悲壮な顔をしているガーラントを乗せた馬車を見送ってから、議員会館を後にする。
セント・ジェイムズ・パークに入ると、街中の喧騒が嘘のように静けさと穏やかさに包まれた。
緑豊かな公園を歩き、何とも言えないのんびりとした感覚になる。
「おやおや、あれを見てごらん」
湖から隊列を組んで進軍して来たらしい、アヒル達の目の前を、臆病な数匹のリスが、隙を窺って、木から木へと素早く移動していた。
その様子を見て、スティーヴンが楽しそうに笑った。
「さきほどは・・・、助けて頂いてありがとうございました。ステップニーでの件といい、たびたびお世話をかけてしまって・・・」
疑問は残るものの、窮地を救ってもらった以上は感謝を伝えるのが礼儀だ。
俺が礼を告げると、どこで拾ったものやら、まだ青い親指大の団栗を弄びつつスティーヴンが振り返る。
「ほう。てっきり君のメンツを傷つけたかと、心配していたよ」
そう言うとスティーヴンは、ニヤリと笑った。
間違いなく、皮肉を言われたのだ。
もちろん面白くはないが、義務を果たした俺としては、これで自分が聞きたい事を切りだし易くなったわけだ。
「本当のところを教えて頂けませんか。俺がガーラント氏から、証拠もないのに犯人扱いしたと糾弾され、所轄署長へ訴えると非難された。あなたは正に、そのタイミングで俺を救ったわけです。偶然、表通りを歩いていたなんて、嘘ですよね。ステップニーでの件など、普通ではありえない・・・表から見れば、あそこはただの廃ビルです。中に人がいたかどうかも、わからない筈だ。そこへあなたは、自ら乗り込んで来た。あのダリルは、あなたが『ヘキサグラム』へ潜り込ませた使いですよね。その間にあなたは、『猟犬』達を使って、『ヘキサグラム』そのものも潰していた。けれど、そのこと自体をここで聞いても、おそらく応えて頂けないでしょうから結構です、・・・・・・『フリー・メイソン』が、簡単に口を割る筈ないでしょうし。ただ、ひとつだけ教えてほしい・・・どうして俺が、あの廃ビルにいるとわかったのですか? なぜ、俺が今朝、議員会館でガーラントを尋問すると、あなたは知っていたのです?」
俺はこの単独行動について、上司であるアバラインへはもちろん、誰にも言わず、フラットからまっすぐにここへ来た。
だとすれば、可能性はふたつ。
彼が、家から俺を尾行してきたか、彼が言う通り、偶然彼も議員会館へやって来たのか。
スティーヴンは団栗を左右の手の間で、何度か移動させてから片手に握り込み、手の甲からもう片手で包み込んで、何度か両手を揺すった。
次の瞬間、被せた掌をこちらへ向けると、別の手で握っていた筈の団栗が、掌を突き抜けて瞬間移動していたのだ。
よくある手品である・・・何を考えているのか。
「聞きたいことは、それだけかい?」
再び団栗を掌へ収め、今度はそれをもう片手に移動させたり、団栗そのものをどこかへ消したりしながらスティーヴンが聞いて来る。
消えたように思える瞬間、団栗が袖の内側へ素早く収められているのだという、種明かしは知っているのだが、その動作がまったく見えない・・・実は本当に、消しているのだろうか。
気を取り直し、俺はついでに知りたいことを、全部聞いてしまうことにした。
手品を見ていると、気が散るため、視線をスティーヴンから逸らすようにする。
「あなたがエドワード王子の個人教師をしていたときのことですが・・・その間に起きたことに関して、揉み消しがあったというようなことを、さきほどバーカー氏が仰られていました。それはつまり、その・・・・王子とそれなりの関係にあったということでしょうか・・・所謂、男色関係にあったと。それから、昨日フィルがあなたに恋人がいると言っていました。ニックネームしか聞いていませんが、やはり男の名前のように伺っています」
俺はとりあえず気になっていたことを、素直に彼へ伝えた。
スティーヴンという男は、わけのわからないことだらけだ。
ベンチを占領しているペリカンが毛づくろいをするたびに、大きな嘴でカチカチと音を鳴らしている。
ぼんやりとその光景を眺めながら、返事を待ったがなかなか答えが返って来ない。
考えてみれば、些か質問が個人的すぎて、さしでがましかったかも知れない。
気になって、もう一度隣の男を振り返ると。
「いや・・・なんというか、君・・・それじゃあ、まるで・・・」
「スティーヴン?」
長身の男は手品をやめて、肩を震わせながらクスクスと笑っているではないか。
