地下鉄の駅を降りると、いつのまに出来たのか、大型チェーンのCD屋が目の前に建っていてびっくりした。
車で移動することが多い白川にとって、駅付近の込み入った路地は、あまり足を運ぶ機会がない。
買い出しも、ここからは離れたデパートで、たいてい済ませている。
結局、あのままビクトールを置いて、店を出てきてしまった。
「言い過ぎたよな、絶対・・・」
話をしてくれと頼まれて、ほぼ強引に押し付けられたとはいえ、ビクトールの相談相手を監督から引き受けたのに、その挙句がこのザマじゃ・・・ハートマンもあまり人を見る目があるとは思えない。
そもそも最後のほうなんて、元気づけるどころか、いっそ嫉妬丸出しだ。
自分が何を言ったかを思い出して、白川は恥ずかしさのあまり顔を上げられなかった。
ビクトールを傷つけてしまったかもしれない・・・。
白川は後悔していた。
  
お前は仲間を思いやれる優しさを持っている。
  
監督の言葉が思い出された。
買いかぶりすぎだ。
実際の自分は、つまらない焼きもちから、苦しんでいる仲間を、いともあっさり傷つけてしまえる、醜い人間だ。
  
  
  
西日を受けて、オレンジ色に輝いている路地を、一つ曲がった。
「あれ」
自分の家の前に、見慣れた車が停車している。
「よぉ、サボリ魔」
五箇山宗冬だ。
「・・・五箇山? なんでここに・・・」
カーキ色のジャケットと黒いジーンズ姿の五箇山が、美しいパステルグリーン調で纏められたの我が家の玄関で、家主の帰還を邪魔するように立っている。
五箇山はもたれていた重厚なドアから、ゆっくり背を起こすと、白川を睨みつけてこう告げた。
「いいから開けろよ。腹が減ってしかたがない。なんか食わせろ」
まさか練習場から直行して、今まで自分を待っていたのか? ・・・そもそも質問は無視か?
  
  
  
レンジで温めるだけのパエージャとビールを出してやると、「油っぽい」とブツクサ言いながら、それでも五箇山はきれいに平らげた。
「カフェテリアで食べてくればよかったのに」
「うるせえ」
勝手に押しかけておいて、やれメシを食わせろ、油っぽいのと文句を言う人間に、うるさがられる筋合があるだろうか。
白川は汚れた皿を流しへ移して、ムッとしながらコーヒーの準備を始めた。
対面キッチンのカウンターの向こうから、テレビの音が聞こえてくる。
先日のトゥルンバ戦だ。
デッキにDVDが入れっぱなしになっていた。
「お前、練習さぼってどこ行っていたんだよ」
「人聞きの悪い言い方しないでくれ。大事な用があって、ビクトールと会っていたんだ」
「なんだそれ。ビクトールだったらグラウンドにいただろ。練習より大事な用って何なんだよ」
ビクトールの言うとおりだ。
五箇山は自分が練習を抜け出したことで怒っている。
でも、だからってわざわざ押しかけて来てまで文句を言うことないだろ? メシまでせびりやがって。
肩を怒らせながら、乱暴にコーヒーカップをテーブルに置いた。
「あちっ、・・・もっと静かにおろせよ。かかっただろうが」
「五箇山には関係ないよ。監督に頼まれたんだ」
チームメートのことで、副主将に関係がないという言い方もないのだが。
言われた本人はそれほど気にしていないようだった。
「ビクトールと今まで会っていたのか?」
背を伸ばしてテーブルの端からティッシュケースを引き寄せ、二、三枚をとりだして茶色い雫をふき取った。
こういうところは、五箇山も意外と几帳面だ。
「そうだよ。・・・ちょっと話をしてきた」
ブラックでは飲めない白川は、カップの底に沈んだ砂糖とミルクをかき混ぜ、それから口へ運んだ。
運びながら、目の前のチームメートへ視線を戻す。
「お前、練習場に車忘れていたぞ」
「知っているよ・・・忘れたわけじゃない。ビクトールの車で帰ったから、置いてきたんだよ。明日は迎えに来てって頼んだけど、・・・たぶん無理かな。どうしよう」
別れ際の諍いが思い出され、白川の顔が少し憂鬱に翳る。
「・・・なんかあったのか?」
カップに口をつけながら、五箇山はじっと、白川の様子を伺っていた。
心なしか、目が据わっているように白川には見えた。
「ちょっとね・・・喧嘩ってほどじゃないんだけど、彼を傷つけるようなこと言っちゃって・・・」
  
