「アバライン警部補、お疲れ様です。・・・あ、巡査部長も・・・」
看守係のラリー・ベイル巡査が、アバラインを見て椅子から立ち上がり、敬礼をすると、そこへあきらかに俺の名前を、ついでに付け加えていた。
「8番が空いていたな」
アバラインがベイルに確認する。
「奥がいいんでしたら、12番も空いてますよ。ただの酔っ払いでしたから、今朝出て行きました」
「そうか、すまないが少し借りるぞ」
会話を聞く限り、どうやらアバラインは、ちょくちょく留置場の空き室を借りているらしかった。
ベスナル・グリーン署でも、仮眠室代わりに空いている房を個人的に使っていた、暢気なベテラン刑事がいたが、あるいは彼もそのクチなのかもしれない。
無防備に寝ているアバラインを見て、これまでに変な気を起こす看守が、一人もいなかったのかどうか怪しいものだ。
アバラインは一番奥の房までやってくると、先に俺を入れて、そのまま壁際まで背中を押して歩かせた。
どうやらあまり、聞かれたくない話のようだ。
俺の肘に手をかけたまま、すっとアバラインが顔を寄せてくる。
目の下にくっきりと浮いている濃い隈と、天井付近の明かり取りから差し込む陽光が、彼の頬の上に作り出している、長い睫の影。
ヘイゼルの瞳が虚ろに俺を見上げてくる。
疲労が溜まっているのであろう、そのぼんやりとした表情が、妙に色っぽく感じる。
「えっと・・・フレッド・・・」
だが、アバラインはモンローの・・・畜生、やめろ。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺は一歩下がって、アバラインから距離を置く。
「ジョージ?」
「あ・・・ええと、話って何ですか?」
アバラインの顔が、一瞬落胆で曇ったように感じたが、これは俺の妄想が作り出した幻影だろう。
彼もそのまま距離を詰めることはなく、しかし低い声で話を始め、俺にも極力声を抑えるようにと、最初に求めてきた。
「早朝、お前が帰ってから1時間後ぐらいに、ホワイトチャペル署へCIDのロバート・アンダーソン警視監が見えられた」
「ああ、会議にも出られてましたよね。怒られるかと思いました」
「呆れられてはいたがな・・・。彼を交え、今後の捜査方針について早朝に会議があったんだ。その結果、マルベリー・ストリート22番地の靴職人、ジョン・パイザーの逮捕に踏み切ることになった」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ・・・なんですか、いきなり逮捕って! 大体、さっきの会議では名前も出ていなかったじゃないですか・・・って、とりあえず後半部分では、ですけど」
「気にする必要はない。前半部分でも出ていない」
「冗談言ってる場合ですか、そんなの無茶苦茶だ!」
「冗談で済めば、俺だって苦労するか・・・っ!」
「フレッド・・・?」
終始伏せられていたヘイゼルの瞳が俺を見上げ、虚ろに揺らいだかと思うと、気不味そうに彼はまた、顔を逸らした。
「すまん。・・・寝てないから、気が立っていた。無理だと思うが、今のは忘れてくれ」
「いえ・・・俺こそ酷い言い方をして、すいません」
アバラインだって、けっして納得しているわけではないのだ。
警視総監、副総監、警視監・・・権力の中枢にいる人々が下した決定を、警部補に過ぎない彼が覆せるような力はなく、ましてや俺達、下っ端の刑事に、それについて何かを言える発言力もあるわけはない。
それが警察組織の現実だ。
組織なのだ。
「そっちに何人かつける」
不意にアバラインが、低く呟いた。
「え・・・」
「だから・・・お前の話では、そのバーネットという男が怪しい・・・そういう話ではなかったのか? それに張り込むなら、面が割れているお前よりも、別の捜査員に行かせた方がいいだろう」
「あ・・・、ありがとうございます!」
思わず目の前の彼を抱きしめていた。
「ば、ばかっ・・・ジョージ・・・!」
「あ、ごめんなさい・・・、フレッド?」
ギュウギュウと胸の辺りを押し返されて、慌てて手を放したが、嫌がった筈のアバラインはどういうわけか、耳まで真っ赤になりながらも、そのまま俺の胸にしがみついていた。
その手がすっと背中に回される。
戸惑いつつも、恐る恐る、俺も彼を再び抱きしめた。
俺よりもずっと細い背中。
頬を擽る褐色の髪は、想像していた通りに、ひんやりと冷たく、柔らかい。
「信じてくれ・・・」
