『蛸』

「ビーゴといったら、こんな話を知っている?」
もったいぶったようにカルロス・フローレスが喋り始めた。
「バックスタンド側にある女子トイレでね、ひとつだけ奇妙な場所があるんだ。そこの扉を3回ノックするだろ? そして『マリアさん』と声をかけると、中から『は〜い』って返事が聞こえる。でもドアをそっと押して覗いてみると、実は中には誰も入っていないんだよね」
同じテーブルに座っていたファビアン・フランコやハビエル・ロドリゲス、ムーサ・ウマールといった後輩たちの顔を得意げに見回し、フローレスが「どうだ怖いだろ?」と言わんばかりに胸を張った。
「それって『トイレの花子さん』だろ? 単なる都市伝説じゃねぇか、くだらない」
「痛っ、何すんすか、もう!」
真後ろに座り、椅子ごとこちらに向いて話を聞いていた五箇山宗冬(ごかやま むねふゆ)に、頭をボンと掌で小突かれて、後頭部を押さえながらフローレスが文句を言っている。
「『スタジアムの怪談』っすよね。・・・なんでか花子さんじゃなくてマリアさんになってるけど」
俺たちのテーブルにいたファン・ソテロが五箇山の問いかけに対し、ニッコリ笑って頷いた。
彼はレアル・ビーゴにいたから、とりわけこの話はよく知っているようだった。
「他にも『鼻裂け女』とか『人面蛸』とか、他のスタジアムと同じように、エスタディオ・デ・ビーゴにもいろいろいるみたいだけどね」
もっとも子供たちの間でだけど・・・・そう笑いながらソテロが続ける。
「人面蛸・・・・・・? なんですか、ソレ? 人面蝙蝠なら聞いたことありますけど」
「おい、ソッチのが変だろ? そもそも普通は、人面犬だ」
チューファ育ちの平等院武蔵(びょうどういん むさし)の問い返しに、ごく平均的な日本人感覚を持った五箇山が突っ込む。
要するに、その地方その地方によって、土地に合った色んなバージョンが派生するのが、都市伝説ということだ。
それにしても、どれもこれも本当に怖がらせるつもりがあるのかどうかが謎である・・・。
「お前らもつまらねえ子供騙しなんかで盛り上がってんじゃねえよ。ムーサが退屈でモバゲー始めちまったじゃねえか」
「えっ?!」
思いがけず五箇山に指摘され、ウマールが慌てて携帯を閉じる。
・・・・・・覗かれて困るようなモノでも見ていたのだろうか?
「よし、じゃあここはひとつ、この俺が飛び切り怖い話を披露してやろう」
仕切り始めた五箇山がそう前置きして、その場は一転、怪談大会になってしまった。

 

