『橙金剛石』 窓から差し込む光を受けて、オレンジ・ダイアモンドはきらきらと眩しく輝いていた。 正午を少し回ったバルは、そこそこ賑わっていたが、まだそれほどピークというわけではなかった。 「それはカンチガイするよ、普通」 翌日、午前中の練習を終えた後で、イスタンブール行きの召集メンバーが発表された。 ビクトールから背中を押されるようにして、白川がドレッシング・ルームの近くまで来ると、ちょうどセルヒオ・ハートマンがドアを閉めて出て行きかけていた。 まだ殆どの選手たちが残っているドレッシング・ルームは、半分以上のロッカーが開きっぱなしになっており、多くの選手が着替えをしたり、携帯電話で家族や恋人と、食事の約束をしたりしていた。 深夜の来訪者がどのような意味を持つのか、そこまで白川は考えていなかった。
「手にとって見てください・・・・・・どうです?」
宝石商曰く、1.5カラットという大粒の石が埋め込まれたゴールドのネックレスは、しっかりとした量感を持って、白川兼陳(しらかわ かねのぶ)の掌に乗せられた。
ラウンド・ブリリアント・カットを施されたオレンジ色の石が、さまざまな色の光を放っている。
「これはファンシー・ダイアモンドといって、とても希少性の高い物なんですよ」
「へぇ・・・・・・、奇麗ですね」
「そうでしょう? 一般にダイアモンドは無色透明ほど値打ちがあると思われていますが、ごく稀に赤、青、ピンク、オレンジ、黄色、変わったところでは黒など、はっきりとした色を持った石が、鉱山から発見されることがあります。キンバリー岩に含まれる窒素との化学変化で、カラフルな色を持ったそれらは、ファンシー・ダイアモンドと呼ばれていて、小さなものでも、無色透明のダイアモンドに比べて、5〜10倍の価格で取引をされるんです」
「そうなんだ」
ファンシー・ダイアモンド・・・・・・。
名前の可愛らしさと、目の前の高価そうな石とが不釣合いで興味深く、白川はまじまじと石を見つめた。
キメの細かい14金のチェーンにぶら下がって、濃いオレンジ色の宝石が、誘いかけるように揺れ動く。
屈折した光の放射に、白川は軽く眩暈を覚えた。
「これまでファンシー・ダイアモンドの中では、もっとも色の出にくい赤が高価とされていたんですが、ボクワナにある世界的に有名なオラパ鉱山から発掘されるオレンジ・ダイアモンドは、そのあまりの色の美しさから、レッド・ダイアモンドより値打ちが高いと言われており、取引所によっては最も高値で売買されている場合もあります。それが、このダイアモンドです」
さりげなく男が、ネックレスを持つ白川に手を重ねる。
「また、原産国のボクワナでは、昔からオレンジ・ダイアモンドが結婚の儀式に使われているんですよ」
「結婚の?」
「そう。神官が被る冠に、必ずこのオレンジ・ダイアモンドが入っているんです。そこからこの石は、『誓いの石』、『運命の石』とも呼ばれて、開運、良縁、恋愛成就の守護石として広く知れ渡っているんです」
「誓いの石・・・・・・」
白川はぼんやりと、その言葉を繰り返した。
男が白川の掌をゆっくりと上へ返し、チェーンからぶら下がっていた石を、再びその中へ収めた。
「市場に出回っているダイアモンドの大半が、現在、デ・ギアス社を通じてその価格をコントロールされていますが、わが社は特別なルートを使って、直接、鉱山のある現地から原石を入手しているため、このような値段でお客様にご提供が出来るというわけです。もちろん、研磨・加工はイスラエルにある一流の業者へオーダーしております。普通なら、この5倍はしますよ」
「誓いの・・・・・・石」
白川は、先ほど男が話してくれたロマンティックな伝説を心に思い浮かべながら、どこか崇高な響きを持つその言葉を繰り返す。
落ちた・・・・・・。
男は確信した。
日頃は、営業車両のステアリングを握っている、日に焼けた男の両手が、白川の白くしなやかな手を包み、しっかりとその掌に宝石を握らせた。
