『Close to you』

 


あんたを殺して、あたしも死ぬ

 

その言葉は僕に頑丈な鎖を幾重にも掛け、がんじがらめにした。

 

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

天龍寺小熊(てんりゅうじ こぐま)から断りの電話を俺が受けたのは、すでにマニセス空港のカフェテリアでコーヒーを飲みながら搭乗を待っていたときのことだった。
スーツケースを車に積み込み、今にも家を出ようとしていた彼は、予期せぬ恋人の来訪で出発を断念せざるを得なくなった。
そのとき何事が起きたのか詳細は判らないが、とにかく俺と旅行へ行くと告げたとたん、彼女はとんでもない言葉で天龍寺を脅したのだそうだ。
最終的に天龍寺は彼女を選んだ。
それは自然なことだし、ましてや俺には家族がいるから彼を責める資格はない。
「いいよ、彼女の側にいてあげて」
そう言うと俺は携帯の電源を切り、出発ゲートへ向かった。
外は快晴。摂氏40度近い真夏の空からは肌を突き刺すような強い日差しが燦燦と降り、タラップを上がるバカンス前の白い肌をジリジリと容赦なく焼いていた。

 

 

イビサの空港はチューファと変わらない程度にこじんまりとしている。
ターンテーブルから小ぶりのスーツケースを引き上げると、人ごみを掻き分けて出口へ。
機内もここも、うんざりするほどに若いカップルばかりだった。
本来ならば天龍寺が待っていたはずのロビーを素通りして外へ出る。
外の気温はチューファと同じぐらい。
ただし蝿の数はこっちの方が圧倒的に少ない。
イビサが清潔なのかチューファが不潔なのか、または蝿という生物がバレアレス諸島にはあまり分布しなかったのか、それは俺、石見由信(いわみ よしのぶ)にもよく判らない。
紫外線の量は変わらなかった。
サングラスをかけて、大して込み合ってはいないタクシー乗り場へ進む。
すぐにやって来た白いカラーリングの車へ乗り込むと、5日前に予約したホテルの名前を告げた。
目的地のサン・アントニオへはここから車で約30分。
高い建物もなく、のんびりとした雰囲気は、チューファとそれほど大差はないように見えるが、しかし街に林立するホテルの前を水着姿の男女が歩いていたり、突如として現れる有名なクラブのSF的な建築が目を奪うあたりは、この島ならでは。

 

タクシーを下りてホテルを見上げる。
近場のリゾートとあってイビサへは何度も来ているが、サン・アントニオへ宿泊するのはこれが初めてだった。
イビサ・タウンのような情緒はないが、地図で見た感じではハーバーが近く、景観は悪くない予感がしていた。
通りを挟んで有名なクラブが2軒並んでいるのを発見する。
夜は騒音に悩まされる覚悟が要りそうだ。
ホテルのロビーへ入ると、途端に外国語がそこかしこから聞こえてきた。
主に英語が多い。ロンドンの繁華街から引用して、この辺りがウェストエンドと呼ばれていることを思い出した。
チェックインを済ませ、受け取った部屋の鍵は5階のダブル。
ドアを開け、ベージュのカバーが掛かったキングサイズのベッドを目にした途端、こみ上げてきた寂しさに動揺する。
「一人旅だからさ」と自分に言い聞かせ、さっさとスーツケースから荷物を取り出し部屋を作った。
バルコニーから見える景色は長閑な田園風景。
バカンスシーズンの急な計画とあって、海が見えるホテルは残念ながらどこもいっぱいだったが、この景色だって悪くはない。
無意識に手が伸びた携帯にメールの着信を確認する。
胸の高鳴りを感じた自分に苦笑をしつつ、しかし開封した画像付きメールは里帰り中の夕雲からだった。
今年新しく家族の一員となった一羽は、早くも彼女の実家でアイドルになっているということだ。
微笑ましい集合写真に頬を緩め、「きみが愛しい」とだけ書いたメールを返すと、罪悪感から目を背けるように携帯を閉じた。

 


