「お、お疲れ様であります、巡査部長・・・」
ベイルが上擦った声を上げながら立ち上がり、俺に敬礼をする。
「おう。悪かったな、さっきは起こしちまって」
「い、いえ・・・こちらこそ、大変失礼致しました。巡査部長・・・その、・・・もう、ご用はお済みであられますか・・・」
明らかに挙動不審だったが、まあそれは無理もないだろう。
何も触れずにいてくれているだけでも感謝状物だ。
「まあな」
「それであの・・・アバライン警部補は・・・大丈夫で・・・」
「気安くフレッドの名前を呼ぶな」
「も、・・・申し訳ございませんっ!」
「じゃ、お疲れ」
「は、お疲れ様であります!」
12番の房から出て、ベイルのところへ来るまでの間、既に俺は散々冷やかしの声を浴びて、五月蠅い口笛を鳴らされていた。
留置場へ到着したときには、半分ぐらいの被疑者が寝ていた筈なのに、結果的に俺たちが全員を起こしてしまったようだった。
これは本気で口止め料の金額を、しっかり検討しないといけないだろう。
最後の階段を上ったところで、いきなり目の間の扉が開けられて、俺は危うく足を踏み外しかけた。
「うわっ・・・危ないだろう!」
「も、申し訳ありません・・・ああ、ゴドリー巡査部長、こちらにいらっしゃいましたか・・・!」
血相を変えて飛び込んできたのは、ディレクだった。
「どうかしたのか? 凄い汗だぞ」
「はい、ちょっとハンバリー・ストリートから走ってきたものでして・・・それより、アバライン警部補はご存じないですか?」
ハンバリー・ストリートとは、また随分な距離を走ってきたものである。
「ああ、フレッドならちょっと・・・なんだ、まあ疲れてるみたいでな・・・・用があるなら俺から伝えておくぞ」
突っ込まれないことを祈りながら、俺は適当に話を進めさせる。
最中には彼も声を殺していたせいで気付かなかったのだが、アバラインが受けたダメージは大きく、すぐに立ち上がれるような状態ではなかった。
なんだか自分だけが満足をしたようで、後味が悪かった。
そして、幸いにしてディレクは言う通りにしてくれた。
「では、警部補に伝言をお願いします。ハンバリー・ストリート29番地で殺人です。被害者は街娼。刃物で腹部を切り刻まれ、腹腔から内臓が飛び出しています!」
「何だとっ・・・!?」
一瞬にして、ベイツとリーズの話を俺は思い出していた。
『・・・だって、あの事件で起きていないことを、彼は言っているんですよ。犯人が遺体の腹から内臓を取り出しているのを見たと、リーズ氏は言いました』
嘘だろう・・・そんな、馬鹿な!?
「周辺では抗議デモが繰り広げられていて、馬車が近づけるような状態ではありませんから、コマーシャル・ストリートかブリック・レーンで降りてください。現場には既にルウェリン先生が向かっている筈ですが、今回はフィリップス先生にも立ち会って頂くので、このあと呼んで参ります。とりあえず、僕は警視に知らせてきますので、巡査部長も急いでください!」
ディレクは早口でまくし立てると、そのまま刑事課がある3階へ向けて、階段へ走っていった。
俺も急いで留置場へ戻ると、アバラインを呼びに行く。
嫌な予感がしていた。
事件はまだ、終わっていない・・・いや、こんなものは、ほんの始まりでしかなかったのだ。
ホワイトチャペルには急速に、秋の気配が近付いていた。
1888年9月。
イーストエンドの街角で、青白いガス燈の火の向こう側に、人々を震え上がらせるような恐怖の黒い影が、足音も立てずに忍び寄っていたのだ。
END