このハンバリー・ストリート29番地は、アメリア・リチャードソンという年配の未亡人女性が経営している4階建のロッジング・ハウスで、最上階に住むジョン・デイヴィスという男が、事件の第一発見者だった。
遺体が発見されたのは、午前6時頃。
通報を受けて、コマーシャル・ストリート署のジョウゼフ・ルイス・チャンドラー警部補が、現場へ急行した。
アバラインから指示を受けた俺は、中庭から建物へ入ると、この男、チャンドラー警部補へ話を聞くことにする。
チャンドラーはちょうど、通りからロッジング・ハウスへ入って来るところだった。
本人によると、隣の27番地の中庭を調べていたようである。
「すいません、少しお話を伺えませんか?」
制服警官であるチャンドラーは上背のある、やや神経質そうな男だった。
のちに聞いたところによると、年齢は38歳だが、アバラインよりは10年ほど後輩にあたるようだった。
「君は?」
当直中に大事件へ狩りだされたチャンドラーが、疲労の色が濃い、充血した目を俺に向けてくる。
着崩すこともなくきっちりと詰襟を閉めた制服姿は、真面目な性格を感じさせたが、左手の小指に嵌めたリングが少々いやらしく目に映った。
「これは失礼致しました。自分はベスナル・グリーン署のジョージ・ゴドリー巡査部長です。一連のホワイトチャペル殺人事件の捜査を担当しております」
「ベスナル・グリーン署の刑事か・・・・。すると本部が設置してあるホワイトチャペル署へ出向中というわけだね。確か捜査指揮者は本庁のフレデリック・アバラインだったな。彼はCID発足当時に選ばれた、14名の管区責任者の一人だったと記憶している。また昇進したと聞くが」
「今は1級警部補で、ただ今警察医のフィリップス先生と一緒に中庭で検死に立ち会っておられます。・・・お疲れのところ、申し訳ございませんが、チャンドラー警部補・・・」
こちらが私服で胡散臭く思われているのか、階級が上の制服警官と会うと、無遠慮に根掘り葉掘りと探りを入れられることが、たまにある。
このチャンドラーもその手合いだろうと察した俺は、話が長くなることを嫌って、失礼にならない程度に彼を促してみた。
こんなところで時間を潰している余裕はない。
「ああ、すまん・・・・どうもCIDの連中とは相性が良くなくてね。君がどうこうというわけじゃないから、気にしないでくれ。・・・構わんよ、俺が調べて来たことを、教えてやろう」
そう前置きすると、チャンドラー警部補は不意ににっこりと笑顔を見せる。
CID。
つまり犯罪捜査部(Criminal Investigation Department)は、11年前の1877年、当時の警視総監エドモンド・ヘンダーソンが過激化する凶悪事件の増加に対処するべく、内務省へ組織編成を申請し、認可を受けて翌年3月、ハワード・ヴィンセント警視監を中心に発足された。
要するに、警察における殺しや強盗の専門対策部門というわけだ。
現在アバラインが内偵を進めているという、クリーヴランド・ストリートの案件を、どうやら指揮していたのがジェイムズ・モンロー元CID部長。
モンローは警視監として4年間CIDのトップを務めたが、先月末に突然辞任し、現在は公安警察に異動していると聞く。
チャールズ・ウォーレン警視総監は就任にあたり警察官の増員をはかったものの、軍隊出身の彼はCIDに見向きもしなかった。
面白くないモンローは現在の警察機構からCIDを独立させ、内務省の直轄へ置いてくれと主張し、直属上司にあたる筈のウォーレンへ碌な情報を与えず蔑ろにしたのだ。
さら内務大臣のヘンリー・マシューズは警視総監に本来与えられるべき自由裁量権を与えず、ウォーレンをがんじがらめにしていた。
こんな状態へ、ついにウォーレンはキレてモンローをクビにしたわけだ。