あれからビクトールはどうしただろう。
  
黙って席を立つなんて、やはり大人げなかった。
  
「・・・お前まさか、なんかされた・・・わけじゃないだろうな?」
「え?」
予想外の問い返しに、白川が思わず目を丸くする。
五箇山は少し気まずそうに顔を顰めたが、それでも目は真剣そのものだった。
自分がビクトールに・・・何をされるというのだろう?
「その、傷つけたって・・・、ひょっとしてビクトールがお前になんかしようとして、それで抵抗したからとか・・・そんなんじゃ」
五箇山は、もう少し具体的に例示して、質問を繰り返した。
説明を補足する顔が、少し赤い。
「何言っているの?」
「・・・あ、いや。なんでもない。違うんだったら、それでいいんだ」
それきり、気まずそうに彼は目を伏せてしまった。
白川は言われた言葉を心で反復してみたが、やっぱり理解できなかった。
質問の意図も気にはなったが、なんでもないというからには、大した意味はないのだろう。
白川は自分の話に戻った。
「とにかくさ、ビクトール、ここのところ元気がなかっただろう? だから、監督に話を聞いてやってくれって頼まれたんだよ」
「・・・確かにな。俺も首里も、ちょっと気にはなっていたんだが。でもだからって、なんでお前が監督から頼まれるんだ? 俺たちに言えばいいだろ」
副主将の自尊心からか、少し五箇山は納得がいかないようだった。
先ほどの質問は、完全に流されたようである。
白川は少し気が抜けた。
「判らないけど、那智には多分、俺たちがカナリアで一緒だったからじゃないかって言われたよ。そこにそれほど意味はないと思う」
「お前は相変わらず、甘いな・・・・・・」
白川の解釈にがっかりしたらしい五箇山が、盛大にため息をついた。
「どうして?」
「・・・いや、なんでもない。世の中には気づかなくてもいいことも、あるってことさ」
クールに決めた五箇山が、静かにカップの中身を平らげる。
その冷静な表情に、先ほどの焦りは、微塵も見られない。
残念である。
「バカにしているの?」
悔しくて白川が絡んだ。
「そうじゃない・・・ただ」
五箇山は少しだけ言い淀んだように、顔を俯けた。
白川が絡んでくることは予想外だったらしく、どうやら返答に困っているようだった。

ザマーミロだ。
よし、このまま謝らせてやる。

「ただ・・・何んなんだよ? ほら、言いなよ」
調子に乗って、白川がその顔を覗き込みながら、先を促した。
椅子から腰をあげて、身を乗り出した彼が少し顎をあげ、下から覗きこむようにして、間近に五箇山の顔を捉えている。
それは、本当に一瞬のことだった。
「教えてやるか、バ~カ」
反論する間もなく、あっという間に唇が重ねられていた。
「・・・・・・・・・」
  
嘘・・・だろ?
  
  
思いがけない行動に、白川は目を閉じることも忘れていた。
至近距離には、自分の唇を捕らえている五箇山がいる。
近すぎて表情までわからなかったが、彼の瞼はおそらく閉じられていたのだろう。
やがてゆっくりと、唇が離れていった。
短い間だが、けして一瞬の事故などではなく、しっかりとした口づけだった。
髪が指先で梳かれる気配がして、初めて後頭部の当たりを押さえられていたことにも気づく。
五箇山は白川が口づけから逃げることを、許さなかったということだ。
短い接吻から解放された白川は全身から力が抜けて、どさりと椅子に腰を戻すと、そのまま唇を押さえて俯いた。
感触が生々しく残っている。
「・・・・・・あんまり俺を、心配させんな」
動揺から白川が何も言えずにいると、五箇山は立ち上がり、静かに部屋から出て行った。
  
  
  
  
誰もいなくなった部屋の片隅で、白川はずっと窓の外を眺めていた。
日がすっかり落ちた空の色は、深いコバルトブルーに変わっている。
この街の空は、本当に不思議な色をしている。
雲だらけの祖国と全く異なり、何年か住んでいたラストロとも少し違う・・・。
白川はもう一度、指先で唇に触れてみた。
思いがけない相手から与えられた感覚が、じわじわとそこに蘇ってくる。
「からかわれたんだろうか・・・」
しかしそうとは思えない、真剣なまなざしが、目の前には確かにあった。