「決めましょう、セニョー・・・・・・」
最後まで言い切らないうちに、男が白川の視界から消えた。
「何がセニョ〜だ」
「痛・・・・・・たた。何をするんですか、あなたは?」
今の今まで、テーブル越しに手を握り締めて、甘ったるい声を出しながら、白川を口説き落とそうとしていた宝石商は、フリー・キック練習を終えて戻ってきた五箇山宗冬(ごかやま むねふゆ)に、椅子の足をタックルされて、無様に床へ転がっていた。
「お前こそ、何処から忍び込んだ。ここは部外者立ち入り禁止だぞ」
まだ、シャワーも浴びていないらしい五箇山は、練習着のまま腰に両手を当てて、男の頭の上から、仁王立ちしながら睨みつけている。
男は漸く立ち上がると、スーツの乱れをポンポンと直し、几帳面に椅子まで元通りにしていた。
「何処って、正面玄関に決まっているでしょう?」
「嘘吐け。クラブ・ハウスの玄関には、守衛が立っているんだぞ。お前みたいな怪しい人間が、スルスルと出入り出来るわけないだろう」
「守衛? そんなモンどこにもいませんでしたけど?」
スルスルと入って来たらしい宝石商が、やはり床に払い落とされていたアタッシュ・ケースから、書類を取り出しながらそう言った。
「またか、あのクソおやじ・・・・・・」
吐き捨てるように言って、五箇山が顔を顰める。
ここの守衛は、選手が出入りする時以外、殆ど仕事をしないことが問題だ。
監視カメラが回っているというのが、本人の言い分なのだが。
「それでセニョール、これが売買契約書なんですが・・・・・・、あ、ちょっと、アンタ何するん・・・・・・」
「いつまでいるんだ、さっさと出て行け!」
宝石商の首元が鷲掴みにされて、カフェテリアの外まで引き摺り出された。
「あ、あたしのアタッシュ・ケース・・・・・・」
「わかった、今渡してやる、・・・・・・ホラ。それから二度と、ここへは入って来るな! この次、見つけたら、そのまま警察に突き出してやるからな! よく覚えとけ!」
五箇山の剣幕に恐れをなして、男が悲鳴を上げながら走って行くのが聞こえた。
「あっ・・・・・・」
「オイ、これも持って帰れ!」
まだ握られたままになっていたネックレスが、白川の手から奪い取られ、五箇山が勢いよく廊下に向かって放り投げた。
オレンジ・ダイアモンドは床に叩きつけられ、衝撃でそこら中に、透き通った破片が飛び散った・・・・・・。
白川と五箇山はカウンターの端にある席へ並んで腰を下ろし、中で顔見知りの店主が忙しく動き回る様子を、眺めていた。
「そんな話、一体どうしたら信じられるんだ・・・・・・」
泡の消えたビール・グラスを傾けながら、五箇山が言う。
顔に「心底呆れた」と書いてある。
「俺だって、半分は疑っていたさ。でも、あの宝石商が、あまり上手いこと言うからさ・・・・・・」
「手握ってか?」
「ネックレスを握らされていただけだ。別に、俺の手を握っていたわけじゃない」
「ふうん・・・・・・、まあ、どっちでもいいけどな」
少しカチンと頭に来ながら、白川は話を続けた。
「とにかく、宝石は確かに奇麗かったし、守護石っていうのも、いかにも本当っぽかったし・・・・・・」
「誓いの石ってやつか? 俺には仮に、本当にそんな伝説があったとしても、それ自体がただの御伽話に聞こえるんだけどな。挙句の果てに宝石はガラス玉と来たら、それこそ笑止千万ものだ」
隣のリアリストが、フンと鼻で笑った。
「バカにすればいいよ。でも、そういうものに縋りたい時って、誰にでもあるだろう?」
ふと笑いが消えた。
それは白川が、石の美しさや市場価値に魅入られたわけではなく、それが持つ神秘性に心惹かれたことを意味していた。
隣の席で頬杖をついて、ドリンク・メニューをしげしげと眺めては、溜息などを吐いている白川の横顔が、とてもせつなそうに見えた。
嘘っぽい作り話に縋ってまで、叶えたい願い事とは、一体何なのか?
