
「いや、まあそうかもしんねえけど……しかし、神話にまで登場ってすげえな。まるでギリシャだ」
「逆に言えば、キリスト教とイスラム教で禁止していることが、不自然という見方もできる」
 アドルフが言った。
「しかし、日本がゲイフレンドリーな国だったとはな〜、あまりそういうイメージがなかった」
 俺が言うと、今度は首を捻りながらミノリが唸る。
「……うーん。いや、別にそういうことはないと思うし、ゲイが多いってことでもない。あたしの知っているゲイなんてオーナーとおじさんぐらいだし。でも、ことさら差別されてはいないし、確かに古くから男色文化があったってだけのことだよ。あと、日本武尊の男色描写って、今で言うとレイプ後に相手を殺人ってやつだから、ギリシャ神話の同性愛描写とはかなり意味が違うと思う」
「それは確かに凄いな……。だが、ギリシャ神話も近親相姦や獣姦のオンパレードだから、負けてはいないぞ」
 軽い調子で応酬したアドルフの言葉にドキリとする。その瞬間、俺の脳裏を、覆い被さる黒い犬が過っていた。
 再びストローを弄びだしたミノリが続ける。
「同性愛が受け入れられてるっていうのも、ちょっと違う気はするんだよね、やっぱりそう言う人は隠してることが多いし。ただ、人に知られたからって、他の国みたいに路上でリンチされたりはしないってだけ。それって単純に、日本人の大人しい気質による結果だと思うよ。……けどね、あの映画って原作があって、そこでは新撰組をテーマにさまざまなエピソードが書かれてるんだけど、物語のほんの一部でしかない同性愛エピソードを殊更大きく取り上げ、異色性を強調してるところに、いやらしさを感じるんだよ。そもそもあの監督って日本じゃ有名な左翼思想家で、よくテレビに出ては、子供みたいに気ままな体制批判を繰り広げててさ。どういうわけか日本の左翼って、やたらと自分の国を貶めようとする人が多いんだけど、あのおっさんも同じ。……そう考えると、あの映画だって、別に純粋な同性愛への理解から作られた作品じゃないと思うんだよね。意図まではわからないけど、新撰組っていう当時の体制側による警察組織であり、今でも国民的人気がある武士たちへの、ある種の愚弄が込められてると思う。その程度の男だよ、あの監督は」
「まあ、その男の事や日本の事情はよくわからんが……色々と複雑なんだな。ええと、さっき何か言おうとしたんだが……何だっけな」
 ミノリに一つ訂正したいことがあった筈だが、話が流れ過ぎたために、俺はそれを思い出せずにいた。
 とりあえず、ミノリがその監督を嫌いなことだけ理解できた。
 俺が曖昧な返答をすると、ミノリは深い溜息をひとつはさんで。
「……本当、屈折してるのよ、あたしの国って。……ただ、映像の作り方はさすがに綺麗だった。あのおっさんは大嫌いだけど、それだけは認めるよ」
 そう続けた。
 映画監督と画家。職業は違えど同じ芸術家同士、認めるところは認めるミノリの潔さに、俺はなぜかサムライという言葉が、改めて頭に浮かぶ。



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