『Debut』 「アイツらこれまでの恨みつらみを、たった1年で返しやがるつもりなんだぜ。なんとかしろよ、天龍寺?!」 もちろんここ『ブラウ・グラナ』という店の名前とは、他でもない、ラナのチーム・カラーから来ている。 「はい、おまちどう!」 結局マスターの問いかけに、俺は答えを返さなかった。 ・・・彼が頼りないだって・・・? 冗談じゃない。 epilogue〜 3日後、アスレホの練習場で残念なことがひとつと、いいことがひとつ待っていた。 end
いつかのように、怒った監督が練習を中断して帰るということはなかった。
でも「馬鹿」だの「間抜け」だの、そんな言葉が練習場に飛び交うということは、最近じゃすっかり日常茶飯事になっていた。
すくなくともこの俺、天龍寺小熊(てんりゅうじ こぐま)がグラウンドに立っている間だけは。
「気を落とすなよ、今日はドリブルがキレていたじゃないか。クロスの精度もそのうち戻るさ。シュートが1本も入らなかったのは、イタリア組も同じことだ。今はみんなが調子悪いんだよ、お前さんだけじゃない」
昨シーズン、レンタル先のレアル・ウェルバから帰ってきて以来、毎日アスレホで俺を見ていてくれているオヤジが言った。
俺はいつものように練習終了後の駐車場で、群がってくる子供たちにサインをしながら、オヤジの話に相槌を打っていた。
ここ最近の日課だ。
今日の俺に関しては、この男の言ったことが全てであり、俺は本日の練習中、ドリブルでいい上がりを見せたが、クロス・ボールは途中でゴール・ラインを遥か遠くへ超えて割り、力任せに蹴った3本のシュートは、ひとつも入らなかった。
プレッシャーをかけてくるキーパーが存在しない、ポールが立っているのみのゴール・マウスに対してだ。
「ありがとう、また明日頑張るよ」
俺がなんとか笑顔を保ちつつ、弱々しい声で返事をすると、
「そうだな、俺はお前さんを信じているぜ! 平等院が全体練習に戻って来たと言ったって、まだまだヤツは病み上がりなんだ。今のナランハで左サイドを務められるのは、天龍寺しかいないって、この俺だけはちゃんとわかっているさ!」
彼なりに精一杯の慰めをしてくれた。
でもさ、平等院武蔵(びょうどういん むさし)が試合に戻ってきたら、またベンチだって、言っているようなもんだろ、それじゃ・・・・・・?
俺はこの馬鹿正直なオヤジに、苦笑いを返しながら、渡された真新しい18番のカミセタにササッとマーカーを走らせて返却した。
「はいこれ。いつもありがとう」
「おい、名前忘れてるぜ」
受け取らずに彼が言う。
「・・・ああ、ごめん」
指摘されてサインの横に、「セルヒオへ」と宛名をいれる。
「おう、ありがとよ!」
横からひったくるようにカミセタを受け取り、ボンを俺の肩を叩きながらそう言って、カミセタを広げると、自分の名前と俺の名前が並んだそれを嬉しそうに眺める。
ここ数か月来続く彼と俺との短い儀式。
一体今まで、何枚買ってくれたのだろう?