 それから・・・・・仕方ねぇから、明日は拾いに来てやるよ。
  
玄関口から聞こえてきた、五箇山の声。
思わず立ち上がって顔を覗かせると、向こうを向いたまま照れ臭そうに頭を掻いて、出てゆく姿がそこにいた。
「期待してもいいのかな」
でも、・・・・何を?
不意に静寂を打ち破る、喧しい携帯のコールが鳴った。
「もしもし」
相手を確かめてボタンを押す。
ハートマンだった。
『今、大丈夫かね?』
「ええ」
耳元で聞こえる、落ち着いた声の響きに、未だに胸を踊らせてしまう己を自覚する。
電話で話すことなど、何ヶ月ぶりであろうか。
白川は目を閉じて、その声に耳を澄ませた。
『今日は無茶を言って、すまなかった』
「いいえ」
ビクトールのことだ。
『それで・・・話してくれたのかい?』
「ええ、まあ・・・・・・」
胸に小さな痛みが走る。
『ありがとう』
「でも、彼を傷つけてしまったかもしれません」
白川は事の成り行きを、かいつまんで話した。
『そうか』
「・・・申し訳ありません」
『君が謝ることはない。元はといえば、私がいけないのだから。体の調子がよくないと、気持ちまで荒んでしまうものだ。もう少し様子を見るとしようか・・・。嫌な役を負わせてしまったね』
「そんな、とんでもない・・・僕のほうこそ、力になれなくて」
この人の役に立ちたい・・・。
最初にそう思ったのは、いつのことだっただろうか。
『それにしても困った監督だね。ビクトールには何度も、話をしようと近づいてみたのだが、ことごことく逃げられてしまって・・・』
「そうだったんですか・・・」
あたりまえだった。
最初からそんな頼みごとを、白川に押し付けるわけがないのだ。
とことんまで避けられ、それでもどうにかしてやりたくて、初めて気心が知れている白川に助けを求めてきたのだ。
・・・助けを乞うとは、程遠いやりかたではあったが。
『最近では練習中ですらロクに目も合わせてくれないよ。どうやら私は、すっかり嫌われてしまったらしい』
珍しく弱音を吐いているハートマンに、思わず白川は笑ってしまった。
こんな声をチームメートたちが聞いたら、さぞかしビックリするだろう。
声が漏れる。
『可笑しかったかね?』
「いえ・・・すいません。ただ、あなたもビクトールも、まったく同じことを僕に言うものだから」
『彼が私のことを、何か言っていたのかい・・・・・・?』
ますます不安そうに聞いてくるハートマンが可笑しくて、こんな姿はひょっとしたら家族ですら知らないかもしれない、・・・そう思うと少し嬉しくて、調子に乗ってしまいそうで。
・・・だから、こんな大胆な言葉が言えたのかもしれない。
「嫌われているだなんてあるわけないでしょう。・・・まあ、あなたを愛しているとまでは、言っていませんでしたが」
僕とは違って。
最後の言葉は辛うじて飲み込む。
冗談でしかないはずの白川の軽口に、いつまで経っても携帯の向こうから笑い声は届かない。
しばらく沈黙が降りた。
白川はすっかり闇に包まれていた広い部屋で一人きり、窓の下の壁に背を預け膝を抱えて座りながら、携帯の向こうに流れている静けさへ必死に耳を澄ましていた。
彼は何を思っているのだろう。
目を閉じてみれば、ハートマンの心の声が聞こえてこないだろうか。
『兼陳・・・・・・』
久しぶりに下の名前で呼ばれた気がした。
「はい監督」
『その、君さえ良ければだが・・・』
ハートマンは躊躇いがちに話を切り出した。
『来週、トルコから帰ってきたあたり、一緒に食事でもどうだろう』
君には、いろいろと迷惑をかけたし・・・。
そう続けるハートマンには、まだ、迷いがあるように感じられた。
何に対する迷いなのだろうか・・・。
それを考えることは、白川にとって酷く苦痛であるに違いなかった。
「負けて、それどころじゃないかも知れないですよ」
『私はウチの選手たちを信用している。敗退はしない』
「それでも、もし1点も獲れなかったら?」
『そんなことを許すと思っているのか? ペリコ戦が終わったら、即、シュート練習を毎日やる。・・・兼陳、話をはぐらかさないでほしい』
「すいません・・・。でも、ご家族はどうなさるんですか?」
かつて白川が拒絶された理由・・・・・・しかし、それは逃げようもない現実だった。
『・・・今は、君と過ごしたいと言っているんだ』
「考えておきます」
『そうしてくれ』
あっけないほどすぐに電話は切れた。
向こうに人気の感じられなくなった携帯を、耳元からおろして、白川は通話をオフにする。
暗い液晶画面が、寒々しくて嫌だった。