「ジョージ・・・つまり君は、僕をとりまく男達について、嫉妬をしてくれているのかい?」
頬が僅かに紅潮し、目にはうっすらと涙さえ浮かべている・・・もちろん、これらがすべて、笑いに誘発されたものであることは、確かめるまでもあるまい。
「は・・・・?」
言われている意味がよくわからず、俺は自分で何を質問したか今一度思い返し、次の瞬間一気に頭へ血が上った。
「君の気持ちは嬉しいが、君もどうやら知っての通り、僕にはちゃんと恋人がいてね。君にまったく気がないわけではないし、確かにガーラントに対しては、話の勢いで、君を僕の恋人のように伝えたりはしたが・・・」
「誤解だ、そういうつもりはまったくない・・・俺はただ、あなたが聞きたいことを聞いてくれと言うから、好奇心で・・・」
「そうだな・・・君さえ許してくれるなら、君を第二の恋人に・・・」
「結構です。それに留置所にいるとはいえ、フィルはどうするつもりですか!」
彼が第二の恋人だとすると、順序から言って、少なくとも俺は本来第三以下になる筈だ。
いや、そもそも恋人に第二だの第三だのという優先順位が付く筈はない。
それらは全て、浮気と呼ぶべきものだろう。
不意にスティーヴンが真顔になる。
「正直に教えよう。僕は君を監視している・・・たった今この瞬間もね」
灰色の瞳が俺をまっすぐに見つめながら、落ち付いた声できっぱりと彼はそう言った。
それが、最初に俺が尋ねたことに対する回答であると理解するために、俺はたっぷり30秒も時間を要した。
理由のひとつには、冗談から真面目な話題へ移行した、タイミングが見極め辛かったこと・・・考えてみれば、スティーヴンとの会話は常にこの連続だった。
もうひとつは、言われている意味を俺が、素直に受け入れられなかったためだ。
刑事が監視されている・・・事実であるなら、屈辱以外の何物でもあるまい。
だが、相手も一般人ではないのだ。
「それはやはり・・・『フリー・メイソン』としてですか」
「もちろん。ちなみに誤解しているようだが、フィリップ・オクリーヴも僕らの監視対象だと明かしておこう」
それからスティーヴンは、『ハンティング・パーティー』がかなり以前から、ベッサラビア人ギャングとガーラントの癒着に気付いており、調査を続けていたことや、そこへ起きたヴァイオレット・ミラーとアリス・レヴィの殺人事件で、『ロイヤル・アルファ・ロッジ』がガーラントを監視、そして捕獲を決めたことを教えてくれた。
「つまり、その流れの中で俺やフィルのことも監視していたと・・・」
まるで気付かなかった。
もちろん、あまりにも出来過ぎのタイミングでスティーヴンが助けてくれたことにより、疑問は感じたものの、それは彼自身が俺の前へ姿を現したから、気付くことが出来たものである。
監視というからには、それ以外の間にも、俺を尾行していた筈だ。
それに気付かないとは、刑事失格だろう。
「フィルは『クリムゾン・パーティー』のメンバーではないものの、かなり近い位置にいたしね。さらに、物事を深く考えるタイプでもなさそうだったし、おまけにデートしていて楽しい」
「はあ・・・」
やはりデートしていたわけだ。
「逆にダリルは、頭の回転が早い子だから正面からアタックして、情報を集めて貰った。実に有能な青年だよ彼は」
つまり、ダリルが俺に教えてくれたガーラントの情報は、彼が自力で嗅ぎまわった成果だったのだろうか。
だとすれば凄まじい調査能力だ。
ゴロツキなんてやめて、探偵でも開業したほうが良いだろう。
ところで。
「俺の事は、いつから付けていた」
「10年ぐらい前かな・・・あれは君が、ストリップ小屋でライアンに鞭打たれていたところ・・・」
「で、いつなんだ」
いちいち相手にしているときりがないため、俺はもう一度質問した。
「本当に知りたいのかい? ショックを受けるよ」
「もったいぶってないで、早く教えろ」
少し苛々としていた。
「まったく、それが人に質問をする者の、それも二度も窮地から君を救出した、白馬の王子に対する態度かと首を捻りたくなるが・・・・君と最初に会った直後だよ」
「直後・・・?」
スティーヴンと最初に会ったのは、『ジャルダン・スクレ』でキャラハン警視と共に食事をしたときである。
その直後ということは。
「適当なことを言うな。あなたはあのとき、先に馬車で帰った筈だろう」
そしてどこかで、彼の従妹とデートをしていた筈だ。
その話までもが嘘でないならという条件は、もちろん付くが。