「いつも本当に感謝しているよ、セルヒオ」
俺はオヤジの名前を口にしながら、心の底からそう言った。
同じ名前のあの人とは似ても似つかない、人の良さそうな笑顔が皺くちゃのオヤジの名前だ。
するとその彼の顔から、皺くちゃが一瞬のうちに消えた。
「それにしてもよ、罵詈雑言がいつものこととは言え、”トンマ”はねぇよな」
オヤジのヘタな慰めによって、多少なりとも練習中の暗い落ち込みから、ようやく浮上しかけていた俺の気持ちが、この瞬間、また、地底深く沈みこんだ。
「いや、・・・確か、監督が言ったのはトンマじゃなくて・・・・・・。ええっと、何だっけ。もう忘れちゃったよ・・・アハハハ」
「何だったっけな〜、そうだ”ノロマ”だ! ”ノロマ”!」
「ははは・・・・・・思い出したんだ」
せっかく忘れかけていたのに。
「ったくヒデェよな、あのイタ公もよう。相手がお気に入りの那智坊だったら、あんな言葉、絶対に口にしないくせにな」
そりゃあ那智は、ラザニア監督にとって、目に入れても痛くないぐらいのヤツだから・・・。
選手同士のよくあるやっかみを超えて、最近じゃあマスコミの間でも面白おかしく書かれ始めているほどの二人の親密さを思い浮かべ、それが原因と思い込むことで自分を納得させようとしていた俺は、またもやオヤジの正直すぎる言葉によって天井から突き落とされた。
「俺はさぁ、応援しているお前さん『だけ』が、毎日毎日ボロカスに言われているのを聞いていてよォ、フェンスの外で拳を握り締めながら、心じゃせつない思いを噛み締めているんだぜ・・・。なぁ天龍寺、あのイタ公に何言われようと、あんま気にするんじゃねえぞ? トンマだろうが、ノロマだろうが、俺だけはちゃんとお前さんを信じているんだからな! お前さんはけして一人じゃねぇんだ、負けんじゃねぇぞ!」
オヤジが太った掌で、俺の背中をバーンと一発叩いてみせた。
悪気はないんだよな、悪気は・・・。
「う・・・うん、ありがとうね」
精一杯の笑顔をセルヒオへ向けると、ラザニアの苛烈なしごきでただでさえ無くなりそうになっていた俺の気力は、底をついた。
「よう、カンペオン!」
『ブラウ・グラナ』の扉を開けると、青と赤のカミセタを着たマスターが笑顔を全開にして手を振ってきた。
「こんにちわマスター。・・・・・・でもそれって、今は皮肉にしか聞こえないよ」
「当たり前じゃないか、皮肉を言っているんだから」
「やめてよ、これでも結構落ち込んでいるんだからさぁ〜・・・」
「なんだ、またグラタン野郎に苛められたか? 仕方ねえな、ホラ飲め飲め」
マスターが栓を抜いたビールとフードメニューを一緒に差し出しながら、遠慮のない言葉でズケズケと言いたいことを言ってくる。
「・・・ラザニア監督です。やっぱ、俺って嫌われてんのかなぁ」
「あぁ? 何ぶつくさ言ってんだよ、聞こえねぇよ」
大げさなゼスチャーでマスターが耳に手を当てて、カウンターから上半身を乗り出してきた。
「ううん、何でもない。マスターはご機嫌だね」
「そうでもないんだけどな、週末エスタディオ・デ・ラ・コルーニャでやられちまったしよ。でも景気の悪い天龍寺の顔を見たら、また元気が沸いてきたぜ」
「酷いっすよ」
「ガハハハハ! ホラ、とっとと注文しろよ、あとがつかえるぜ」
半ば強制的にアロス・ア・ラ・クバーナ(注・目玉焼きとトマトソース付きご飯)とフライド・ポテトを注文させられると、せわしなく厨房へ消えたマスターの背中を見送った。
マスターが楽しそうに俺を苛めてくれるのは無理もない話で、ここ『ブラウ・グラナ』はラナ・サポーターの溜まり場になっているバルであり、マスターも当然、熱狂的なラナ・サポの一人である。
家がたまたま近所というだけで、練習帰りにちょくちょくランチを食べに通っているナランハCFの俺は、今じゃ彼らのいい餌食というわけだ。
今シーズン39年ぶりの一部昇格を果たしたラナは、ドイツ人監督ベルナルド・シュステルの下、国内リーグでは近年稀に見る勢いで快進撃を続けており、市内のバルでは、青赤のカミセタを着たラナ・サポーター達が鼻高々に、白黒やオレンジに身を包むナランハ・サポを苛めるというのが、最近の流行となりつつある・・・・・・と、昨日の練習終了後、セルヒオが悔し涙ながらに窮状を訴えてきた。
・・・オヤジ、面目ない。
チューファでは昔から当たり前の呼び名であるが、常識が異なるグエル方面から来た観光客たちが、たまに間違えて入ってくることもあり、そんなときでもマスターは嫌な顔ひとつせず、最近なら『2年前の国王杯、ホームのアスル・グラナ戦』の思い出話なんかを、常連客たちを交えて熱く語りかけながら、彼らを歓待するらしい。
ちなみに試合の結末は、春日甚助(かすが じんすけ)のPKによる、当時2部だったラナの金星で、翌日テレビ・新聞の各マスコミが『アスル・グラナの大チョンボ』などと面白おかしく騒いでいたような記憶があるのだが・・・まあいいや。
