ホワイトチャペル署へ戻ったのが、午前9時半ごろのこと。
刑事課にはなぜかリジーの姿があった。
おまけにどういうわけか、本庁のキャラハン警視まで来ている。
「やあ、ゴドリー巡査部長」
「どうも、お疲れ様です・・・あの、先日は・・・」
先方から声をかけてくれたので、俺は慌てて挨拶を返し、昼食をご馳走になった礼を言おうとする。
「いやいや、こちらこそ。路上で急に呼び止めて申し訳なかった」
「はあ・・・」
路上で呼び止めて・・・?
確かに彼が声をかけてくれたときは、まだ路上にいたかもしれないが、『ジャルダン・スクレ』で昼飯を共にしたという展開を考えると、その言葉はしっくりと来ない気がした。
その後キャラハンは、アーノルド警視と共に部屋へ入って来たアバラインと話し込んでしまったため、俺はリジーに声を掛けてみる。
目の周りの痣は、だいぶ薄くなっていたが、あるいは化粧で隠しているだけかもしれなかった。
「朝からうちに、あの綺麗な刑事さんがやってきて、容疑者を逮捕したから確認してほしいって言ったんだよ」
リジーが言う綺麗な刑事とは、いつもアバラインをさしている。
「容疑者って、お前を襲った暴漢のことか?」
「そう。・・・ああ、今警官に連れて行かれるみたいだね」
リジーが言って振り返ると、取り調べを終えたらしい容疑者たちが、拘束された状態で、部屋の前を歩いて行くところだった。
恐らく留置所へ向かうのだろう。
「スティーヴンが言っていたウェイターだよ」
不意にキャラハンが耳打ちしてきた直後、廊下を歩いて行ったのは、いかにも労働者風の他の3人とは違う、スラリとした金髪の若者だった。
「畜生、あたしのこと騙しやがって・・・」
隣でリジーが、忌々しそうに廊下を睨みつけている。
ということは、あれが彼女の言うところである、『ぼうっとなってしまうような、精悍なイケメン』であり、スティーヴンがお気に入りの、俺と良く似ているという若者ということになる。
もっとも、リジーに言わせれば、似ているのは身長だけで、俺とは全然違うらしいが・・・。
正直に言って、自分の目からはなんとも判断のしようがない。
「名前はフィリップ・オクリーヴ。クリーヴランド・ストリートにある会員制レストラン『ジャルダン・スクレ』のフロア・リーダーで年齢は25歳。元々ホワイトチャペルを根城にしている、ゴロツキ集団『ヘキサグラム』のメンバーで、母親と姉妹は今でも、フラワー&ディーン・ストリートに住んでいる。今回は常連客の不動産業者、ギルバート・ブルワーから金を掴まされ、そちらのマダムの襲撃を引き受けたみたいだな。他の3名は、襲撃にあたってフィルが集めたメンバーらしくて、それ以外の繋がりは特にないようだった」
尋問内容をざっとキャラハンが教えてくれた。
「で、ペンダントはどうしたんです?」
俺がリジーから聞いた話では、ペンダント以外に取られたものはなく、フィルという青年は、まるでペンダントを取り返すためにリジー襲撃を計画実行したように感じられた。
そのペンダントはリジーが客から貰ったものであり、記憶に違いがなければ、不動産業者のギルバートという男が彼女へ贈ったものだ。
だとすれば、ギルバート・ブルワーはなぜ一度は娼婦へプレゼントしたものを、ゴロツキに金を払ってまでして、取り返す必要があったのだろうか。
「これか?」
そう言ってキャラハンが、スーツのポケットから金鎖に丸い金色のメダルが付いた装飾品を取り出して見せる。
ペンダント・トップは、直径3センチほどの丸い台の上に、装飾過多な字体で『C』の文字と、周囲にルビーと思われる赤い石が幾つも嵌めこまれていた。
どうやら盗まれたものは、ちゃんと取り返すことが出来たらしい。
「あたしのペンダント!」
そのときリジーが手を伸ばして、アクセサリーを取り戻そうとしたが、一瞬早くキャラハンがポケットへ閉まってしまった。
「これはブルワー氏へ返しておく」
「なんでだよ!? あたしが貰ったもんだよ」
キャラハンの説明に納得がいかないリジー。
俺もわからない。
「どうしてですか? プレゼントされたものなら、彼女に権利があるのでは・・・」
「確かに本来はそうなんだろうけどな・・・これを君へ渡すことによって、君に及ぶ危険の予測がまだつかない。それに、ブルワー氏本人はこれを君に贈った事実を、覚えていないと言っているぞ」
「冗談じゃないよ、あたしが盗んだとでも言う気かい!?」