ホテルから5分も歩くと、背が高いパームツリーと噴水に彩られた、見事なロータリーに行き当たる。
目の前には白いヨットがズラリと並ぶハーバーが広がり、そこから海岸線へ沿って美しい遊歩道が伸びている。
日が傾きかけたサン・アントニオの景観は見事なものだが、世界に名だたるサンセットは主にヨーロッパじゅうから観光客を呼び寄せて、このウェストエンドはもちろん、ビーチも遊歩道も、ごった返す人の多さが、ここを理想的なリラクゼーションからはかけ離れた場所にしてしまっている。
しかしそればかりは、名勝ゆえの悩みどころと言えるだろう。
平地にあるロンドンのそれとは違って、坂道だらけのウェストエンドをサンセットストリップへ向けて突き進む。
通りに立ち並んだパブから聞こえる、賑やかな笑いと英語の会話。
プレミアリーグのライブ中継をやっていないのが不思議なぐらいだ。
・・・・・・もっとも、今はエスパニアもイングランドもオフシーズン中だから、俺もここにいるのだが。
タトゥーの図案や髪を編みこんだ頭の広告写真と共に、クラブパーティーのポスターがあちこちの壁に貼られている。
空港で覚悟したほどカップルが多くなかったのは不幸中の幸いだが、街行く人の顔ぶれは海岸が近付くにつれ段々若者ばかりになってゆく。
どうやらこの辺りには安くで泊まれる宿が沢山並んでいるようだった。
頭上から口笛が聞こえて思わず見上げると、安宿かピソと思われるバルコニーから身を乗り出した青年に投げキッスをされた。
20歳前後か、せいぜい行って25……坊や、10年後に出直しておいで。
ホテルから歩くこと15分。ようやくサンセットストリップに到着する。
波打ち際が岩礁になっている海岸は、すでに日没を楽しみにやって来た人でいっぱいだった。
浜辺に3軒並んだバーからは大音量で音楽が流され、それぞれに店の個性を主張している。
どこも人がいっぱいだった。
最も有名な真ん中の1軒、カフェ・デル・マールへ入ったものの、テラスに空席がないのを見て諦めると、カウンターでビールを注文して店を出た。
瓶を持って、適当に岩場へ腰を下ろす。
海の上にはオレンジ色に染まった鮮やかな夕焼けが広がっていた。
停泊している帆船の向こうを、ハーバーから一艘のフェリーが出発して、エンジン音とスピードを上げながら横切っていく。
フェリーに押し出されて、少し大きな波が岩礁へ打ち寄せてきた。
サンダル履きの素足を濡らした海水は、心地よい程度の冷たさだったが、塩分による刺激が、シーズン中に作った擦り傷がまだあちこちに残っていることを思い出させた。
辺りに広がった潮の香りを嗅ぎながら、空を見上げる。
手前からコバルトブルー、僅かなピンク、そして明るいオレンジへと移り行く自然のグラデーション。
小型船に導かれて遊覧飛行を楽しむパラセイラー達が、旋回しながら大きく手を振ってきた。
すべての動きが、影絵のようにシルエットとなって、日没の穏やかな景色に溶け込んでゆく。
背後から聞こえる音楽もまた、時に静となり時に動となり、このサンセットストリップという場所を実に見事に形容していた。
かかっている曲はどれもよくは知らないものばかりだったが、不意に聞き覚えのあるメロディーが耳に入ってくる。
カフェ・デル・マールからではない。隣のバーからだ。

 

あなたが側にいると、なぜ鳥たちがすぐに飛んでくるのだろう…
きっと彼女たちもあなたの側にいたいのね。私と同じ。

 