エスタディオ・デ・ビーゴでの試合を終えたナランハCFは、常宿にしているビーゴ市内のホテルへ戻っていた。
イスタンブールでの敗戦に落胆していた俺たちは、なんとしても今日の試合を落とすわけにはいかなかった。
本来負けてよいゲームなどひとつもないが、とりわけ勝たなければならない試合というものは、シーズンの中でいくつかある。
イスタンブールでのアウェイ戦は、まさにその試合だった。
なのにそれを落としたというだけでなく、シーズン当初からの命題であるCL圏内を目標と掲げるチームとして、今日の試合にかかるプレッシャーというのは、相当大きかった気がする。
とくにレアル・ビーゴには、昨シーズン、足元を掬われたという気持ちを持っている連中も少なくはないし、監督が「CL圏内」とメディアへ公言しているものの、リーグ・チャンピオンという、2年前の歓喜の再現へ思いを馳せはじめる者が、チーム内にぼちぼち出て来ていたのというが、正直なところ。
つまり、本日、このチームのテンションは、結構高かったわけだ。
こういうときは、いい結果が出るものである。
高いテンションの中において、相変わらずクールな表情を崩さない副キャプテンは、自分の宣言通りに、怪談を始めていた。
「今から100年ほど前のこと。ビーゴの港で、1艘の漁船が悲劇にあった。その夜のビーゴは、少し風が強く・・・・そう、ちょうど今日のような空模様で、それでも海の向こうには、点々と夜釣りの漁船が灯りを浮かべていた。だが、突然の嵐が海面を激しく躍らせた。漁船たちは、次々と港へ帰ってくる。それでも、フローレスの乗った船だけは、戻ってくることはなかった・・・・・・」
「ちょっと、待った!」
「なんだ?」
話の腰を折るなと言いたそうに、うろんげな目をした五箇山がフローレスを振り返る。
「なんでフローレスなんすか!」
「仕方ないだろ、そういう話になっているんだ」
不服そうなフローレスを無視して、五箇山の怪談は続いた。
「捜索隊の船が出され、彼らは海で粉々になった船と、破壊された船体に捕まって波間で浮遊していた船乗りたちを救出し、港へ戻ってきた。蒼白な顔をした船員たちはみな一様にこう言った。『巨大な蛸が襲ってきた』。だが、フローレスの姿だけはそこにいなかった」
「ちょっと待っ・・・・・・んぐっ」
「どうせ作り話だ、気にするな」
なおも必死に抵抗を見せるフローレスの口を、横から手で塞ぎながら、本日殊勲のゴールをあげたフランシスコ・キロガが、目で話の続きを促した。
五箇山は続ける。
「嵐はなかなか止まなかった。一方、ホテルでポーターを務める小次郎は、その夜、奇妙な宿泊客を迎えた」
「今度はお隣の左サイド・アタッカーっすか……っていうかなんで日本人がでてくんのよ」
「そういや夕べ、東照宮小次郎(とうしょうぐう こじろう)のゴールでラナ勝ったらしいっすね。フィクションとはいえ、思いつきにもほどがある……」
フローレスに続き、元ラナFC出身の平等院までもが、五箇山に突っ込んだが、クールガイの耳に届くはずもなく・・・・・・
「腰に蛸壷をぶら下げたずぶぬれの男は、フロントで”F”とだけ名乗ると、『空き部屋はないか』と尋ねてきた。フロント係はその忌まわしい姿に恐れをなして、男をすぐに部屋へ案内するよう、小次郎へ命じた。部屋へ到着した小次郎は中で荷物を下ろし、客へ鍵を渡そうと振り返った。すると、そこに男はおらず、腰に着けていたはずの蛸壺だけが足元に転がっていた。嵐の外では突然大きな雷鳴が鳴り響き、窓を見ると、ガラス一面に巨大な蛸の怪物が張り付いていた」
「うわーーーーーーーーーーーーーーっ」
いきなり大きな悲鳴と、次の瞬間には、ドタバタと遠ざかっていく足音が聞こえて、一堂はハッと息を呑んで振り返る。
振り返ったレストランの入り口には、血相を変えて飛び出してゆくウマールの大きな後姿と、呆然とそれを見送るウェイターの姿があった。
「アイツもまだまだ子供だな」
「・・・っていうか、怖がるか普通、今の話で?」
ウマールの反応に気を良くした五箇山と、後輩を怯えさせて嬉々としている親友に呆れ顔の首里伝鬼房(しゅり でんきぼう)が、仲良くパプリカのかかりすぎた蛸に手を伸ばした。
二切れだけ残っていたプルポ・デ・ガジェゴの皿がようやく片付いて、ウェイターが、すかさず食器を下げに来る。
「あれ、アイツ、携帯忘れて行った・・・・・・っていうか、これって」
先ほどウマールが熱心に何かをしていたオレンジ色の携帯電話を取り上げて、平等院が言った。
開けられたままの液晶画面に気がつくなり、その顔が見る見る赤くなって、口元が緩みだす。
同じテーブルに座っていたフランコとフローレスが興味を示し、身を乗り出して平等院の手元を覗き込んでいた。
何が写しだされているのだろうか?
「クソ、よく見るとアイツ、俺と同じ機種じゃねえか」
色こそ違うが、ウマールより1週間早く、発売と同時に最新機種を手にしていた五箇山が、忌々しそうに呟く。
「携帯ぐらいべつにいいじゃないか、大人げない・・・・・・。っていうか、アンタもこんなところに置いてると、忘れていくよ、ホラ」
バー・カウンターに放置されている青い携帯電話をとって五箇山に渡してやると、何事につけ負けず嫌いの彼は、礼も言わずに俺、白川兼陳(しらかわ かねのぶ)の手からそれを受け取り、当然のようにそのままジャケットのポケットへしまった。
しまったはいいが、5分後にはそのジャケットを、やはりバー・カウンターに脱ぎ捨てて、トイレへ消えていた。
マナーもそうだが、あまり管理能力があるとも思えない。
一方、平等院たちを見ると、未だにウマールの携帯電話を手にしたまま盛り上がっている。
その盛り上がり方が、どうもいやらしい・・・・・・。
同じく気になっていたらしい那智泰綱(なち やすつな)と二人で輪に近づくと、平等院が慌てて携帯をパタンと閉じ、さらに不自然な愛想笑いで振り返ってきた。
勝手にメールでも読んでいるのかと心配したが、どうやら何かの画像を見ていたらしいことが判った。
「お前らもヒトの携帯電話なんだから、あんまり勝手に触るなよ」
「大丈夫っす、判ってますから・・・・・・」
ニヤけた笑顔でそう言われても、まったく説得力が感じられない。
フランコは恥ずかしそうに下を向いてしまうし、フローレスはといえば、なぜか蒼白な顔をして那智を見つめている・・・・・・。
怪しい・・・・・・怪しすぎる。
「ほどほどにしとけよ」
しかし見せろというわけにもいかず、とりあえずそう言うと、俺たちは顔を見合わせて、首をかしげながらその場を後にした。
立ち去り際、後輩たちが「今のうちに転送しろ」だの、「俺にもよこせ」だの言っている声が気になったが、あまり深いことは考えないようにした。
おおかたエッチな写真でも見ていたのだろう。
となると、そんな画像を開いたままレストランを飛び出したウマールも、自業自得だ。

