地下鉄ホワイトチャペル駅を出て、ホワイトチャペル・ロードをのんびりと歩く。
朝っぱらから走り回ったせいか、変な時間に緊張の糸が切れてしまって、少々気が抜けていた。
ホワイトチャペル署の玄関ホールで、ハンチング帽を被った労働者風の男を連行している、ニールと遭遇して、声をかける。
「よお、・・・どうかしたのか?」
「ああ巡査部長、お疲れ様です。・・・その、付近住民からレザー・エプロンが干してあると通報がありまして、本人も自分の物だと認めましたもので、連行を・・・」
「だから、作業用のエプロンだって、さっきから言ってるだろ!」
労働者風の男がニールへ掴みかからんばかりに怒鳴り返した。
一緒に男を連行してきたらしいディレクが、後ろから男を押さえつけている。
またレザー・エプロンである。
「ちょっと待てよ、どういう事なんだ? レザー・エプロンが干してあるってだけで、お前らまさか連行してきたのか?」
「干してあった場所が、バトラーズ・コートの裏庭でして・・・先週からずっとそこにあったと、目撃証言があったのです」
バトラーズ・コートというと、『トッドの理髪店』の裏側にある、泥濘の多い裏庭に面した通りのことだ。
確かに犯行現場のすぐ近くではあるが、それにしても、そこにレザー・エプロンが干してあるだけで、連行してくるというのは、やはり酷すぎる。
「いやいや、全然説明になっていないだろう。レザー・エプロンが殺害に使われた凶器とでも言うならともかく、ほかに何か理由はないのか? いくらなんでも横暴だろ」
このような光景を見せつけられたら、ローランド達が警察を非難して捜査協力を拒むのも当然だ。
ニールとディレクは困ったように顔を見合わせた。
「その・・・警視監から指示がありまして、・・・皮革職人や屠殺業者、外国訛りのある者、市民生活に馴染まず独自のコミュニティーの中にいる者は、徹底的に調べ上げろと・・・、その中で近隣住民から通報があった者がいれば、連行するようにとのことでした」
それでは、ユダヤ人皮革業者や屠殺人は、通報だけで殺人容疑者扱いされるってことじゃないか。
「そんな乱暴な捜査手法が、我が大英帝国の警察のやり方ですか、嘆かわしい話だ」
後ろから聞き覚えのある憎たらしい声がして振り返る。
「ベンジャミン・ベイツ・・・」
トレードマークとも言うような蝶ネクタイを締めて、メモ帳を手にしていた男は、俺を見ると中折れ帽をヒョイとあげて見せ、眼鏡をかけた顔に抜け目のない薄笑みを浮かべた。
「名前を覚えて頂いて光栄です。今日は麗しきアバライン警部補殿はお留守ですか?」
「答える必要はないだろ、とっとと帰れ」
「来ていきなり追い返されるんですか? それはないでしょう、せっかく良い情報を持ってきてあげたのに。切り裂き魔を捕まえる、とっておきのチャンスですよ」
「警察批判の急先鋒とも言えるような新聞のエース記者が持ってきた情報に、なんで俺たちが頼ると思うんだ? 信じられるわけがないだろう。邪魔をするなら力尽くで追い出すぞ」
「だから警察が駄目だって言われているのが、まだわからないんですか? ちゃんと新聞記事に目を通していないでしょう。耳が痛くなる声を遠ざけていたら、悪いところも改善しませんよ。少なくとも先方は警察に協力を申し出てくれているっていうのに、差し出された手まで突っぱねるなんて、自分から選択肢を狭くしているようなものです。自力で解決できるなら、それでも構いませんがね・・・エマ・スミスが殺されて、一体何ヶ月経っていますか」
「記者の分際で、偉そうに刑事に説教垂れやがって、畜生・・・」
言い返してやりたいことは山ほどあったが、犯人を野放しにしているのは事実だ。
「僕らは市民の声を文字にしているだけですし、それが僕らの使命です。あなたにとっては新聞記者なんて蔑みの対象かもしれませんが、少なくとも僕はこの仕事を誇りに思っています。きついことを言われたくないのなら、信頼を回復できるように努力すればいいでしょう。・・・でも、あなたたち現場の刑事が、何もしていないなんて僕は思っていませんよ。現場で顔を合わせている仲じゃないですか。案外、志は同じかも知れませんね」
志は同じ・・そんな擽ったいことを、このベイツの口から聞かされるのは、なんだか気味が悪かった。
「先方は警察に協力を申し出ているって、さっき言ったな・・・誰のことだ?」
「そう来なくちゃ」
ニヤリと笑うとベイツは手帳を閉じて、手を差し出してくる。
「何の真似だ。お前と握手をする気なんて、こっちは1ミクロンもないぞ」
「違いますよ。お連れしたお客様が玄関の外で待っていらっしゃるので、ご案内しますって言っているんです。ほら、行きましょうよ」
つまり仲良く手を繋いで歩きましょうってことか。
「ほうほう、そういうことだったか」
差し出された手を握り返して、次に手首の関節を決めながら軽く捻ってやると、ベイツはその場に転倒したきり、腕を押さえ込んで呻き始めてしまったので、放置して先に訪問者と会うことにした。
「あなたが、警察に情報を提供したいっていう方?」
玄関前に1台の馬車が停まっており、中に座っていた上品な若い紳士に声をかける。
どこかで見たことがある顔だと思った。
「はい。あ・・・あの、アバライン警部補は・・・?」
男は戸惑ったように聞き返してきた。
妙におどおどとしている。
どうやら俺ではなく、アバラインに会いに来たらしい。
そういえばベイツも最初、アバラインの名前を出していた。
「すいません、フレッドは・・・あ、ええと、アバラインは本日ヤードへ戻っています。ひょっとして、お約束されていましたか?」
ベイツの話では、アポがあるとは言っていなかった筈だが、念のために確認をしてみる。
「いいえ、そうではないです・・・それで、あの・・・あなたは刑事さんですか?」
男は漸く、おずおずと馬車から出てきた。
「はい。・・・申し遅れました。ベスナル・グリーン署のジョージ・ゴドリー巡査部長です。今は合同捜査のためにホワイトチャペル署へ出向しておりまして、一連の殺人事件を担当しております。私で問題がなければ、お話を伺いますので、中へどうぞ・・・」
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