『CASA』 ヒースロー空港のターミナルビルから外へ出た俺、那智泰綱(なち やすつな)は、晴れ渡ったロンドンの空を見上げて、少し重い息をつく。 『那智、残留して! 那智、残留して!』 コンデ公スタジアムで沸きあがった、悲鳴にも似たファンの合唱・・・・・・。 車はロンドン市内へ入り、渋滞が行く手を遮り始めた。 「もう我々は那智を忘れなければなりません・・・・・大きな痛手ですが、どうにもならない状況なのです。 悲痛な会見だった。 「両手を広げて歓迎するよ!」 魂が叫んでいた。 「そろそろ到着だね。プレスに囲まれる準備はできてる?」 那智、残留して! 那智、残留して! fin.
「泰綱が行ってしまうなんて・・・・まるで息子を失うようなものだ」
明日はリーグ開幕戦。
ドーバー海峡も渡って、ピレネー山脈を超えたはるか南の空の下、仲間たちはカーサで迎える開幕戦に向けて、今ごろ猛練習していることだろう・・・・・・。
MARK紙によると、明日のスタメン予想は白川とマルコ・ロムルスのツートップ。
そこに俺の名前はない。
「那智」
代理人のホセ・タマルゴ氏に呼ばれて、俺は物思いから我に返った。
黒塗りのドアを開き、彼の後について俺はタクシーへ乗り込む。
行先はドバイスタジアム。
8年間慣れ親しんだチューファの街を飛び出し、俺は知らない異国で新しい戦いを始めようとしていた。
「読むかい?」
隣に座ったタマルゴ氏が『SUPER SPORTS』を差し向けてきた。
地元チューファのスポーツ新聞。
「いえ、結構です」
これからハイバリーガナーズFCと交渉だというのに、今さら自分が立ち去ろうとしている街の新聞など、読む気になるわけがない。
なぜそんな物をわざわざ持って来たのだろう・・・・・・。
俺が掌で軽く押し返すと、彼は片眉を上げて見せ隣で大きく新聞を広げ始めた。
少し呆れた気分で新聞に目をやる。
ふと、目に入った記事のタイトル。
ヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグ王者、FCポルトゥスカレとのスーパーカップ。
ハイバリーガナーズと交渉を控えていた俺は、カップタイドを避けるため召集からは外された。
クラブは良識ある判断をしただけだ・・・・・・理屈はわかっている。
だが、チームがヨーロッパチャンピオンになった瞬間に、俺は仲間と同じピッチに立つことを許されていなかった・・・・・・その事実は変わらない。
「那智、残留して! 那智、残留して!」
それは遠く離れたチューファの街から、俺たちを応援するために駆けつけてくれたファンの声・・・・・・。
俺を受け入れ、愛し、必要としてくれている、声・・・・・・。
窓に広がるハイドパークや、セントジェームズパークの緑の森。
トラファルガースクエアやピカデリーサーカスに集まる群衆。
ビルディングに、賑やかな広告の数々・・・・・・。
全てが俺のよく知らない、ヨーロッパの大都会の風景だった。
ふと運転手がつけているカーレイディオのスピーカーから、耳慣れた声を聞き分ける。
ラザニア監督の会見だった・・・・・・。
彼とは最初にナランハを担当した時からの付き合いでした。
泰綱を失うということは・・・・・・まるで大事な息子を失うようなものです・・・・・・」
監督の声は強張っていて、まるで一言一言、自分を納得させるために、噛み締めるように、言葉を搾り出していた。
「着いたよ」
ロンドン市内の再開発地域に建設されたドバイスタジアム。
俺はこれから、8年という年月を過ごしたナランハを捨て、このイングランドで、ビッグクラブの一員になろうとしている・・・・・・
電話を切った俺の耳に、興奮気味なラザニア監督の声が、まだ、こだましていた。