 

随分長居をしたレストランから、ウェイターに追い立てられるようにしてその場をあとにした俺たちは、各自の部屋へと散っていった。
同室の五箇山がトイレから出てくるのを待って、俺はロビーのソファに座り、もう少し下に残ることにする。
部屋の鍵は、とても五箇山には任せられないから俺が持っているものの、なんとなく先に帰ってしまうのは可哀想な気がした。
そこへ同じくトイレへ入っていた那智がやってきた。
「五箇山と首里が先に帰っていろだってさ・・・・・・・まったくやんなっちゃう」
彼は首里と同室だ。
「どうしたんだ?」
「俺がトイレから出て行くと、外ですごい顔した五箇山が立っててさ、『これからウマールを締めに行くから、白川に先に帰ってろと伝えてくれ』って言われて・・・・・・。後ろを見ると、ウマールの携帯を握り締めた平等院が、真っ赤な目をして、『白川先輩には黙っていて』とか泣き叫んでて、一緒に盛り上がっていたはずのフランコも、震えながら側に立ってて、例によってフローレスは首里と喧嘩してるし・・・・・・じゃあ、いつ帰るのかって五箇山に聞いたら今度は、『ロッカールームで無闇に裸を見せるなと白川に言っとけ』だってさ」
「ほう」
「僕らだけ仲間外れなんてひどいよね」
そう言ったきり、那智は細い顔をプゥとふくらませて、先に行ってしまった。
問題はそこなじゃないだろ?
「なるほど」
だが、情報解析能力が決定的に欠ける那智に伝言を託した五箇山の人選ミスだけは、俺にもよくわかった。
いろいろと疑問は残るものの、那智をこれ以上追及してもしかたが無いから、五箇山に言われたとおり、俺も先に帰っておくことにする。
それにしてもロッカー・ルームで脱ぐなと言われては。
じゃあどこで着替えたら良いというのだ。
その後小一時間ほど経って、ようやく五箇山から電話がかかってきた。
どこにカシを変えたのやら。
後ろで随分盛り上がっているらしい声の中から、俺は首里とフローレス、平等院のものを聞き分ける。
ウマールやフランコたちは、もう解放してあげたのだろうか? 
とにかく呆れて電話を切ろうとすると、
「後輩たちにあまり肌を見せるな」と、また言われた。
そこでようやく、ウマールが持っていた画像というものが気になった。
一体何が写っていたのだろう・・・・?