「え・・・?」
低く短い呟きだった。
「クリーヴランド・ストリート19番地・・・確かに先週、モンロー元CID部長と訪ねたが、彼とは何もない」
「あ・・・昨日の」
「理由があって今は話すことができない・・・本当にデリケートな問題なんだ。それでも、俺とモンロー卿が同性愛の関係にあるなどというのは、とんでもない誤解だ」
ベイツが言っていたスキャンダル。
「あの・・・クリーヴランド・ストリート19番地って、一体何なんですか?」
「男娼館だ」
「だ・・・っ!」
そのまま復唱しかけて、思わず口を噤んだ。
ヘイゼルの瞳がジロリと俺を見上げる。
そんな言葉を大声で叫んだりしたら、さすがに看守が飛んでくるだろう。
「とにかく・・・詳しくは言えないが、今、モンロー元CID部長とそこを調べている。それだけなんだ」
「調べてるって・・・、要するに極秘の内偵ってことですか? だから俺にも言えないと・・・」
男娼館を内偵捜査しているってことは、つまり客を装って潜入しているってことじゃないか。
となると、店でそれなりの演技をしているってわけで、元CID部長と男色の関係にないとしても、店では誰かと・・・やはり面白くはない。
「だから、デリケートな問題で・・・」
「デリケート、デリケートって、何なんだよ、さっきから! 結局俺には言えないんだろう? だったら、最初から何も言わないでくれよ・・・大体、なんで内偵捜査にCIDの警視監が自ら乗り出したりするんだよ、可笑しいだろ・・・! あんたとそういう事したいから、しゃしゃり出てきて・・・・っ!?」
「・・・・・・・・」
一瞬息が出来なくなっていた。
目の前の光景と、自分の身に起きた事が、とても信じられなかった。
「・・・フレ・・・ッド・・・?」
俺の首にしがみつき、口唇を奪った男は、ゆっくりと俺から離れて。
「他の誰が何を言ったって構わない・・・ベイツがどんな出鱈目を書き立てようとな。けれど・・・お前にだけは、信じてほしい」
再び彼が俺に抱きつき、口唇を押しつけてくる。
今度は俺もアバラインを受け止めて、自分からも彼にキスをした。
結局アバラインは、それ以上のことを俺に語りはしなかった。
ただし、まったく知る望みがないかというと、そうでもないらしく。
「どうしても俺に守秘義務を破らせたいというなら、お前にもそれなりのリスクを負って貰う・・・ああ、ラリーありがとう」
「あ・・・えっと、お疲れ様ですアバライン警部補・・・と、ゴドリー巡査部長・・・・」
ベイルは再び立ち上がって、アバラインに敬礼し、やはり俺の名前をそこに付け加えていた。
「お疲れ」
俺もベイルに挨拶だけ返すと、階段を上がっていくアバラインの華奢な背中を、二段遅れで追いかけた。
俺たちに12番の房を提供してくれたベイルは、そこで何かが起きたことに気づいていながらも、とりあえず知らない振りを続けてくれるらしかった。
気不味い気持ちを抱えたまま、俺も留置場を後にする。
アバラインだけが、本当に何もなかったかのように、涼しい顔で階段を上り続けていた。
「リスクって、何をしたらいいんです?」
ダメ元でとりあえず聞いてみると、不意にアバラインは足を止めて俺を振り返る。
直後に彼の姿が逆光になってしまって、残念ながら表情は拝めなかった。
一階の廊下へ通じる扉が、重い音を立てて開いていた。
そこから二人の刑事が現れて、彼らに脇を支えられながら、痛々しいほどに頬を腫らした、労働者風の男が連行されてくる。
「警察なんてクソ食らえだ・・・!」
勾留されようとしている彼が、俺たち全員を声高に挑発する。
だが、二人の刑事は慣れたもので、まともに相手にする様子もない。
「はいはい、わかったわかった・・・で、警察がいなくなったら、誰がお前達を、もっと凶悪な犯罪者から守ってくれるんだ?」
「ラスクが守ってくれるさ!」
「御菓子に守ってもらうのか、そりゃよかったな・・・ほら、さっさと歩け!」
騒々しい会話をしながら、俺とアバラインの間を、三人が通り過ぎていく。
リスクの次はラスク・・・ラスクが守ってくれる。
・・・ジョージ・エイキン・ラスクのことだろうか。
どういう意味だ?
ぼんやりと3人の後ろ姿を追っていると。
「さっき以上の関係にもしもなったら、そのときは全てを話してやっても良い」
「え・・・?」
「行くぞ」
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