「何をしている。そろそろ帰れ」
漸く良い雰囲気になったところで、机にアバラインの上半身を横たえた俺は、冷静な上司の声に突き放されていた。
「いや、まあ・・・でももうちょっとぐらい」
躊躇う俺に。
「馬鹿を言え。時計を見ろもう1時過ぎだぞ」
俺を突き飛ばすようにしてアバラインが起き上がり、自分の席に戻った。
「まったく・・・ムードないんだから。これ、飲まないんだったら片付けますよ?」
「ああいいぞ、やっておくからお前は帰れ。明日早いだろう」
結局手つかずになっていた冷めたお茶を、流しへ運ぶ俺の背に向けて、アバラインが声をかけてくれるが、席から動く様子はない。
まあ、彼とて仕事が山積みなのだから当然だろう。
無視して俺は蛇口を捻り、カップを洗い始めた。
考えてみればアバラインは、いつもお茶を淹れるのが上手い。
同じように淹れているつもりなのだが、どこかが違うのだろう。
今度彼に、淹れ方を習ってみようか・・・。
カップに水を掛けながら、頭に浮かんだ鼻歌を、俺は口ずさんでいた。
幼い日々の情景が、過ぎ去りし幸せな思い出と共に、目の前に蘇る・・・・。
あとはなんだったかな・・・。
適当にメロディーだけを続けていると、不意にアバラインが話しかけて来た。
「よく知っているな」
洗いあげたカップを布巾で拭いつつ、俺は彼を振り返る。
アバラインは茫然とした顔で俺を見ていた。
何の話だろうか。
「ええと・・・すいません、よく聞こえなかったんですが」
俺が何を知っていると言ったのか、彼に聞き直すと。
「その歌だ・・・アイルランド民謡だよ。昔、俺の母親がよくそうやって、洗い物や料理をしながら、口ずさんでいた・・・もう少し上手かったけどな」
「驚いた・・・あんたの知ってる歌だったのか」
そういえば、メアリー・ジェーンの部屋からも、この歌が聞こえて来た。
いつか『ホーン・オブ・プレンティ』にいた常連客が、彼女もアイルランド系だと言っていたことを思い出す。
不思議な感じがした。
「なあ、・・・あんたの子供の頃ってどんなだったんだ」
なぜか、急にそんなことが知りたいと思っていた。
アバラインがどのような家庭に育ち、彼の母親がどんな人で、どんな気持ちでこの歌を聞いていたのか。
「なんだ急に・・・唐突だな」
アバラインはそう言って笑った。
柔らかい笑顔だった。
「知りたいと思ったんだ」
あなたの全てを。
「そのうちにな」
あやすような、優しい声でそう告げると、アバラインは再び、書きかけの書類へ視線を落とす。
ヘイゼルの瞳が、今夜はこれ以上俺を見てくれそうにないことに気が付き、俺は諦めて自分の席から上着を取り上げて、出口へ向かった。
そしてドアノブへ手を伸ばした瞬間、物凄い勢いで向こうから扉を押された。
「うわっ・・・おい、危ないだろう!」
扉の角で顔をぶつけそうになっていた俺は、戸口に立っているディレクを非難する。
「すいません・・・ですが、大変でして・・・」
「なんだ、どうかしたのか?」
アバラインが、少し緊張した声で立ち上がりながらディレクに聞いていた。
俺もよく見ると、ディレクの顔が、心なしか青白く、瞳が泳いでいるように見える。
嫌な予感がした。
「さきほど・・・巡回中の警官から、バーナー・ストリートのダッフルズ・ヤードで女性の惨殺死体が発見されたと報告がありました」
俺はアバラインと顔を見合わせる。
どうしてだ・・・?
「わかった、すぐに行こう。ジョージ」
明日はケントへ行く筈だった。
そこで俺は、バーネットから話を聞いて、奴の尻尾を掴んでやる筈だったというのに・・・どうして今なんだ?
「・・・・・・・・・」
3週間。
「ジョージ、聞いてるのか?」
「・・・・・・・・・」
3週間、奴はなりを潜めていた。
その間に俺は何をした・・・?
・・・3週間もあったというのに!
「ジョージ!」
バシンという衝撃が顔に走る。
「あ・・・・」
叩かれたのであろう、頬がジンジンと痛んでいた。
「行くぞ」
既に上着を着ていたアバラインが刑事課の扉から出て行き、俺はその後を追う。
End