 

電話を切って、テレビをつけると、くだらないパニック映画をやっていた。
大きめのソファにのぼり、引き寄せた両膝に顎をのせながら、ぼんやりとする。
薄明るい間接照明の下、二つ並んだベッドのひとつが、寂しく主を待っている気がした。
安っぽい映像の中では、原子力潜水艦が巨大な蛸に襲われようとしている。
悪趣味な内容に嫌気が差して、テレビを消した。
シンとした空気に、窓を叩く雨音だけが、鳴り響いている。
突然部屋の電話が鳴って、俺はドキリと心臓を大きく鳴らした。
いつのまにか、ウトウトとしていたようだ。
「・・・・・はい、もしもし」
『私だが』
監督?
『五箇山はいるかね?』
「いえ、まだ・・・・・・」
『そうか、弱ったな』
「どうかしたんですか?」
『ちょっと忘れ物を預かっていてね・・・・・・携帯電話なんだが』
俺は先ほどのレストランにおける、彼の行動を思い出した。
「今からとりに行きます」
そう言って部屋を出る。

 

同じフロアにあるセルヒオ・ハートマン監督の部屋へ入ると、ジャケットを脱ぎ、寛いだシャツ姿になった彼が、俺を出迎えてくれた。
「すまないね」
やわらかい照明が灯った部屋は暖かさが感じられたが、テレビは先ほどのパニック映画を映していた。
だが机の上には、アダプターを接続したノート・パソコンが開かれていて、手元にさまざまな資料が散らばっている。
今まで仕事をしていたのだろう。
音の消されたテレビでは、相変わらず蛸の化け物が海の上で暴れている。
「ミーティングが終わってバルを出ると、フロントで呼び止められてね。これを預かっているから、持ち主に返して欲しいと頼まれた」
監督が折りたたみ式の青い携帯電話を差し出してくる。
「ひょっとして、レストランに忘れられていたと言っていませんでしたか?」
苦笑しながら尋ねた。
「だったらまだ、彼らも持ち主の見当がついたんだろうが、生憎トイレの洗面台に置かれていたようでね。後から入った掃除係がフロントへ預けに来たらしい。彼らも持ち主が特定できずに困っていたと言っていた」
「・・・・そうだったんですか。仕方がないなぁ」
呆れながら携帯電話を受け取る。
いいかげんにあの忘れ癖を何とかさせないと、いつか大変なことになるかもしれない。
「君から返しておいてくれるかい?」
「ええ、ちゃんと叱っておきます」
そう言って携帯電話を受け取ろうとした瞬間・・・・・・。
突然おそろしい轟音が部屋を襲い、同時に辺り一帯が暗闇に包まれた。
激しい雨がガラス窓を叩き続けるすぐ外へ、この世のものではない何かが近づいているような、ただならぬ気配を感じる。
「嫌っ・・・・・・・・・」
このままでは、呑み込まれる!!!
「大丈夫かね?」
不意に間近で声を掛けられて、俺は自分がとった行動に驚かされた。
同時に得体の知れない恐怖が、意識からすっと遠のいていくのが判った。
「あ、すいません」
無我夢中の余り、殆ど無意識に抱きついていた監督から慌てて身を退くと、今度は急激な羞恥心に襲われる。
恥ずかしさで俺は顔をあげることができず、すぐに下を向いた。
「いや、かまわないよ。・・・・・・しかし、雷が苦手だとは知らなかった」
監督が笑っているのが判った。
「・・・・そういうわけじゃないんですが。すいません、男の癖にカッコ悪いですよね」
肩のあたりがジンワリと暖かい。
俺がしがみついていたとき、監督が肩を抱いてくれていたのだろうか?
「君らしくていい」
「僕らしい?」
雷なんかを怖がることが? 
これにはさすがにムッとして、少しだけ監督を睨み付ける。
けれど、暗闇の中では、殆ど顔など判らないに等しい。
「いや、誤解させたとしたらすまない。ただ、ちょっとばかり可愛らしく思えたものでね。そんな君を見るのも、…その、結構いいかと」
彼が少し動く気配が感じられた。
「監督?」
首筋にそっと手を添えられる・・・・・・プラチナのネックレスだ。
「つけてくれているんだね」