曲に合わせて歌詞を口ずさむ。
好きな男性に近付く女性たちを、鳥や星に喩えてせつない恋心を歌った有名なラブソング。
誰もが聞いたことのあるカーペンターズのナンバーは、エスパニッシュギターと子供達のコーラスで軽快にアレンジが施されていたが、しっとりとした南国情緒を感じさせる"Close To You"は、このビーチの雰囲気によく合っていた。
「おかわりいる?」
不意に声をかけられて飛び上がりそうになった。
「あれ、きみは…」
先ほどバルコニーから男に対して堂々と投げキッスを送ってきた青年だった。
差し出されたビールをつい受け取ると、青年はニコニコと笑いながら断りもなしに隣へ腰を下ろした。
薄い色のブロンドに青い瞳。日焼けしても赤くなって終わりそうな白い肌。
「エスパニア人じゃないよね?」
「ショックだなぁ…もうイビサに住んで結構経つんだけど、まだエスパニア語は完璧じゃないってことだね」
言葉とは裏腹に無邪気な笑顔を絶やさない青年は、少しもショックそうに見えなかった。
「いや、エスパニア語に問題はないと思うけど…少なくとも俺よりは。 何年ぐらい住んでいるの?」
「ロンドンからイビサにやって来て、かれこれ今月末で1か月だよ。君は日本人?」
ビールを倒しそうになった。
「ああ、そうだよ。……そうか、イギリス人なのか。結構なバケーションみたいだね。楽しんでる?」
学生の夏休みか。
「とんでもない! これでも労働者だよ。皆さんにバカンスを楽しんでもらうために、毎日朝から晩までグラスや皿を運んでいるのさ」
「へえ。どこで働いているんだい?」
「そこのマンボってカフェだよ」
青年はカフェ・デル・マールから道を挟んですぐ向かいにある、目立つ外観の建物を指した。
先ほど"Close to You"を流していたカフェ、というかバーだ。
今はすっかりノリの良いハウスミュージックに変わっている。
「えっと…ってことはこのビール…」
「4ユーロです」
押し売りかよ!
仕方なくポケットからサイフを出しかけると、青年は笑った。
「冗談だよ…もちろん奢り。っていうかナンパなんだけど…そろそろ名前を教えてよ。あ、俺はピート」
差し出された右手を仕方なく握り返す。
「俺は石見由信…でも、悪いけどナンパならお断りだよ。っていうかキミ、いくつだよ。まだ若いだろ」
「38。」
「嘘つけ」
「…の半分だよ。年齢関係ないじゃん〜。…あ、ひょっとしてカレシいるの?」
ピートは周りをキョロキョロと見回した。おい俺…、十代にナンパされたのかよ!
「いないよ…」
そもそもどうして”カレシ”になるんだ? ……まあ確かに、微妙なのならいるけど。
ピートは安心したように笑うと、今度は馴れ馴れしく肩へ手を回してきた。1秒後に振り払う。
「ちょっとぐらいいいじゃんケチンボ…・・・。でも、本当にカレシ…っていうか好きな人いないの? 見当違いかなぁ〜…せつなそうな顔してるように見えたんだけど」
「……?」
妙な事を言い出すピートを思わず振り返る。
「さっきの曲、きみを見てて俺が選んだんだよ。口ずさんでたよね。でも誰かに側にいてほしそうに見えた」
だから俺が来てあげたんだけど…と続けたピートの横腹に、軽くパンチを入れた俺は、しかし正直驚いていた。
「カーペンターズの曲だよね。でも選んだってどういう意味……?」
「正確にはバート・バカラックの曲。そしてかけたのはホセ・サディーリャのバージョンだよ。俺、こう見えてもDJなんだ」
「マンボでDJやってるなんて、よく判らないけど凄いんじゃないのかい?」
ここは確か、GachaやSpadeのプレパーティーで大物DJが来たり、独自のCDを出していたりするバーだ…ということを、ほんのさっきウェスト・エンドを探索していて俺は知っていた。
この若者は一体何者だ…?
「ここのレジデントDJの名前知ってる?」
「知らないけど…」
「ピート・ゴーディンっていうんだよ」
…まさかこの子が?
しかしピートは笑った。
「もちろん俺じゃないよ…。けど名前が同じってことでね、ピートに頼んでブースに入り込んでときどきプレーさせてもらってるんだ」
お運びの合間にだけどね、と彼は続けた。
しかし、そんな馬鹿馬鹿しい理由でこういう大きなバーが簡単に素人相手にプレーを許してくれるわけはないだろう。
ということは、きっとこの青年は若いながらもそこそこ実力、ひょっとしたら実績があるのかも知れない。
ロンドンでは自分目当てにやってくるクラウドもいる…などと冗談めかしてピートはさらに続けたが、それもあながち嘘ではないのだろうか。
まあ、クラウドの意味はよく判らなかったが。
「いつかはホセ・サディーリャみたいな大物DJになって、世界中でプレーする予定だから、そのときは由信をVIPとして招待するよ」
ピートは大きな瞳をウィンクすると、あどけない顔でクシャッと笑った。
イギリス人の彼が憧れているらしいエスパニア人っぽい名前のそのDJが、実は隣のカフェの初代レジデントDJにして、チル・アウト・ミュージックなる音楽ジャンルを確立した、クラブシーンの重要人物であることを知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
間もなくピートは後方から怒気を含んだ大声で呼ばれて、店へ走って戻って行った。
「じゃあ、待ってるからね!」
立ち去り際に言われた言葉の意味は、握らされたビール瓶のラベルにボールペンで殴り書きにされた、携帯電話番号らしき数字の羅列で判明した。
もちろんラベル、あるいは瓶を持ち去るつもりも、本当に電話をかけるつもりもまったくなかったのだが、困ったのはすぐに覚えてしまいそうな奇跡的なその数字の並びの方だった。
彼はフットボールにはまるで興味がなさそうで、ましてやラナFCなんて名前も知らないように見えたけど、番号の下6桁はあろうことか、俺の背番号と我がクラブの創設年を並べた数字になっていた。
「揶揄われているのかな? まさかねぇ…」
ひょっとしてこの番号は出鱈目なのではなかろうか…。
期待半分、不安半分といった気持ちで、いつのまにか俺は無意識に携帯のキーを押していた。
すぐにコールが聞こえ、焦って電話を切る。
まったく、何をやっているんだ。
自分の軽率さ加減に呆れて電源を切りかけ、ふとメールの着信に気が付いた。
天龍寺からだった。