「・・・・・・お前さ、あのときなんでビクトールと一緒に行ったんだ?」
唐突な話題転換だった。
驚いて白川が隣を振り返ると、五箇山が怖い顔で目の前のグラスを睨みつけながら、白川の返事を待っていた。
「あの時って・・・・・・、ひょっとして、モンジュイックへ行く前のこと、言っているの・・・・・・?」
それはペリコ戦の為に、グエルへ移動する日の朝、迎えに来た五箇山が、白川の家の前でビクトール・トーレスと鉢合わせた時のことを指していた。
ビクトールは最初の約束どおり、白川を家まで迎えに来ていたのだ。
「俺はお前が、アイツを選ぶとは思わなかったよ」
そのことでプライドを傷つけられたらしい五箇山は、その後チーム・バスの中でも、グエルへ着いてからも、戻って来てからも、今日まで殆ど白川と口を聞いていなかった。
それだけに、先ほどクラブ・ハウスで悪徳宝石商から助けてくれたことが、白川にとってはかなり意外だった。
「別にビクトールを選んだってわけじゃないよ。あのとき彼にこっちが先約だって言われて、確かにその通りだと思ったから・・・・・・」
「だから、そういうことじゃないだろう?」
五箇山が苛々したように振り返って、声を荒げた。
「お前さ、俺のこと、一体どう思っているわけ?」
「どうって・・・・・・」
間近に正面から顔を捉えられて、白川は答えに窮した。
仲間だ・・・・・・。
そう即答するには、大きすぎる現実があった。
“教えてやるか、バ〜カ”
「ハッ・・・・・・、そうか。もういい」
突然、苦笑混じりに大きく息を吐くと、五箇山がそのまま席を立った。
「ちょっと、五箇山・・・・・・」
「お前の気持ちは良くわかったよ」
振り返らずに五箇山は言って、そのまま店から出て行ってしまった。
不意にバラバラとガラスを叩く音に気がついて、白川は側の窓枠に手を当てる。
「土砂降りだ・・・・・・」
空は黒い雨雲に覆われていて、チューファにしては珍しい、悪天に街が包まれていた。
店内は混雑のピークに達しており、カウンターの端の席で、白川はじっと目的の人物を待ちながら、グラスに残された水を呷っていた。
急な入り口のざわめきを耳にして、ようやく待ち人の来訪を知る。
「遅くなって悪かったな」
カウンターに立ってビールを飲んでいた男が突然振り返り、「まだまだ2位だ、気にすんなよ」と励ます声に、適当に手を振って「グラシアス」と返しながら、ビクトールはまっすぐ小走りに、白川の元へやって来た。
「こんな天気なのにごめんね、呼び出したりして・・・・・・」
「それより、置いて行かれたって、どういうことだよ?」
話している間にも、どんどん人が押し寄せて、ゆっくり会話が出来る状態ではなくなってきた。
「ここじゃ、なんだから・・・・・・、ビクトール、悪いけど送ってくれる?」
「ああ、そりゃいいけど」
店主に詫びて、すっかりピークを迎えたバルを後にした二人は、車でその場から移動した。
ちょっと、不味かったかな・・・・・・。
呼び出しておいて今さらなのだが、黙ってステアリングを握るビクトールの横顔を見つめつつ、白川は少しだけ後悔を感じていた。
ビクトールが自分に気があるなどと、白川は本気で思っていないが、どういうわけか自分とビクトールの関係を妙に誤解しているらしい五箇山と、あのような形で別れておいて、その上でビクトールを呼び出して送ってもらうなど、自分の軽率さに少しは呆れなくもない。
もっとも、どういう根拠があって、五箇山がそのような誤解をしているのかはわからないし、そのことでこれまで仲良くやってきたビクトールを、一時的にであれ、避けるのは、白川の本意ではないのだが。