 今は、君と過ごしたい
  
どうして今さらそんなこと・・・・・・。
膝を抱えたままの両腕の間に顔を埋め、白川は己が打つ鼓動を聞いていた。
動揺が収まらない。
  
 私には家族がいる。
  
 彼らを裏切ることは許されない・・・。
  
判っていたのに。
辛く悲しい日々が心に蘇る。
練習へ行けば、嫌でも顔を合わさなければならない。
それでも、白川は毎日耐え続けた。
こんなときだからこそ、監督をガッカリさせてはならない。
人として成長もしてみせよう。
そうすることで・・・・・・、自分を拒絶した男へ仕返しをする。
なのに、その負の志も半ば、白川は己の決意の弱さを思い知らされた。
  
 今は、君と過ごしたい。
  
「ズルイですよ・・・」
  
目を閉じれば、口づける直前の、間近に見た、五箇山の眼差しが、まざまざと脳裏に浮かんでくる。
白川は暗闇の中、目を見開いた。
どうしてこんなときに、五箇山のことなど・・・・・・。
顔が赤くなる。
  
 教えてやるか、バ~カ。

口づけはブラックコーヒーの味がして、白川には少し苦かった。
揺れ動く気持ちを抱えたまま、いつしかそのまま白川は深い眠りに落ちていた。

  
  
  
混沌とした闇の中で、聞きなれた電子音が部屋に流れている。
五箇山に無理矢理設定された着メロに、夢から強引に引き戻された白川は、飛びあがって辺りを叩きまくった。
みっくみくにされる前にどうにか床の上に携帯端末を見つけて、手探りのまま着メロを止める。
どのくらい眠っていたのだろう。
明るく光る液晶画面は「着信あり」と「新着メール」の両方の文字が並んでいる。
ボタンをもう一度押すと、デジタル時計の待ち受け画面に戻った。
午前4時45分。
まずは、たった今送られてきたばかりらしいメールを開いてみる。
那智からだった。
「もう眠ったみたいだから、これだけ伝えておく。ビクトールがお前に謝っていた。心配してくれたお前や監督を侮辱するようなことを言って、反省しているってさ。これからは焦らず、ゆっくり練習に励む。必ずトップフォームに戻って見返してやるから、首を洗って待っていろ、だって。・・・ちょっとヤツを刺激しすぎたかもしれない。監督にも謝っておいてくれって言っていたよ」
メールを閉じて、今度は最新の電話着信記録を確認する。
午後11時5分。
・・・どうやら眠りが深くて、電話が鳴っていたことにまったく気づかなかったようだ。
よく見ると、留守電メッセージも入っていた。
那智が自宅から録音したようだ。
「今ビクトールがウチに来ている。お前と話したいって、言っているんだが、これから出て来られるか?」
あれから店を出てすぐか、それとも1度自宅に帰ってからかは判らないが、自分にキツいことを言われたビクトールが、那智の家へ出向いて相談をしたのだろうことが判った。
何を言ったかは判らないが、それでビクトールが元気になったということは、どうやら那智は白川より、相談相手としてよほど適任だったということだ。
やはり監督は、人を見る目がなかったということか。
そういえば那智は、まだ日本にいたころ、やはり靱帯損傷で2年もリハビリを続けた経験がある。
あれでなかなか苦労人なのだ。
同じ体験をしている者の言葉が、白川が話す薄っぺらい慰めなどよりも、ずっと心に響くというものだろう。
そう考えると、当然かも知れなかった。
白川は那智に感謝をするとともに、己の底の浅さに少しばかり恥じらいを感じた。
ビクトールが自分では何も言わず、那智にメッセージを託した事実も、ちょっと痛い・・・。
それにしても、監督に謝っておいてくれ、だと?
「那智のおしゃべりめ・・・・・・」
話のついでに、白川が監督に頼まれてビクトールの相談に乗った事実を、那智がペラペラと喋ってしまった、ということだろう。
普段は人見知りなぶんだけ寡黙な男だが、肝心なときに口が軽くなる・・・それが那智の欠点だと、日ごろから白川は思っていた。
「俺の面目丸つぶれじゃないか」
伝言を聞く限り、幸いビクトールは気にしていないようだが・・・。
  
  
  
  
白川は携帯電話を閉じると、腰を上げてやっと寝室へ向かった。
もう夜明けまでそれほど時間がない。
明日は午前中にグエルへ出発だ。
そういえば五箇山は何時に来るつもりなのだろう?
少し気にはなったが、早く来たら来たで、待たせておけばいい。
白川の冗談を本気にしたビクトールと、ウチの前でかち合う可能性もあったが。
・・・そうなったら、まあそのときだ。
本気で怒り出しそうな五箇山の顔が見ものである・・・ビクトールには飛んだ迷惑だろうが。
それも心配させた罰という風に考えるなら、大したことはあるまい。
監督の件は・・・また明日考えよう。
今は一刻も早く、眠りにつきたい。


  
  
 End
  
  
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