禁煙のカフェから腰をあげて、通りへ一人出てくると、俺は漸く煙草をくゆらせた。すっかり日は沈み、夜の闇に包まれたバビロンヌ通りには、照明によって浮かびあがっている『ラ・パゴダ』のエキゾチックな外観の美しさが目を引く。
 俺が席を外したカフェでは、何を話しているものやら、アドルフに向かってミノリが前のめりになりながら一生懸命に訴えていた。席を立つときのテーマは、確かモンブランの毛玉処理だったと記憶している。
 二本目のジタンに火を点け、俺は通りへ目を向けた。
 オレンジ色の街灯がポツポツと並ぶ路地には、ボン・マルシェのショッピングバッグを手に、子犬を散歩している老婦人と、リセの制服を着た若いカップルが歩いている。ごく当たり前の日常を目の前に、銃撃戦の末、パゴダ・ルージュを解放された昨日の出来事が、だんだん現実の物とは思えなくなっている自分を意識した……。
 あれからルイやアンシーがどうなったのかもわからず、それについて今後フーチェンが、俺に連絡をよこしてくれる由もない。ましてや、昨夜以来マルセルの姿もまったく見ておらず、どこで何をしているのかもわからない。いや、マルセルについては、あいつがどこでどうなろうと、俺にはどうでもよいわけだが。
 そして、二日ぶりに帰宅したアパルトマンで、繰り広げられていた、ピザ屋の逮捕劇。今となっては、あの少女が果たして本当にピザ屋でバイトをしていたのか、それともピザ屋の扮装をして、アパルトマンに潜り込んでいただけなのか疑問が残る。おそらく、そこは後者だろう。
 昼ごろ目を覚ました俺が渚を訪ねてみると、夜の間に引っ越したのだろうか、早くも表札が消え、人気がなくなっていた。
 ルイにアンシー、フーチェン、そして渚……。誰も彼もが姿を消した今、この数日に亘り俺を撒きこんで騒動を起こしたあの中国人達が、果たして本当に存在したのか自信がなくなる。……あるいは、部屋で寝ていた俺が、ただ壮大な夢を見ていただけではないだろうかと。
 ただひとつ、手元に残された『サロメ』だけが、あの出来事が嘘などではないことを静かに訴えていた。
 約束通りに俺は、ルイから預かったメモの場所へ、絵を持って向かった。ところが、記されていたリヨンの住所には、まったくの別人が住んでいた。居住者や近隣住人たちへ尋ねてみても、そんな中国人は知らないと言われ、そのまま引き返すしかなかった。結局『サロメ』は未だに、俺の家へ置いてある。
「まったくどうなっているやら……」
 短くなった吸いさしを地面へ落とし、靴底で踏みつぶした。
 そして、ふたたびカフェを見ると、一瞬だが、確かに視線が合った筈のアドルフが、何故か黙って目を逸らしたことに気が付いた。ツキリとした胸の痛みを感じつつ、結局俺も視線を逸らす。
 考えてみれば、アドルフへも妙なわだかまりを心に残したままだ。
 この二日間、俺がどこで何をしていたのかを、彼が訊いてこなかったから、敢えて俺も説明していない。こういう調子が続くのはよくないということぐらい、俺もわかっている。だが、自分に折り合いがつけられないまま、なしくずしにアドルフと付き合うのは、彼に対しても誠実でない気がした。
 そんなときに脳裏へ刻まれた、ドーベルマンとの交尾……。自分に生じる性的志向の変化を自覚しつつあったさなか、あれがただの映像だったとしても、俺にはショックが強すぎた。あんなものを俺はけっして求めたりはしていない。だが、俺の記憶はあの行為を快感とともに思い出す。それはすべて自分の記憶だとアンシーが説明してくれても、感覚として獣姦に耽溺した自分を忘れられない以上、俺にはどうしても割り切ることができない。だとすれば、俺は男に抱かれるばかりか、犬に貫かれ悦ぶ変態だ。そんな自分を、俺は受け入れることなどできない。まして、万が一アドルフに知られでもしたら、俺は……。
「まあ、マナーの悪いこと!」
 不意に目の前に現れた若い女がそう言って、俺の足元から吸殻を拾い上げた。そして綺麗にマニキュアを塗った指先で摘まんだそれを、俺に突きつける。
「すいま……なんだ、お前か!」
「こんばんは父さん! またここで会うなんて不思議ね。今日は一体誰とデートなの?」
 そう言って娘のアリーヌが首を伸ばし、肩越しに俺の後ろを確認する。そして誰かへ向けて軽く笑顔を浮かべて見せた。
 細身のシンプルな白いシャツに、タイトなシルエットの黒いロングスカート、そして素足に銀色の華奢なサンダルを履いた彼女は、両手にデパートの紙袋を二つ提げていた。その一つに、日用品雑貨が溢れんばかりに詰まっているあたりが世帯臭い。どこかへ行った帰りに、買い物をしてきたといったところだろうか。装いからして今日は、友達と遊んでいたという感じでもない。
「デートじゃねえよ。お前は、旦那と一緒か?」
 素直に吸殻を受け取りながら探りをいれる。
「旦那を見送りに行って来たところよ。明日の朝からニースで講演があるんですって。前乗りしないと間に合わないみたいだから、ちょっと空港まで送って来たところ」
「そうか、忙しいんだな」
 返事を聞いてあからさまにホッとしている自分がいた。
 アリーヌの夫ジョリス・ド・カッセルは貴族階級出身の家柄で、この夏、父親の地盤を引き継ぎ上院議員に当選した政治家だ。俺の様な男が、女房の父親面をして会える相手ではない。
「まだ、もう少しここにいたいのでなければ、父さん送ってくれない?」
 アリーヌがそんなことを言いだす。俺は手元の荷物を見て首を捻った。
「送ってって、お前車じゃなかったのか? 大体、旦那を送って来たって今言っただろ」
「見送りに行ったって言ったのよ。ジョリスは私の車には絶対に乗らないの。だからタクシーだったの。ねえ、途中まででいいから、乗せてもらっちゃダメかしら? それとも、お友達ともう少し予定があるの?」
「いや、そうじゃないが……そうだな。じゃあ、ちょっと声だけかけてくるから待ってろ」
 俺は少し離れた場所からアドルフとミノリに声だけかけると、返事も待たずにアリーヌを連れて、さっさと映画館を出た。そして娘が日頃、一体どういう運転をしているのかと気になりつつ、どうせなら食事でもしていかないかと彼女を誘い、仮初めの幸せを噛み締める。

 

Fin.



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