「そう見つめるなよ」
前方を見ているとばかり思っていたビクトールが、突然、苦笑しながら言った。
「あ、・・・・・・・ごめん、気が散った?」
「まあな」
ビクトールと笑いあう。
大きな瞳の周りが、ほんのりと色づいて奇麗だった。
白川は一瞬視線を逸らして、前方の薄暗い景色を見つめると、すぐに俯いて自分のジャケットやジーンズの生地に目を落とした。
店を出てからほんの少しの間に、ずぶ濡れになったと思っていた服は、いつの間にか乾いて、水滴の後がすっかり消えていた。
良く見ると、フロント・グラスを拭いていたはずのワイパーも、今は動きを止めている。
会話が途絶えたミニ・クーパーの内側では、カー・レイディオから流れる、グレイト・ホワイトの"Once Bitten Twice Shy"だけが、軽快に空気を和ませていた。
「さっきの話だけど、お前、五箇山に置いて行かれたって、一体どういうことなんだ?」
ビクトールが神妙な顔をして、ふたたび口を開いた。
自分が不用意に電話で言った言葉が原因で、いらない心配をさせてしまったらしい。
白川は笑顔を作ると、なるべく明るい声で返事をした。
「ああ、そんな大したことじゃないんだよ。・・・・・・それより、こっちこそ呼び出したりして悪かったね。ひょっとして、もう家に着いていたんじゃないのか?」
「・・・・・・いや、まだ練習場にいたから、別にいいさ」
「そうなんだ・・・・・・、って、随分遅いんだな。どっか怪我でもしたのか?」
「そういうわけじゃないけど、なんか警察が聞き込みに来ていてさ、クラブ・ハウスがえらい騒がしかったんだよ」
「警察?!」
聞き間違いかと思ったが、ビクトールは再び"Si, la policia"と繰り返すと、
「うん。よくわかんないけど、最近、怪しい手口でニセモノの宝石を売りつけて回っている男が、この辺をウロウロしているらしくてさ、良く似たヤツがクラブ・ハウスに入って行くのを、ファンが見かけて通報したらしいんだよ。お前、なんか気づかなかったか?」
「さあ・・・・・・。あ、雨止んだんだねえ」
白川はとぼけた。
上手く話題を逸らしたつもりが、とんだ薮蛇とは、このことだ。
「あ、本当。晴れてきたな。・・・・・・まあ、多分なんかの間違いだろうって皆で言っていたんだけどね。だいたい入り口には守衛も立っているし、監視カメラも回っているしな。・・・・・・とにかく、変なのがウロついているみたいだから、お互い気をつけような」
「そうだね。・・・・・・あ、ここで止めて」
白川は最近オープンした、新しいカフェを見つけて、ビクトールに言った。
「コーヒーぐらいご馳走させてよ」
歩道脇でミニ・クーパーがエンジンを止めて停車した。
上空はすっかり雨が止み、美しい茜色の夕焼けと、コバルト・ブルーの夜の気配が混ざりあって、嘘のようなピンク色の空を作り出していた。
シエスタが終わったチューファは、再び活気を取り戻し、洗い流された空気に、オレンジ色の街灯とイルミネーションが、鮮やかに街を彩っていた。
先に店へ入った白川が、手近なテーブルへ腰を下ろし、続いてビクトールが向かいの椅子を引く。
広々とした店内はそれほど込み合っておらず、静かに流れるBGMのバラードと、落とした照明が心地よかった。
すぐにやって来たウェイトレスへコーヒーを二つ注文すると、白川は改めてビクトールへ事情を説明させられた。
どうしても気になるらしい。
話を聞き終えたビクトールは、複雑な表情をしていた。