トマト・ソースの濃厚な匂いを漂わせながら、目の前に大盛りのアロス・ア・ラ・クバーナが出される。
「ありがとう、マスター」
スプーンを手にとって、俺は目玉焼きとご飯をグチャグチャとかき混ぜた。
「いらっしゃい・・・よぉ、石見じゃないか!」
「こんにちわ」
おっとりとした穏やかな声が真後ろで聞こえて、俺はスプーンを口にくわえたまま振り向いた。
「あれ・・・、君は・・・?」
サラサラとした長めの黒髪と地味な雰囲気を持つ175センチぐらいの日本人が、俺を見つめてニコリと微笑んだ。
「やぁ〜・・・えっと」
見覚えのある男の顔と名前が一致せず、俺が戸惑っていると、
「石見由信(いわみ よしのぶ)。ラナの・・・・・・一応これでもキャプテンだよ」
恥ずかしそうに男が手を差し出してきた。
「どうも・・・、あの、天龍寺小熊、ナランハの・・・」
「ハハハ、知っているよ」
おずおずと俺が出した右手をしっかりと握りかえし、石見が笑った。
美しい笑顔だった。
石見・・・、本人からそう呼び捨ててくれと言われたから、遠慮なく呼ばせてもらうが、彼はラナの右サイド・バックだ。
6年前、所属チームの親会社倒産とともに単身日本からやってきたのだと、大した感慨もなく語った彼の話で、当時とある有名なクラブチームの熱心なアプローチを断りヨーロッパへ渡った若きディフェンダーのニュースを、ようやく俺は思い出した。
2部のSDアルメロスで1年間プレーし、当時まだ同じカテゴリーで戦っていたラナへ移籍して、今年でもう5シーズン目になる。
一昨シーズン、惜しいところで昇格を逃したラナは、昨シーズンもさらに好調を維持し、ついに2部で優勝。
俺たちと同じカテゴリーへ上がってきた。
つまりそう遠い記憶ではない今年の初夏、チューファの街は二つのカンペオンを称え、連日のフィエスタに酔っていたということになる。
しかし、チームが最高カテゴリーへ昇格したとたん、石見の居場所はなくなった。
40シーズンぶりの1部リーグに賭けるクラブは、総力を挙げてチームを補強し、それが結果となって現れて、ラナは今現在リーグで4位と、俺たちより上の順位につけている。
だがその右サイド・バックに立っているのは石見ではない。
ベルント・シュステルは同じポジションのホルヘ・ジョレンテを選んだのだ。
「ここ、座ってもいいかな?」
石見が隣のスツールの背に手をかけて聞いてくる。
「どうぞ」
促すと嬉しそうに椅子を引き、いそいそとそこへ腰を下ろした。
マスターがメニューとビールを持ってくる。
「あ、じゃあ彼と同じものを・・・」
メニューを見ずに石見が注文を済ますと、しばらくして目の前にトマト・ソースご飯とフライドポテト、そしてオレンジ・サラダが運ばれてきた。
最後の一品はマスターからのプレゼントだそうだ。何しろEl Ranistaが来店したのだから。
「ラ・コルーニャ戦、残念だったね」
好調のラナは、エスタディオ・デ・ラ・コルーニャで敗戦を喫し、連勝ムードにケチがついた。
「あのペナルティはレフェリーのでっちあげだ!」
後ろのテーブル席から空いた皿を運んできたマスターが、怒りも顕に口を挟んだ。
すかさずテーブル席に座っていた男たちが、そうだ、あれは陰謀だと、また審判論議を再開した。
俺が店へ入ってきたときも、彼らは剣呑な雰囲気でずっと同じ話題をしていた。
「確かに結果は残念なものだったけどね」
少ししんみりしとた表情で同調した石見の顔は、しかしすぐに笑顔に戻った。彼は続ける。
「それでも僕にとっては、とても大切な試合なんだ。だってプロリーグ初めての1部デビュー戦だったんだから」
言われて思い出す。
石見が日本でプレーしていたのはJPNFL・・・プロリーグのJPLと地域リーグの間に位置する、いわばセミプロリーグだ。
そこから所属クラブだった太陽電光FCの解体を受けて、いきなり海外リーグへ飛び出した。
なるほど、プロリーグの経験はこの国が最初だったのだ。
彼は今26歳。
デビューだなんて初々しい言葉を使うには、恐らくちょっと遅すぎる年齢だろう。
だが少し頬を赤らめながら、どこか興奮気味にそう語る横顔は、まさに「初々しい」という言葉がよく似合って見えた。
「あの夜のことを、僕は一生忘れない。小さい頃から最高カテゴリーでプレ−することを夢みてきて、幸運なことにそれが現実のものとなった。僕のサッカー人生においては、本場の1部リーグでプレイするということこそが一つの大きな目標だったんだ」
キラキラと輝く濁りのない黒い瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。
「置かれた現状を悔しいとは感じない?」
「悔しい?」
「だって君は本来なら、みんなと一緒に8月29日に1部デビューを果たしていたはずだろ?」
「でも僕は、先週その夢を叶えることが出来たんだ。だから悔しいなんて思わないよ。皆より少し出遅れたけどね」
翳りのない優しい双眸とかち合った。
どうしてそんな顔ができるのだろう?
