ハンバリー・ストリートへ到着した俺とアバラインは、最初に第一発見者のデイヴィスを訪ね、その後他の目撃者達の自宅をそれぞれ訪ねたが、日曜であるにも拘わらず、全員仕事で不在だった。
続いてドーセット・ストリートのクロッシンガム・ロッジング・ハウスを訪ねる。
そこで管理人代理のティモシー・ドノヴァンと会うことが出来た。
彼は現状わかっている、生きた被害者の最後の目撃者だった。
黒い髪を撫でつけ、口髭を蓄えたドノヴァンは、なかなか立派そうに見える身なりの男だった。
「昨日の明け方、確かにアニーには部屋を出て行って貰いました。だって、宿台が払えない以上、うちだっていて貰うわけにはいきませんよ・・・お酒も入っているようでしたしね」
「寝る場所がない、酔っぱらっている女を、追い出したというのか」
冷静な声でそう確認したアバラインに、ドノヴァンは顔色を変えて言い訳をした。
「泥酔っていうほどじゃないですよ。・・・それにね、私も鬼じゃありませんから、ベッドは空けておいてやったんです。本人が、すぐに戻るから、そうしてくれって言ってましたので・・・それがまさか、こんなことになるなんて・・・」
俺とアバラインは顔を見合わせた。
ベッドは空けておいてね・・・・先週亡くなったポリー・ニコルズの最後の住居になったという、『ウィルモッツ・ロッジング・ハウス』の宿主も、まさしく同じようなことを言っていたと、どこかの新聞が書いていたことを、俺は思い出していた。
それは宿を追い出された娼婦たちが出て行くときの、決まり文句だったのかも知れないが、まるで二度と帰ることはない哀れな彼女達の、自らにかけた呪いであるかのようにも感じられた。
ドーセット・ストリートを出てコマーシャル・ストリートを横断した俺達は、再びハンバリー・ストリート29番地へ戻ることにした。
この日は休日ということもあり、事件が発生した昨日にも増して地域住民達は興奮しているようだった。
あちこちで過激な文句の横断幕が掲げられており、警察糾弾の雄叫びを上げている者達も少なくはない。
目の前を歩いている俺達が刑事だとわかると、リンチを受けるのではないかとさえ思える危険な雰囲気だった。
さらに懸念すべきことには、ジョン・パイザーの一件が無実と判明したあとでさえも、住民達によるユダヤ人への憎悪は一向に収まらず、昨日中庭でレザー・エプロンが見つかっていたことも、悪い材料として作用している。
こうなることが目に見えていたため、意図的に警察からの発表は伏せられていた筈だが、結局どこからか事実は漏れてしまっていたのだ。
外国人排斥の傾向も、日増しに強くなる一方だった。
理由はいろいろあるにしろ、堂々と『外国人は出ていけ』などと書いてある横断幕を、いい年をした大人達が掲げている様子を見せつけられれば、溜息のひとつも出ようというものだ。
治安を預かる警官として、住民たちにこのような行動をとらせてしまう、不甲斐なさ。
そして、もしも彼が・・・・今頃はフランスで父親と水入らずの旅を楽しんでくれているであろう、不遇な幼少時代をこの街で送ってしまったアザミ・ジョーンズが、この光景を目の当たりにしていたとしたら、一体何を思い、どれほど傷付いてしまったであろうかと、考えずにいられない。
ほんの一週間ほどのあいだに出会い、心と躰を交えた彼との、ほろ苦くも甘いふれあいを経て、あっという間に別れが来てしまったことは、あるいは正解だったのだろうか・・・・ふとそう思い、苦笑が零れる。
あれ以上、彼を傷つけるぐらいなら、もう戻って来ないほうがいいかも知れない。
そしてまさしく同じことを、今は自分の隣を歩いている男も考えていたようだった
「あの子がここにいなくて、よかったな」
その端正な横顔に表情らしいものは見つけられず、なんと返事してよいのかわからなくなる。
結局互いに黙って、俺とアバラインは、デモ隊の前を通りすぎた。
途中で何カ所かにカーブが作られていることもあって、ハンバリー・ストリートは長い裏通りの終わりを、なかなか見通すことができない。
西側から通りに入って来た俺達は、ブリック・レーンとの交差点が向こう側に漸く見えた辺りで、目の前の異変に気付き、思わずその場で足を止めてしまった。
「なんだ、ありゃ・・・」
昨日はデモ隊や警察糾弾の為に群衆が押し寄せていて、なかなか近づくことができなかった29番地。
その建物の裏庭には、今も現場保全と監視のために警官が立っており、下宿屋である家屋へは、住民と必要最低限の用事がある者以外は、簡単に立ち入ることが出来ないようになっている筈だった。
だが今は、昨日とは別の意味で人だかりになっていた。
「ホワイトチャペルの恐怖だよ〜! たった1ペニーで恐ろしい死体発見現場が見られるよ〜、さあ入った入った!」
29番地の入り口で呼びこみをしている男は、記憶に間違いがなければ昨日、興味深そうに下宿屋の1階の窓から、検死中の中庭を見物していた男だった。
「まったく、何を考えているんだ」
自分が住んでいる家の庭に、あれほどの蛮行をする殺人犯が入って来たというのに、少しは警戒心というものが沸かないのだろうか。
誰とも知れない、ひょっとしたら、まだこの辺りをうろついているかも知れない犯人を・・・いや、普通に考えれば、バックス・ロウでポリー・ニコルズを殺し、ハンバリー・ストリートでアニー・チャップマンを殺したのだから、犯人はこの辺りに土地勘のある男に違いない。