「本当は那智に迎えに来てもらうつもりだったんだよ。あいつなら方向も一緒だし。でも、誰かと一緒にいて、邪魔されたくないのか、電源切られちゃっていてさ・・・・・・」
大体の見当がついているらしい、ビクトールが苦笑した。
「それで俺に電話したってわけか・・・・・・」
「まあ、そういうとこかな。本当、ごめんね」
「いや、それは別にいいんだが・・・・・・、どうせなら、先に電話してほしかったかな」
「あ、ひょっとしてタイミング悪かった? トイレ入っていたとか・・・」
「そうじゃなくって・・・・・・、って何でトイレなんだよ? ・・・・・・そういうことじゃなくてさ、・・・・・・まったく、お前って本当にニブイんだな」
「なんだよそれ、いきなり」
「別にいいさ」
そう言ったきり、ビクトールがコーヒーを呷って席を立ってしまった。
「え、もう行くのか?」
白川も慌てて立ち上がる。
「お前はゆっくりしていればいいのに。・・・・・・どうせ近くなんだろ」
「だって一人でいても・・・・・・」
伝票を持って先にレジへ向かう。
約束どおり、ここは白川の奢りになった。
店先で自分を待っているビクトールを見る。
すっかり暗くなった空の下で、照明に照らされた横顔が、どこか思いつめているように見えた。
「悪いね、待っていてもらって」
外へ出ると、ビクトールが自分を確認して、誘導するように車に向かって歩き始めた。
「俺はここでいいよ? ・・・・・・もうすぐそこだし」
「いや、ついでだから。家まで送っていくから乗れよ」
そう言うビクトールの語調には、妙に抵抗しがたいものがあった。
白川はおとなしく反対側へ回ると、助手席へ乗り込み、シート・ベルトを締める。
カフェから白川の家までは、歩いても5分とかからない距離だ。
車は店の前を出発し、角を回って住宅街へ入ると、すぐに停まった。
ビクトールがエンジンを切る。
白川はシート・ベルトを外して、外へ出ようとした。
「ビクトール・・・・・・?」
いきなり手首を掴まれていた。
「お前って本当にニブイんだな」
「何の話?」
先ほどコーヒーを飲んでいたときと同じ言葉を、ビクトールはもう一度繰り返していた。
「俺には五箇山の気持ちが良くわかるよ。あれだけお前のことを思っているのに、この仕打ちじゃ、やっぱり気の毒だ。だからって、彼を援護はしないけどな・・・・・・、一応ライバルだし」
「それ、どういう意味・・・・・・」
白川は手を振り払おうとした。
しかし、軽く捕まれているだけと思った手首は、しっかりとした意志を持って握られており、簡単に放すつもはないようだった。
「判らないのか? じゃあ、こう言えば気づいてもらえるのかな。グエルへ行く日の朝、お前の家へ迎えに行ったとき、後からアイツが来ただろ? そのときお前が、アイツじゃなくて俺を選んでくれたこと、すごく嬉しかったよ」
「それはだって、お前が言ったんじゃん、こっちが先約だからって」
「ああ、判っている。多分、それ以外に理由はなかったんだとしてもさ。それでも、お前がもし、アイツのことを特別な存在だと考えていたとしたら、絶対に俺の車へ乗ったりはしなかっただろう? つまり、あくまで俺はアイツと同じレベルってわけだ」
「レベルって、・・・・・・だって五箇山もビクトールも俺にとっては同じ仲間で・・・・・・」
そう言いながら、どこかで本当にそうか? と白川は考えていた。
「今はまだ、同一線上に立っているわけだよな」
「同一線上?」
「そう。・・・・・・そして、これで一歩前進だ」
そう言うなり、ビクトールはグッと右手に力を込めて、白川の身体を引き寄せた。
そして覆い被さるように顔が近づいてきて。
・・・・・・キスされる!