ちなみに現在のCIDトップは、ロバート・アンダーソン警視監。
発足以来、CIDの活躍ぶりは目覚ましい検挙率からも明らかで、幸いにして国民の信頼も揺るぎないが、制服警官達の中にはCIDをライバル視する者や、その人気を妬む声も少なくない。
モンローとウォーレンのゴタゴタに対しても、なぜCIDだけ特別待遇を主張するのだ、という印象を持つ現場警官もいて当然だ。
おそらくこのチャンドラー警部補も、そういった一人なのだろう。
矢継ぎ早に受けた質問の理由に察しがついて、こちらも警戒が緩んだ俺を、不意にチャンドラーはゼスチャーで呼び寄せる。
そして29番地の薄暗い廊下の壁に、へばりついているような細い階段へ軽く腰掛けると、せせこましいそのスペースへ、俺にも同じように座れと隣を示した。
どう見てもチャンドラーの隣に、男の尻が入る余地がなかったので、1段下へ腰を折るようにして俺も座る。
チャンドラーは手にしていた手帳を広げると、今しがた彼が疲労の溜まった躰に鞭打って掻き集めて来たらしい、新鮮な情報を提供してくれた。
「直接の通報者はヘンリー・ジョン・ホランドという若い男だ。午前6時2分、ハンバリー・ストリートから男が数名走って来て、バックス・ロウと同じような死体があると報告を受けた。現場へ急行すると、あの通り。俺も女の死体を確認した」
「その時の遺体の様子は?」
「御覧の通りだよ、君も見ただろう? 女が地面に仰向けに倒れていた。頭はやや塀の方を向いており、左手を胸で広げるようにして、右腕はだらりと脇に垂れた恰好。両膝を外向きに折り曲げて、スカートがその上までたくしあげられていた。腸の一部はまだ繋がったまま、皮膚も付着した状態で右肩の上に纏めてあり、左肩にも皮膚の残った肉塊が載っていたよ。酷い死体だ」
俺は先ほど目にした被害者の無残な状態を、脳裏に呼び起される。
「麻袋で覆ってありましたが・・・」
「あれは目撃者の一人が持ってきたものだよ。ええっと・・・名前はジェイムズ・ケント。グリーンの同僚で、シャドウェルのキング・デイヴィッド・レーンBブロック20番地在住」
既に事情聴取済みだったらしいチャンドラーが、手帳を読み上げながら教えてくれるが、また知らない名前が出て来て、俺は口を挟む。
「すいません、グリーンって・・・?」
「ジェイムズ・グリーン。ベイリーズ・パッキングに勤めている男で、・・・ああ・・・6時10分ごろに会社へ到着し、仲間のジェイムズ・ケントと共に入り口の傍で玄関が開くのを待っていたところ、ジョン・デイヴィスに呼ばれてハンバリー・ストリート29番地の中庭へ連れて来られたらしい。俺が現場へ到着するや、グリーンは出て行こうとしたから、最初に事情聴取をしたのが彼だ」
「その後、グリーンは?」
「会社へ行ったよ。何でも、何かの当番だったそうだ。あとでまた、仕事が終わった頃にでも会社を訪ねてみる」
「御苦労さまです。それで、もう一人のジェイムズ・・・ええと」
「ケントはグリーンを追いかけるようにして一旦会社へ行ったが、すぐに麻袋を持って戻って来た」
「なるほど。第一発見者のジョン・デイヴィスは、ここの最上階に住んでいる男ですよね。姿が見当たりませんが、彼とはお話されましたか?」
チャンドラーは手帳のページを幾つか捲りながら、喋り始めた。
「貧相な年配の男だな・・・ジョン・デイヴィス。御者だそうだ。鐘の音で目が覚めて5時45分頃中庭で遺体を発見したらしい。可哀相なぐらいに狼狽えていたよ。他には・・・ああ、そうだ。先ほどここの家主の家族、ジョン・リチャードソンからも話を聞いている。彼が4時45分頃に中庭へ降りたときには、何もなかったらしい」
俺は、つい先ほどルウェリンから聞いていた死亡推定時刻を思い出し、チャンドラーに抗弁した。