「どうして判ったんですか?」
見えない暗がりの中、GジャンとTシャツの襟をより分けて、首筋へ直に這わせる指の感触だけが、やけに鮮明に感じられた。
少しくすぐったくて、俺はたまらず身を捩った。
「君が抱きついてきたときに光って見えた。君が嫌いな雷のお陰でね」
なのに、監督はなかなか手を放してくれない。
なんだか揶揄われているような気がした。
「なかなか点きませんね」
俺は自分の気を逸らそうと、話題を変えてみた。
そして少し距離をとろうとして、失敗する。
「不安かね?」
退けない理由がすぐに判った。
「監督・・・・・・」
いつのまにか腰に回っていた手が、有無を言わさぬ力で俺を固定していた。
「兼陳」
下の名前で呼ばれた。
「あの……」
首筋に触れていた監督の手が、徐々に下へとおりてゆく。
同時に腰が引き寄せられ、あっというまに俺は、監督の腕の中へと戻されていた。
外では再び白い閃光が夜空を切り裂き、破壊するような凄まじい雷の音が、何度も壁を震わせる。
俺は突き動かされるように彼の体へ腕を伸ばし、ギュッとシャツの背中を握り締めて、広い肩口に顔を押しつける。
すると俺を抱きしめてくれている腕に力が籠るのが判った
「大丈夫だから」
至近距離からそう聞こえた次の瞬間、首筋を唇が掠めたような気がした。
体の中心にゾクリとした感覚が走る・・・・・・足が震えた。
「怖いかね?」
違う。
「ええ少し・・・・・・」
恐怖じゃない。
俺を襲っているのは、官能だ。
「私も一緒だよ」
再び首筋にキスをされる。
今度はしっかりと判った。
濡れた音が、徐々にはっきりと聞こえはじめる。
もう逃げることなんて、できなかった。
完全に監督へと体重を預け、気がつけば布越しではなくなっている掌の感触を腰の上あたりに感じていた。
じんわりと体温があがってゆくのは、監督か、それとも自分の方なのか。
まさぐられる感触が徐々に前へと場所を変え、腹から胸へと愛撫を受ける。
頭の芯がぼうっとなった。
ああ、・・・・・このままどうにかなってしまうのだろうか。
「監督」
首筋から頬へと上がり、瞼のあたりを掠めて、また頬へと移動する柔らかな唇の感触。
徐々に性急さを増すようなその口づけを、今度こそ己の唇で受け止めようと顔を上げかけた瞬間・・・・・・
「おや」
まともに監督と目が合った。
「わ・・・・・・・っ、すいません」
慌てて身を引いた。
なんて事を・・・・・・・・。恥ずかしくて顔が見られない。
すっかり明かりが戻った部屋の中で、監督の足元辺りに視線をおろす。
レストランへ現れたときと同じ、スラックスと革靴のままの、見慣れた二つの足が、しっかりとこちらを向いた状態で、そこに立っていた。
彼の上半身が動く気配もない。
おそらくまだ、自分へ顔を向けたままなのだろう。
何か言わねばと思い、俺は視線を巡らせ、机の上で目を止める。
「パソコン・・・・・・」
「ああ、どうやらファイルが御陀仏だな」
監督が暢気に言いながら、机へ戻った。
「また一からデータをまとめ直さないといけない」
真っ暗な画面しか写していないノートパソコンをパタリと閉じると、忌々しげにACアダプターをひき抜いた。
ホテルへ戻った瞬間から、徐々に纏められたはずの、今日の試合データ。
一瞬の天災で、すべてが水の泡だ。
「よろしかったら、手伝いましょうか?」
「いや、かまわんよ。今日はもう休むことにしよう」
そう言ってこちらを振り返った清清しい笑顔は、すっかりいつもの通りのハートマン監督だった。
「君も早く部屋へ戻りたまえ」
「はい」
促されて部屋を後にした俺は、安心したような、少しガッカリしたような・・・・・・・・。
ジーンズの後ろポケットに突っ込まれた青い携帯電話に手を当てる。
きっと、これでよかったのだろう。
そして思い出した。
「・・・・・・しまった」
その奥に突っ込んだカードキーに気がついて、俺は慌てて部屋へ駆け戻った。