結局ハイバリーガナーズとの契約は、白紙に戻った。
契約面の詳細を話し合い、ナランハより2倍も多い給料を彼らは保障してくれたし、いくつかの検査もすませていた。
詳しいメディカルチェックは後日行われる予定だったが、彼らはその前に俺と契約をしてくれると言ってくれた。
だが俺は結局、申し出を断っていた。
ホテルへ戻って、すぐにラザニア監督へ電話した。
チームはちょうど、エスタディオ・デ・アラゴンでの開幕ゲーム、ペリコ戦を開始する直前だった。
「戻りたいって言ったら、喜んでくれますか?」
そう聞いたら監督は、こう即答してくれた。
「もちろんだ泰綱、両手を広げて歓迎するよ!」
その後、ハーフタイム中にハイメ・フェルナンデスへ電話をして、契約延長の条件を直接確認し、俺はその場で「Si」と応えていた。
ナランハへ今すぐ帰るんだ。
俺のカーサへ帰るんだ。
トイレから戻ってきたタマルゴ氏が、ブランケットを払いのけてシートベルトを締めながら、冗談交じりに聞いてきた。
「ええ、覚悟はしていますよ」
苦笑しながら俺は応える。
そっとウィンドウシェードをあげて、外を覗き見る。
流れる雲の谷間から、見慣れたチューファの古い街並みがちょっとずつ見え始めていた。
じんわりと、心が熱くなってくるのを感じる。
「本当にこれでよかったのかい?」
不意にタマルゴ氏が聞いてきた。
思えば彼には随分と面倒をかけていた。
「すっかりあなたを振り回してしまいました・・・・すいません」
「ああ、まったくだよ。ロンドンくんだりまで付き合わされて、とんだ無駄足だったぜ」
そういうと彼は、わざとらしく大きな溜め息をついて見せ、最後にニカっと笑って見せた。
その顔は全然迷惑そうじゃなかった。
「・・・・・・イングランドに着いた瞬間から、諦めていたよ」
タマルゴ氏が続けた。
「タクシーを見つけて戻ってみると、空を見上げる君の澄んだ瞳に、はっきりとチューファの景色が見えたんだ。私はその瞬間、今回の仕事は失敗するなと感じたよ」
ふと目の前のシートポケットに差し込まれた新聞に目が行った。
「ひとつ聞いていいですか?」
「何だい?」
俺は目の前のポケットから『SUPER SPORTS』を引き抜きながら言った。
「どうして二日も前の新聞を持ち歩いているんですか?」
「おや、そうだったかな? ・・・・・・それは気づかなかったよ」
彼は新聞を俺の手から奪い取ると、もう一度、あの記事が書かれたページを開いて見せた。
ああ、俺は残るんだよ・・・・・・。
いろいろあったけど、君たちのいる街で、残りの選手人生を捧げると、絶対に約束するよ。
「で、・・・・・・もう連絡したのかい?」
「え?」
不意にタマルゴ氏に聞かれて、俺は一瞬混乱する。
なんとも中途半端な切り出し方に、ちゃんと質問を聞いていなかったのかと勘違いして、彼を見ると、タマルゴ氏は俺の薬指を指差して意味ありげに笑ってきた。
視線の先にはシルバー・リング。
内側に刻まれた名前を思い、俺は少し頬を赤くすると、
「いえ、まだ直接には・・・・・・会って、ちゃんと説明します」
電話じゃこの気持ちはとても伝えきれない。
会って、誰にも邪魔されず、ちゃんと伝えたいんだ。
「君に会う前に、浮かれすぎて、練習中に怪我でもしてなきゃいいんだけどな」
ハハハハハ! ・・・・なんてタマルゴ氏は豪快に笑っていた。
まさかと思いつつ、それでも彼ならありえなくはなんじゃないかと、俺は少しだけ不安になった。
空港が近くなってきた。
「君のカーサだよ」
タマルゴ氏が言った。
「ええ、俺のカーサに帰ってきました」
俺は答える。
そして心に誓った。
このクラブに自分の半生を捧げて尽くそう。
ここが俺のCASAなのだから・・・・・・。
『ナランハCF&ラナFCシリーズ』へ戻る