 

今日は本当にごめんね。言い訳はしない。でもきみを愛している。

 

「バカ…」
鼻の奥がツンと刺激されるのを感じ、今度こそ携帯の電源を切った。
天龍寺に謝られる理由は多分ない。
彼女がいる天龍寺と家庭がある自分。
倫理的にどちらの罪が重いかは、比べるまでもない筈だ。
何があったのかは判らないけど、彼女に自分の名前を出し、一緒に旅行へ行くことを告げて怒らせた天龍寺に、もっと上手くやってくれと呆れたのは事実だが、そういう不器用な天龍寺だから惹かれているのもまた真実なのだ。
それから気が付いた。
天龍寺が「愛している」とはっきり言葉にしたのが初めてだということに。
そしてそのセリフを、自分がどんなに待ち焦がれていたのかに。
ビール瓶を放置するのは、この景観とここを愛する人に対して失礼だと思い、さきほどピートを怒鳴りつけたマンボのウェイターを見つけて返却すると、日が落ちて、一層の喧騒に包まれ出したウェストエンドをホテルへ向けて引き返す。
目を白黒させるフロントに詫びて、泊まってはいない3日分の清算をすると、タクシーを呼んでもらいその夜のうちに空港へ向かった。
一番早いフェリア行きのチケットを買うとチェックインを済ませ、携帯から手早くメールを打つ。

 

きみは悪くないよ。俺も愛してる…

 

打ちかけて、全文削除する。
少し思案して、もう一度キーをプッシュし直した。

 

すぐきみに会いたい。

 

送信ボタンを押して携帯を閉じる。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
逸る気持ちを抑えて出発ゲートへ向かう。
愛する彼の元へ。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 


Hi,Baby...... 出られなくてごめんね。でも早速電話をくれたなんて嬉しいよ。じゃあまたね、愛してるよ。

 

その伝言は英語交じりのエスパニア語で話されていたけれど、僕にでも判る簡単な単語で構成されていたのが、何よりの不幸だったのかもしれない。
恋人宛に録音された留守電メッセージを勝手に再生してしまった後ろめたさに苛まれながら、携帯電話をこっそり元通りに戻すと、次に僕は疑惑の目をシャワーの水音が響きわたるガラスドアの向こうへじっと向けた。
「ピートって誰だよ…」
愛する人は僕の質問に答えるようなタイミングで、幸せそうにカーペンターズのヒットナンバーを歌い始めた。

End



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