見世物小屋を後にしてスピッタルフィールズへ出ると、南へ下り、コマーシャル・ストリート署へ寄った。
刑事課でチャンドラーと会う事が出来た俺は、早速ハンバリー・ストリートで住人達から聞いた事実を、彼へ確認してみる。
「冗談じゃない」
25番地の壁にあったという血痕の話も、血液が付着した紙屑の件も、チャンドラーは一笑に付した。
「そのような事実はないですか?」
俺が念を押すと。
「遺体を発見したヘンリー・ホランドから通報を受けて、俺は現場に即時急行したんだ。その後は君達が到着するまでの間に、現場周辺を念入りに見て回った。当然25番地の壁もね。そのような血痕や紙屑が落ちていたなら、見逃すはずはないだろう。たとえ俺が、新米巡査だったとしてもね」
やや気分を害した調子でチャンドラーが反論した。
左手の指先が苛々と机を叩くたびに、差し込む夕日を受けて小指の指輪が、キラキラと反射する。
まあ、ここはチャンドラーの言う通りだろうと思い、俺は話を変えることにした。
「そのヘンリー・ホランドですが、俺は昨日彼とも会ってきました。その際に本人より、大変興奮した様子でクレームを受けておりまして・・・」
「クレーム?」
チャンドラーの左手が、上下運動を一時停止する。
「ええ。彼は現場で遺体を発見したあと、最初にスピッタルフィールズ・マーケットへ行ったそうです。その時間帯、一番人が多い場所なので、仮に自分が警官を見つけられなくても、応援を誰かに頼むことができるだろうと判断したそうです。実際には警備中の警官と会う事ができたのですが、その警官は彼の話を聞いても現場を動こうとはしませんでした」
「ああ、その話なら本人から聞いている。だが、警備中だったのだから仕方はないだろう。君もホランドと会ったなら知っているだろうが、あの目撃者が興奮しながら走ってきたとしても、性質の悪い子供の悪戯か見間違いと疑ってかかられるのは、仕方がない。俺は他にも宿直の同僚が一緒だったから、現場へ急行したが、争いごとが多い市場で警備中の警官であれば、迂闊に持ち場を離れるわけにもいくまい」
「はい。アバライン警部補も同じことを釈明して、本人も納得している様子でした」
もっともアバラインはそれを是として、ふんぞりかえったのではなく、ホランドに頭を下げた。
それにホランドの容姿を、あげつらいもしなかった。
警官がそのような偏見を持つことは、大変危険だ。
「ほう・・・アバライン警部補も一緒だったのか」
名前に反応して、チャンドラーが僅かに目を見開いたのを俺は見逃さなかった。
そういえば、初めてあったときにも彼の方からアバラインの話を持ちだされていたことを思い出す
俺は話を続けた。
「その後ホランドがここへ向かい、あなたと会ったことは御承知の通りです。その時の状況をホランドは、こう説明しておりました。警官がウィスキー・ボトルを片手に、酒臭い息で話を聞いていたと・・・」
さらに昨日、仕事帰りのホランドがここへ立ち寄り、その件について苦情を申し立てたと言っていたことも、俺は付け加えたが、クレーム対応をした若い警官がいい加減だったと言っていた点に関しては話を差し控えた。
苦情を言いに来るほど神経が昂った状態では、極めて同情的な反応が得られない限り、相手が甚だ軽薄で失礼に見えるだろうと思ったからだ。
チャンドラーに関してはウィスキー・ボトル片手という、はっきりとした証言もあったが、クレーム対応の警官の話はホランドの印象のみであり、その説明も曖昧である。
ここで蒸し返すべき話ではないだろうし、それこそ言いがかりの可能性がなくもない。
話がややこしくなるだけだ。
抗弁はおろか、相槌ひとつ打つでもなく、目の前のチャンドラーは黙して俺の話を聞いている。
いつのまにか運動を再開していた左手だけが、コツコツと小気味よく机を鳴らしていた。