キャラハンに掴みかかろうとしたリジーを、俺は慌てて取り押さえた。
「まあまあ・・・ええっと、このペンダントを持っていることによる危険っていうのは、いったい・・・」
「9月7日の夜、不動産組合の会合でコマーシャル・ストリートを訪れていたブルワー氏を誘った君は、パブ『テン・ベルズ』でしこたまビールやジンを空けさせた。酔い潰れたブルワー氏は、午前1時頃に店の従業員から声を掛けられ、目を覚ましたが、すでに君も、肌身離さず持っていた筈の、このペンダントも消えていたと言っている」
「だから、あたしが欲しいって言ったら、あの客がプレゼントしてくれたんだよ! なんなら『テン・ベルズ』のマスターに聞いてみるといいだろう!?」
キャラハンに掛けられた思いがけない窃盗容疑に、リジーは顔を真っ赤にして抗弁した。
俺もさすがにリジーが、そのようなことをする女だとは思わない。
何かの誤解だろう。
「ああ、確かに当夜カウンターに入っていた店主のジョン・バクストン氏も、ブルワー氏が君にアクセサリーをプレゼントをしていたようだと言ってはいたが、そのブルワー氏は随分と酒を飲んでおり、歩行も出来ない状態だったと説明してくれた。意思能力がない状況でなされた法律行為であれば、酔いが冷めて本人が追認するまでは無効と言えるだろう」
「何ごちゃごちゃと屁理屈捏ねてんだよ、貰ったもんは貰ったの! マスターからも聞いたんだろう!? だったら、あたしのものでいいじゃないか!」
「いや、警視はそのプレゼント行為自体が、無効だと今言ったのね。つまり、贈与というのは法律行為にあたるので、それを行うためには行為能力と意思能力というものが必要であって、歩行も出来ないほど酒を飲んでいたという状態は泥酔なわけで、それは法律行為を執行するに際して必要不可欠な意思能力の欠如・・・」
どうも話が噛み合っていない気がしたので、俺が噛み砕いて説明しようとしたところ。
「あんたは一体、どっちの味方なのさ!!」
「いや、そういう問題ではなく・・・」
なぜか俺が胸倉を掴まれた。
「いずれにしろだ、マダム。我々はこのペンダントを君に渡すわけにはいかない。たとえこれが、正常な状態で君に贈与されたものであってもだ。これを君が所持することによって、君に降りかかるであろう災難の予測が出来ない限り、警察として看過するわけにはいかない」
キャラハンが話を変えた。
それである。
「あの・・・さっきもペンダントを持っていたら、リジーが危ないかも知れないみたいなことを仰っていましたけど、それってどういう意味なんですか?」
「ギルバート・ブルワー氏は『クリムゾン・パーティー』のメンバーで、このペンダントはその会員証みたいなものなんだ」
俺の質問にはアバラインが応えてくれる。
「その『クリムゾン・パーティー』ってのは一体・・・」
さっぱりわからない。
「アニー・チャップマンが殺害されたときに、シック巡査部長がフィッツロイで娼婦が殺されたという話をしていたことを覚えているか?」
「ああ・・・ええと、たしかヴァイオレット・ミラーとかいう高級娼婦でしたっけ? でも結局あれは物盗りの犯行で、チャップマンやニコルズの件とは関係ないって言ってませんでしたっけ」
「俺達の管轄外なのに、よく被害者の名前を覚えていたな。事件発生場所も犯行手口もまるで違うから、関係ないことは間違いないだろう。問題なのは被害者のヴァイオレット・ミラーで、彼女は『クリムゾン・パーティー』のメンバーとも関わりがある。『クリムゾン・パーティー』というのは、要するに秘密結社の下部組織のようなグループのことだ」
何やら話がミステリーめいてきた。
「秘密結社っていうと、つまりフリー・メイソンみたいな?」
「その方が、通りが良いかもしれん。そしてフィルもまた『クリムゾン・パーティー』の関係者といっても差し支えがないほど、深く関わっている。・・・そちらのご婦人は、一度襲われているだけに、どうやら君よりも察しがいいらしい。もう気が付かれたと思いますが、マダム。あなたがここでペンダントの所有権を主張して、どうしても持って帰りたいと仰るなら、我々はそれを民事不介入の観点により、無理に止めることは出来ません。ですが、その場合、あなたの身の安全が保障できない。それでもまだ、ペンダントを手渡した方がよろしいですか?」
キャラハンの質問にたいし、リジーは真っ白な顔をして首を何度も横に振った。
05