 

「てめえ、いい加減にしろよ」
「悪かったよ」
急いで部屋まで戻ると、いつの間にかというか、当然というべきか、とっくに帰ってきていたらしい五箇山が、不貞腐れたようにドアの前で三角座りをして待っていた。
据わった目で睨みながら俺を出迎える。
かなり嫌味ったらしく見えたポーズは、そう感じる俺の心が歪んでいるせいではないだろう。
「ったくどこ行ってたんだよ・・・・・・、っていうか、出て行くなら出て行くで、鍵ぐらいフロントへ預けて行けよな?」
「そんなに長居するつもりじゃなかったんだよ・・・・・・」
「長居って、一体どこで何をしていたんだお前は?」
「いや、・・・・・・それは」
マズイ、どうやって誤魔化そう。
「言えないのか?」
「・・・・・・監督に呼ばれて、・・・・・・そうだよ、監督がフロントからアンタの携帯電話を預かっているって言うから、それを受け取りに行って、そしたら近所で落雷でもあったのか、電気が消えて・・・・・・」
ゴニョゴニョと口ごもりながら、ポケットから携帯電話を取り出すと、あっというまに奪われた。
「そうだよ、停電に遭ったんだよ、俺は! 非常灯だけがぼんやりと浮かぶ真っ暗な廊下で、部屋にも入れずジッとこんなところで待っていることが、どんなに心細いか、お前に想像できるのか?」
「だから悪かったってば、反省してる・・・・・・」
俺はもう一度ジーンズの後ろポケットへ手を突っ込み、今度は取り出しやすくなったカードキーを摘みあげて、それをドアの差込にスライドさせる。
相変わらず隣では五箇山が、お前は何もわかっていないだの、非常識だのとまくし立てていたが、それに適当に相槌を返してひたすら俺は謝った。
謝りつつ、大の大人が暗闇が怖いという主張の下で誰かを責めることができる、五箇山の素直さがうらやましいとちょっと思っていた。
しかしそもそも事の発端は、彼が携帯電話をトイレに忘れて、首里たちと飲みなおしに行ったせいじゃないのか、と思ったが、ソレを突っ込むのは止めにしておいた。
探られてマズイ話があるのは、お互い様だろう。
部屋へ入ってからもまだグチグチと文句を言いつつ、それでもテキパキと荷物を片付け始める、五箇山の効率のよさに感心しながら、俺はいつしか、ソファの上で眠りに落ちていた。
夢うつつの状態で、唸りを上げるガリシアの海と空を見上げ、そこに俺ははっきりと巨大な蛸の化け物を見たような気がした。
そして俺は、実は最初からずっとここにいて、監督の部屋で起きたちょっとエロティックなあのひとときこそが、海の向こうに消えた船乗りと、蛸の化け物が見せた、俺の妄想の産物だったんじゃないのかと、考え始めていた。

 


End



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