「それで・・・何が知りたいんだ?」
飲酒疑惑とクレームの件。
二つの聴取内容を伝えた俺が、少しの間黙って相手の返事を待っていると、やや沈黙を挟んだあとで、漸くチャンドラーが口を開いた。
左手の指は相変わらず机を叩いているが、明るいブルーの瞳は、どことも言えない宙へ視線を彷徨わせ、眉間には神経質そうな深い皺が寄せられている。
「どちらも、我々はあなたから報告を受けておりません」
「そういうことか。ならば逆に聞き返そう。確かに目撃者のホランドが飛び込んで来たとき、俺は手に酒瓶を持っていたかもしれない。だが、持っていなかったかもしれないんだ・・・つまり、宿直にあたって仮眠の為の寝酒を持ちこんでいる警官は珍しくないし、俺もそういう物をこの机の抽斗に入れている。それを手にしていたか、抽斗に仕舞っていたかなんて覚えちゃいないという話だ。仮に手にしていたとして、それはいちいち捜査会議で報告するほどのことなのか?」
「つまり、仮眠直前以外の飲酒はなかった・・・? ですがホランドは、あなたが酔っぱらっていたと・・・」
「君はさっき、酒臭かったと言っていたのではないか? 酔っぱらっていたという発言は、初めて聞くぞ。いずれにしろ冗談じゃない。そもそも酒臭いというなら、今の君だって、大概息が匂うぞ。よもや、そのスーツの下にウィスキー・ボトルを隠していると、俺は疑ったりはしないが、休日前でもないのに刑事の深酒は感心しないな」
「気を付けます」
確かに俺は昨夜、リジーに誘われて『テン・ベルズ』で飲んでいた。
もちろん実際に、傍迷惑なほど酒臭いなら、チャンドラーに言われるまでもなく、署でアバラインが見逃す筈がない。
だからチャンドラーが言っていることは、殆ど言いがかりに近いとは思う。
しかし、昨夜酒を飲んでいたことは間違いないだけに、ここは俺の分が悪かった。
「ところで君は昨日、ホランドからアバライン警部補と一緒に話を聞いたと言ったな」
「はい、それが何か・・・」
俺がやり込められたのを見届けて満足したのだろうか。
不意にチャンドラーが話を変えてきた。
「ひょっとして君は今、彼とコンビを組んでいるのか?」
「そうです。本部がホワイトチャペル署に設置されて以降、アバライン警部補と一緒に、捜査へ当たらせて頂いております」
なぜこうも、チャンドラーはアバラインのことを聞きたがるのか。
俺は少しだけ、警戒しながら回答した。
「それならキャラハン警視は知っているか? 5年前にCID本部へ異動になった、ライアン・ジョウゼフ・キャラハンだ」
「いいえ、存じ上げません」
初めて耳にする名前だった。
5年前というと、『タイムズ』紙の社屋やホワイトホールの自治省がダイナマイトで爆破されたり、チャリングクロス駅やパディントン駅が破壊されていた頃だろうか。
凶悪事件の増加に伴い、当時はCIDも大幅に強化されたと聞いている。
「キャラハン警視は、若い頃のアバライン警部補の教育係だったらしいぞ。そして今は俺の友人でもある」
これを脅迫とまでは、言い切れないかもしれない。
だが、公務中における飲酒の疑惑を追及されたチャンドラーが、逆に俺の酒臭さを指摘してきた上に、自分とコネクションがあるらしい本庁上層部の個人名を、目の前で示した。
俺の事は誰に何と思われようとも構わないが、それによってアバラインに迷惑がかかることだけは避けたかった。
これ以上ホランドの証言で、チャンドラーに追及を続ければ、彼も俺について、「アバラインと組んでいる酒臭い刑事が、言いがかりをつけにやってきた」と、キャラハン警視へ報告しないとも限らない・・・そいうことだと俺は判断せざるをえなかった。
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