そんな凶悪犯を自ら自分の庭へ呼び入れる可能性の高い愚行を、哀れなアメリア・リチャードソンの下宿に住む住民が、進んで堂々と行っているのだ。
どうかしている。
呆れ半分、怒り半分といった気持ちで俺は、男に呼び込みを止めさせようとした。
「ジョージ、あれを見てみろ」
その矢先、歩きかけた俺の腕を掴んで、アバラインが後ろに引っ張ってくる。
「なんすか、もう・・・!」
彼が指さした先にあるのは、『レインのコーヒー店』・・・いや、たぶんその隣の事を言っているのだろう。
「きっと人形店だったんだろうな」
アバラインが言った店舗にも、そこそこの人だかりが出来ていており、元々可愛らしい少年や少女だったのであろう人形達は、哀れにも赤いペンキを顔や服に垂らされて、恐ろしい惨殺死体に変えられていた。
「まったく・・・ここの連中は何を考えているんだ」
俺は頭を抱えて、その場に座り込む。
「べつに構わないじゃないか、これで彼らは新しい商売を始められて、その分だけ生活が潤うかもしれないのだから」
「何を呑気な。殺人事件が起きたんですよ? 人が一人死んだんです。娼婦とはいえ、彼らと変らない、すぐ近所に住んでいた女が・・・それをこんな、茶化すような真似を・・・」
アバラインとも思えない不謹慎な発言に、俺は少し失望していた。
「その通りだ。だが、考えてもみろ。別に殺人事件は今に始まったわけではない。先週も俺達は2件の娼婦殺人に遭遇した。その前にもエマ・スミスやマーサ・タブラムが、恐らくは同じ犯人による一連の事件と判断されて、今でも我々の取り扱い案件になっているし、殺人以外にも事故や病気で命を落とす人の数は、恐らくウェスト・エンドに比べて、圧倒的に多いだろう。殺人事件に絞っても、過激化しているギャングの抗争や水夫たち、労働者同士の喧嘩など、数えあげればきりがない」
話を聞きながら、俺は苛々としてきた。
「だから何だっていうんです? 別に娼婦が一人惨殺されたぐらいで、騒ぐほうが可笑しいとでも?」
確かに俺達警察にとっては、数ある殺人事件のひとつに過ぎないが、担当刑事が、それも捜査責任者である彼がそんなことを言えば、警察不信どころの話ですまなくなる。
それこそ、ベンジャミン・ベイツのような小賢しい新聞記者達の、良い餌食だ。
「娼婦一人の命が、他の喧嘩や殺人で命を落とした者達の命よりも重いと、お前はなぜ言い切れる」
思いのほか、真面目な調子でアバラインが言って、俺はハッとした。
無意識に命へ値段をつけていたのは、俺自身じゃないのかと・・・そうアバラインは言っていたのだ。
殺人も事故で落とした命も、喧嘩や病気で亡くなった命も・・・どれも等しく尊い。
そんなことは、わかりきっているつもりだった。
もちろん殺人事件を茶化すような悪ふざけが不謹慎であることには間違いない。
しかし、今だからこそ、不謹慎なことはやめろとは、絶対に言えない筈だった。
「そんなつもりは別に・・・ただ、俺は・・・ああいうことを、近所の連中がするのは・・・」
「確かに悪ふざけが過ぎるな・・・とりあえず、事件現場を、金をとって見せる行為については、お前が心配しなくても、そのうち警邏中の警官が止めるんじゃないか? たしかに見張り警官や他の住民の邪魔になるしな。だが、人形店について我々が口を出す権利はないぞ。営業許可を得ている経営者の、れっきとした商いだ。不謹慎だの、見苦しいだのという理由でやめさせたりしたら、それこそ『スター』紙のような小賢しい新聞が、公権力による弾圧だの検閲だのと、あることないこと書きたてかねんだろう」
言われてみると、それもそうだった。
確かに不謹慎であり、不道徳ではあるが、人形店という営業許可を取って店舗を構えている以上、そこにどんな人形を陳列しようが、経営者の勝手といえば勝手なのだ。
警察が口を出すような筋合いはない。
そして間もなくフレッドが予想した通り、ブリック・レーンから呼び込みを聞きつけたか、通報を受けて走って来た警官が、29番地の前で入場料をとっていた男を注意してやめさせた。
後でわかった事だが、この男はこの行為によって、数ポンドも稼いでいたらしい。
「フレッドはああいうことをする連中を、何とも思わないんですか?」
「確かに気分は悪い。だが、知恵を働かせ、自らの生活を良くしようと努力すること自体は、悪いことではない筈だ。殺人事件がああした行為に利用されるということは、彼らの感覚がそれだけ麻痺している証左であり、殺人や暴力がそれだけ、この地域の住民にとって身近ということだろう。その責任の一端は、むしろ俺たちにあるとさえ言える」
返って来た回答に、驚かなかったといえば嘘になる。
だが、ごく真面目に答えられたその言葉は、俺達警察に対する自戒であり、恐らくは捜査責任者である彼自身が、もっとも自責を感じていることなのであろうと感じられた。
事件が解決できないことも、血腥い事件に住民の感覚が麻痺していることも、治安を守る警察に責任がない筈はないのだ。
ああいった行為をさせたくないのであれば、さっさと事件を解決するしかないだろう。
見苦しいからといって刑事が止めさせるなどという発想は、見当違いも甚だしい、ただの驕り高ぶりであり、とんだ越権行為ということだ。

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