「プレシアド監督が続けていれば、君はもっと試合に出られたかもしれないのに?」
少し意地悪な気もしたが、俺は彼の本音を引き出したかった。
・・・彼の状況が、今の自分と少し似ている・・・そう思いたいから、何が何でも同意を求めたかったのかもしれない。
「そうだね・・・。でもその代わり、シュステル監督に出会えなかったことになる。それは残念なことだよ」
「キャプテンの君を、レギュラーから外した人だよ・・・・・・?」
言った瞬間、俺は言葉が過ぎたかと思い、思わず口元に手を当てた。
ところが石見は俺を睨みつけるでなく、顔をゆがめることもなく、
「ホルヘはとても優秀な選手だから、認められて当然なんだ。僕は毎日、彼がどれだけ一生懸命練習を重ねているか知っているからね」
彼からポジションを奪った男・・・・・・、それがこの夏チームへやってきた、ホルヘ・ジョレンテ。
「悔しいとは・・・思わないのかい?」
「チームがいい雰囲気なのに、これ以上何を望むっていうの? 皆が幸せで、ホルヘがとてもいいプレイを続けていて・・・・・・。僕らは確実に夢を現実に変えている。まあ、キャプテンとしては、ここで一人で満足しているわけにもいかないから、あとは目標である一部残留を目指して、最大限、努力を続けないといけないんだけど」
石見は肩を竦めて、おどけたように笑った。
その仕草は、とても年上には見えず、危険なことに俺はこの人を可愛いと感じてしまった。
「でもさ・・・」
それでもやはり納得がいかなくて俺が弱々しく反論を試みると、
「僕は粛々とトレーニングを重ねればいいだけさ。それはやがて、チームにも僕にも大きな実りとなって返ってくるはずだからね」
静かな声が、俺の言葉を遮ってそう言った。
それは返事というより、むしろ独り言に近かった。
「石見」
マスターが、俺と彼の間へ割りむように入ってきた。
「すまんがあのカミセタにサインしてもらっていいか? もしも思い出の品に、そうするのが嫌じゃなければだが・・・・・・」
マスターが指さしたその先に、パネルに入れられた23番のカミセタが飾ってあった。
数字の上には『IWAMI』と、彼の名前がプリントされている。
「もちろんいいよ。そのかわり、あとでちゃんと返してね。まだママンにも見せてないんだから」
「判っているよ、約束どおりシーズンが終了したら返すから・・・」
おそらく冗談だろう石見の最後の言葉は、文化の違うマスターにとってそうは聞こえなかったらしく、言った石見が苦笑した。
パネルの中には日本のクラブチームとは比べものにはならない長いラナの歴史の中で、かつて在籍したスター選手のサイン入りグッズが並べてある。
鍵付きのガラス扉を開けると、その片隅にひっそりと飾られている、真新しい23番のカミセタをパネルから取り出し、マスターは石見の前へ持ってきた。
すぐ隣の壁にはよく見ると、平等院が来店したときに撮影したらしい写真も飾られてれていた。結構最近のものだ。
そういえば平等院は、ラナのカンテラ出身だ。
「これは石見が先週エスタディオ・デ・ラ・コルーニャで着ていた、記念のカミセタなんだ」
もちろん洗濯はしてあるぞ、水洗いだけどな、などと、こちらが聞いてもいないことを付け加えながら、マスターは教えてくれた。
その言葉は本当らしく、カミセタから汗の匂いは消えていたが、石見が使っているらしいコロンの甘い香りが、わずかに残っており、それはなぜだか俺を少し焦らせた。
石見は立ち寄るところがあるからと言って、まもなく店を出て行った。
俺はカウンターに残り、そのどこか頼りなげなシルエットが、ドアの向こうに消えるまで、ずっと背中を見送っていた。
「アンタらには、多分ヤツらを理解できないと思うよ」
「どういうことですか?」