「ああ、そうだね・・・そこまで正確を期すべきなら、君がオールド・モンタギュー・ストリートの救貧院で、ペパーミント夫人と話をしていたときからということになる。そしてその晩、君は官舎で夜を過ごしたね。一緒にいたアバライン警部補は、確かに現在官舎へ滞在中ではあるが、君の自宅はベスナル・グリーンにある、若き未亡人アンジェラ・ゴードウィンが大家をしているフラットの筈だ。さらに壁の薄い、集合住宅タイプの官舎だというのに君達は、その夜・・・おや、どうかしたのかい? なんだか顔が真っ赤だが」
「いや・・・なんでもない。あんたが俺を尾行していたという件については承知したから、これ以上は結構だ」
居た堪れない気分だった。
それにしもスティーヴンのような背の高い、がっしりとした体格の男が、そんなに前から俺を尾行していて気付かないとは・・・いや、俺ばかりではない。
彼は警察官舎で張り込みをしていたということになるのに、アバラインも気づいていなかったのだ。
「一応言っておくと、必ずしも僕が君を付けていたというわけではないよ。そうしたい気持ちは山々だったが、僕もケンブリッジとロンドンを行ったり来たりで、プライベートな時間は限られているし、何より僕は面が割れている。警察官舎での出来事は、ダリルから聞いた話だから、安心したまえ。・・・まあ、ダリルに覗かれて、君がどこまで、胸を撫で下ろせるのかは知らないが」
その瞬間、俺はいつかオールド・モンタギュー・ストリートで擦れ違った、ハンティング帽の男を思い出した。
救貧院から出て来た俺を、新聞を片手に見つめていた青年・・・。
「嘘だろ・・・、アイツだったのか・・・!?」
「おや、君の方でも彼を思い出したようだね。たとえ一瞬の出来事であっても、不審人物の顔は一通り、記憶へ刻みこんでいると見える。さすがに刑事だ」
ステップニーの空き家でダリルを見たとき、確かに妙な既視感があった。
そのときは俺の気のせいだと思ったが、やはりそうではなかったのだ。
「道理で、やたらフレッドのことを聞いてきやがると思ったら」
あのとき、ダリルはなぜか俺の恋人について、話を聞きたがった。
会ったこともない俺の相手などを、知りたがる理由が理解できず、話の流れで揶揄われているだけかと判断したが、顔も知らないどころか、一晩中ダリルに覗かれていたのだ。
今更ながら顔から火が出る思いではあるが、アバラインを知っているなら、俺との関係に興味を持って当然だろう。
「日頃は冷静沈着な警部補も、恋人の前では随分と情熱的なようだね・・・羨ましい限りだ。もっとも、ダリルを尾行させたのはそのとききり。尾行の初っ端から君と目が合ったと言っていたからね。翌日からは彼の仲間である、ゴロツキどもに交替で見張らせた・・・・君達も張り込みのときには、同じ事をするだろう」
「全く念いりですね。・・・恐れ入りました」
完敗というしかないだろう。
「君を尾行した理由も話した方がいいかい?」
今度はスティーヴンの方から聞いてきた。
「俺がガーラントの件で、勝手に嗅ぎまわったからですよね。自覚はしていますよ」
スティーヴン自ら、その件については彼らが預かると警察へ伝え、キャラハンやアバラインからも捜査中止を伝えられてたのに、俺は勝手に動き回った。
「もちろんそれもあるけど、僕は最初に君にあった直後から、ダリルに尾行させたと言っただろう?」
「あれも『ジャルダン・スクレ』でのことだ・・・だとすれば、あの店を探りにきた俺が、下手なことをしないように、最初から見張っていたってことですか?」
「君に一目惚れをして、恋人がいないか探らせたんだよ・・・と言ったら信じるかい?」
「そんなわけはないでしょう」
あくまでこのノリをやめようとしないスティーヴンに、俺はそろそろ辟易としていた。
「怖い顔だ。・・・まあ、勘が鋭く、それでいて上司の言う事を聞きそうにない、無鉄砲な刑事だから、探らせたというのが実のところだよ。そして・・・・何より君が心配だった」
灰色の瞳へ真っ直ぐ俺を映し、真面目な調子でそう付け加えたスティーヴン。
俺は何と反応してよいのかわからず、結局視線をこちらから外した。
「そういえば、年頃の従妹がいらっしゃるんですよね。結局、あのあとどちらでデートされたんですか?」
『ジャルダン・スクレ』で俺達と食事をしたあと、スティーヴンは『従妹とデートの約束がある』と言って先に帰った。
恋人がいて、フィルとデートを重ね、やはりデートをするような仲の従妹がいて。