「そんな馬鹿な。被害者が亡くなったのは、少なくとも午前4時半よりも前だと先生が言っていた」
「だとすると、気が付かなかっただけかもな」
「あれほど狭い中庭で? ありえないでしょ。凄い匂いだし」
惨殺死体が内臓や血の匂いをプンプンとさせて、入り口のすぐ傍に横たわっているのだ。
早朝で寝惚けていたとしても、普通は気付くだろう。
「おいおい刑事君、中庭の奥に何があったか本当に見て来たのか?」
「どういう意味ですか」
馬鹿にしたような口ぶりが頭にカチンと来て、俺は一段上に腰かけるチャンドラーを少し睨みあげた。
「トイレだよ。俺が行ったときにも気づいたが、壁へ近づくだけで吐き気がこみ上げてくるような臭さだった。雨が降ったり、気象条件によっては、庭中が糞尿の匂いで充満する筈だ。多少の異臭がそこにあっても、案外気にならなんということは、充分あり得るんじゃないか。しかも4時半過ぎなら、まだあたりは真っ暗だ」
「・・・そうですね」
チャンドラーに論破されて、俺はぐうの音も出なかった。
匂いへ鈍感にならなければ、ホワイトチャペルのような場所で生きていくのは難しいだろう。
「他にご質問は、刑事君?」
嫌味ったらしい呼び方が耳に付いて、腹立たしい気持ちを押さえながら、とりあえずひとつだけ気になっていたことを聞いてみることにした。
「リチャードソンですが」
「ジョン・リチャードソン? それとも家主のアメリア・リチャードソン?」
そろそろ俺は、このチャンドラー警部補と話をすることに鬱陶しさを感じ始めていた。
短時間でこの仕事ぶりは称賛に値するが、やはりチャンドラーは刑事にあまり良い感情を持っていないようだった。
つまり俺の第一印象は正解だったというわけだ。
「・・・ジョン・リチャードソンですが・・・どうして中庭に出たのでしょう? 仕事によっては、起きていても特別に不思議な時間というわけではないですが、・・・その、中庭に何をしにいったのか・・・そのあたりについて、本人は何か話してましたか? たとえば、物音を聞いたとか・・・あるいは・・・」
現状、場合によっては生きている被害者か、あるいは犯人とニアミスの可能性がある唯一の人物が、ジョン・リチャードソンである筈なのだ。
何か手掛かりを持っているとすれば、やはりこの男ということになるだろう。
「地下室を調べに行ったと言っていた。残念ながら、悲鳴を聞いたわけでも、怪しい人影を発見したわけでもないそうだよ。・・・当然、俺もそこを期待したんだけどね」
「地下室ですか・・・なぜ、そんなものを?」
そういえば、アバラインもずっと地下室の前に立って、暫く指先で鍵を弄んでいたことを思い出す。
何が気になっていたのだろうか。
「そんなことは知らんよ。まあ本人は地下室を調べてくれとかなんとか、言っていたけどな・・・ごらんのとおり、取り替えたばかりの頑丈な鍵が、外からちゃんと掛かっていた。そこに犯人が潜んでいたという可能性はゼロだろ。だから俺は隣の庭も調べたが、怪しい形跡はどこにもない。なんなら本人にでも聞いてみるかね。スピッタルフィールズに住んでるよ」
そう言ってチャンドラーは、ジョン・リチャードソンの住所も教えてくれた。
刑事をライバル視しつつも、犯人逮捕に協力的な態度は好ましい。
所轄が違えば、碌に情報提供もしてくれない警官が多い中、こういう存在は有難いものだ。
あるいは、刑事をライバル視しているのではなく、単純に俺が揶揄われていただけなのかもしれない・・・・それはそれで、腹立たしいが。
その後、彼の部下であろうコマーシャル・ストリート署の警官が呼びに来て、俺はチャンドラーと別れると、ひとまず宿の家主、アメリア・リチャードソンを訪ねることにした。

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