「石見は今年、全国カテゴリーでデビューして7年になる。当時所属していたクラブはSDアルメロスという2部の下位チームだ。その前はたぶんアンタの方がよく知ってるんだろうが、日本のセミプロリーグにいたはずだ。つまりヤツのサッカー人生のほとんどが、セミプロや2部において育まれていたということだ。天龍寺、あんたはどうだ?」
俺は高校卒業と同時に日本を出てナランハのカンテラで1年間修業を積み、翌年にはレンタル先のレアル・ウェルバで1部デビューした。
その翌年には、ハートマン監督に呼び出されてナランハのトップチームでプレーしている。
実力といえば驕った言い方になるのだろうが、ひょっとしたらサッカー選手の人生としては、かなり順調な方かもしれない。
「人生なんて上を見ても下を見てもキリがない。それぞれの人生でそれぞれの生き方というものがあるから、人と比べることに何の意味もないだろうさ。ただ、ほんの隣を見れば、石見のようなヤツもいて、本人なりの人生を必死に生きている。アンタから見れば、なんとも頼りない生き方で、選手としちゃ一流と言えないのかもしれないが、少なくとも俺の目にあいつは光り輝いて見えているし、石見なりに地に足をつけた生き方で、ちゃんと信念を持って歩いている。アンタもそれが出来ているのかい?」
「俺は・・・」
どうだろう?
石見由信は、あのカミセタを、シーズン終了後、クラブが残留してもしなくても、『ブラウ・グラナ』へ返してもらいに来るらしい。
額に入れて、自宅に飾っておくのだという。
本人が言っていた通り、母親にも見せるのかもしれない。
そして母親は息子の晴れ舞台を思い出し、きっと誇らしく思うに違いない。
俺はどうだっただろう?
ナランハの皆は?
確かに俺も、自分のデビュー戦のことを思い出すときには、ホームのピッチに立ったあの興奮が胸に蘇り、今も熱くなる。
石見と同じで負けはしたけど、俺にとってはやはり特別な試合だ。
どのような競技であれ自分のデビュー戦を思い出し、熱くならないアスリートは、おそらく皆無だろう。
だが今はどうだ?
日頃はそんな事を思い出しはしないし、もっと大切な試合が目の前にある。
いつまでも初々しくなどしていられない。
この先ラナが勝ち進み、シュステル監督がジョレンテではなく、石見を先発起用するようになれば、石見の心の中でも少しずつ新鮮さは消えてゆくに違いない。
それはプロのアスリートとして、ごく自然なことであり、間違いなく、良いことのはず。
だが、今の彼にはそのような未来や現実的な可能性など不必要であり、実際に目の前にあるのは胸の熱くなるような華々しい1部デビュー戦の思い出と、キャプテンとして好調のチームを率いていくという責任だけ。
そうして置かれた現状の辛さに項垂れて、セルヒオやマスターに叱られている俺に、キラキラと輝く笑顔を余すところなく見せ付けてくれるのだ。
ならば俺はそこから何を得ることができるのだろうか。
2年前、ウェルバで1部デビューをした頃の、ワクワクするような興奮か、あるいはその後、エスタディオ・デ・アラゴンで古巣のナランハを相手に引き分けたきの満足感?
はっきりしていることは唯一つ、あの頃の俺は今に比べてまだまだ荒削りで、今よりずっとサッカーを楽しんでいたということだ。
そして「1部リーグでプレイすることは一つの目標」と興奮気味に言った石見は、実際には俺たちより上の順位にいて、それはチャンピオンズ・リーグ圏内だということ。
うちなる闘志を見つめるかのように、「粛々とトレーニングを重ねればいいだけ」と言っていた石見。
残念なことは、平等院がさらに3週間の療養が必要になったということ。
そして翌日の試合で、俺は先発起用され、今シーズン初ゴールを決めた。
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