おまけに俺にまで気があるような振りをして・・・そんなものは冗談だとしか思えないのに、それでいて真顔でああいうことを言う。
何を考えているのやら、さっぱりわからない。
「確かに年頃の従妹なら何人かいるが・・・デート? ちょっとわからないな、すまない・・・君が何の話をしているのか・・・」
「何を言っているんです? 自分で言っていたでしょう、デートの約束があるからと・・・『ジャルダン・スクレ』を出たとき、そう言って先に帰ったじゃないですか。それとも、あれもまたお得意の冗談だったんですか?」
適当なことばかり言っているから、自分がどこで誰に何を言ったのか、ちゃんと覚えていられないのだろう。
俺が心底スティーヴンに呆れていると。
「なるほど、デートか・・・!」
そう言って、スティーヴンが突然大声で笑い始める
「何がそんなに、可笑しいんですか・・・」
俺は戸惑った。
「いや・・・確かにそう言った。思い出したよ。・・・悪いね、ちょっとピンと来なかったんだ。君の言い方だと、まるで僕に特別な関係の従妹がいるように聞こえたから」
「デートっていうのは、普通特別な関係だからするものでしょう。それこそ何を言っているんですか」
もっとも、俺とて必ずしも、そういう相手としかデートをしていないのかと言われれば、女にとってあまり誠実な男ではなかったかも知れない。
しかしスティーヴンのように、ほんの数日前に自分が誰とデートをしたかも覚えていないほど、いい加減な付き合いはしていないつもりだ。
多分。
「もっともだね。・・・けど、そのとき会っていた従妹というのは、6歳の女の子なんだよ。許してくれないか?」
「6歳・・・?」
いくらなんでも、それはまた若いデートの相手である。
スティーヴンはあらためて説明してくれた。
「ああ。確かに僕は、ときおり時間を見付けてヴァージニア・・・それがデートの相手の名前だけど、彼女に会いに行くようにしているんだ。おしゃまな女の子で本ばかり読んでいる、思索好きなお姫様だよ。3歳年上のヴァネッサは絵ばかり描いている。どちらも大人しい娘達でね・・・そろって、義兄達から性的虐待の被害を受けている」
「何と・・・仰いましたか・・・?」
俺は自分が聞いた言葉を理解出来ずにいた。
性的虐待・・・異性に辱められているということなのか?
しかし、彼の幼い従妹達は、6歳と9歳の少女だ。
あるいは、いつもの冗談だろうかと思ったが、スティーヴンは俺から逸らしたままの視線を、物憂げに宙へ投げかけているだけである。
そこに、日頃の荒々しい狼の面影はない。
それからスティーヴンは、淡々と従妹達について説明をしてくれた。
被害の懸念があるのは6歳のヴァージニア・スティーヴン及び、9歳のヴァネッサ・スティーヴン。
彼女達は共にスティーヴンの父方の従妹にあたり、あの国語学者レスリー・スティーヴンの実の娘達だ。
母親はジュリア・プリンセップ・ジャクソンで、共に子持ちの再婚だった。
ジュリア・プリンセップには現在、ケンブリッジとイートン校に入っている連れ子がいる、・・・ここでスティーヴンは、「共に僕の出身校だよ」と自嘲気味に笑ってみせた。
この彼にとっての後輩であり、血縁が全くない従弟である、ジョージとジェラードの二人が、夏休みなどでハイド・パーク・ゲイトの実家へ帰って来るたび、家族の目を盗んで、幼い義妹達を手にかけている疑いがあるのだという。
「まあ、はっきりしたことはわからないんだけどね。従弟とはいえ、ジョージもジェラードも、僕にとっては、ほとんど他人のようなものだ。あまり喋ったこともないのに、捕まえて正面から追及するわけにいかないし、かといってヴァージニアやヴァネッサに聞いても、話が要領を得ない・・・」
相手は10歳にもならない子供達だ。
ちゃんと説明できなくても仕方がないだろうし、あるいは自分達がされていることの意味も、よくわからないかもしれない。
仮にわかっていたとしても、それを誰かに訴えることは、大変な勇気がいるだろう。
結局のところ、彼自身ができるだけ足を運んで、幼い従妹達を見守るぐらいしかできないようだった。
「何か・・・できることなんて、それほどないでしょうけど、俺でもし力になれるようなことがあるなら、いつでも言って下さい」
気が付けば、俺はそう言っていた。
すると。
「それはもしかして、デートの誘いのつもりかい?」
いつもの笑顔でスティーヴンはそう言って、俺を揶揄った。


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