思った瞬間、手が出ていた。
「・・・・・・ッ!」
気がつけば、頬を押さえて顔を背けているビクトールがいた。
「あ・・・・・・ビクトール、ごめん・・・・・・」
それほど強くは叩いていないはずなのに、ビクトールが頬を押さえたまま、じっとしていて動かない。
時間の流れが、妙に長く感じられた。
漸く頬から手を外し、そしてドライバーズシートへ背中を戻したビクトールが、苦笑しながら白川へ視線を戻した。
「・・・・・・いや、俺の方こそ悪かった」
電話の向こうで那智泰綱(なち やすつな)が言った。
時刻は深夜の午前2時33分。
あれから何度も電話をかけていたのだが、捕まえたのは今からほんの10分前。
明日も練習があるというのに、こんな時間まで、どこをほっつき歩いていたのやら・・・・・・。
連れまわしていたのであろう男が、我がチームの主将だと思うと、白川は軽く眩暈を覚えた。
自覚がなさ過ぎる。
「その気がなくても、あれ、俺のこと結構好きなのかな? って思うだろうし、お前に気があるヤツなら尚さら、その気になっちゃうだろうし・・・・・・」
「ちょっと待ってよ、だって車に乗っただけだよ?」
「向こうはそうは思っていないさ。白川が自分を選んだって事実に感動しているだろうし」
「なんでそうなるんだよ・・・・・・」
「それは、お前のことが好きだからに決まっているじゃん。実際ビクトールはそう言って来たんだろう?」
「いや、まあ・・・・・・、そうなんだけどさ」
そこまでは行きがかり上、話さざるを得なかった。
だが、何をされそうになったかまでは、さすがに言えなかった。
「だいたいさ、お前は自覚がなさすぎるんだよ」
「自覚って何の自覚だよ」
それを言うなら、お前を振り回しているあの骨抜き男の、キャプテンとしての自覚はどうするんだ?
「お前を見ていると、ときどき危なっかしくてハラハラするよ。むやみやたらに愛想を振りまかない方がいいと思うよ。誤解を招くだけだから」
「愛想って・・・・・・俺がいつ振りまいたって言うんだよ・・・・・・。それに何の誤解・・・・・・」
「お前にそのつもりがなくても、見る者が見たら、そう見えるってこと。現に今どういう状況になっているか言ってごらん?」
「いや、・・・・・・でもさ」
それはビクトールが特別なんであって、一般的な観点から言って、自分は、そんな目で同姓から見られるタイプだとは、思いたくなかった。
しかも、那智の口からそれに関して忠告を聞かされるとは、俺か世の中がどうかしている・・・・・・。
そういう誤解を招くのは、むしろ那智やパブロ・サエスや、フファビオ・ガルシアのような、中性的な・・・・・・。
「それより、お前これどう思う?」
白川があれこれ理屈をこねくり回して、反論を考えている間に、那智の興味は他へ移ってしまっていた。
聞いちゃいねぇ。
自分の話は、どうやらこれにて終了らしい・・・・・・。
白川は思わず、膝頭に顔を埋めた・・・・・・むなしくて。
「・・・・・・何が?」
「今日帰りに首里からネックレス貰ったんだけど・・・・・・」
食事して、イチャイチャして、家まで送り届けてもらって・・・・・・別れ際にバカキャプテンからプレゼントでも貰ったのだろう。
あのバカっぽい車の中で、真面目腐った顔で奇麗に包装された小箱を男に差し出している、我がキャプテンの間抜け面を想像して、白川は大きく溜息を吐いた。
ウチのキャプテン選出法って、やっぱり間違っているんじゃないだろうか。
「ねえ、白川聞いている?」
「うん、聞いている。ネックレス貰ったんだろう?」
「そう。それがね、見たこともない変わった石がトップに入っているんだよ。すごく濃いオレンジ色で、キラキラしていてキレイなんだけど、これって人工石かな?」
自分とビクトールは居残り。
五箇山と那智はトルコ行きだ。
怪我の為に大事をとって、やはりチューファへ残る首里伝鬼房(しゅり でんきぼう)が、那智を部屋の隅へ呼び寄せて、なにやらコソコソと話している。
ひっそりとやっているつもりだろうが、監督やコーチ陣以外の殆どの連中が、二人の不自然な挙動に気がついていた。
あたりに五箇山の姿がないことに気がついた白川は、慌てて部屋を出る。
もうドレッシング・ルームへ戻ったのかも知れない。
今日は1日、五箇山の機嫌が悪かった。
昨日、妙な宝石商に白川が騙されかけていたところを助けてくれて、帰りにバルで食事をして、そこでようやく仲直り出来たと思ったのに。
“俺のこと、一体どう思っているわけ?”
真面目くさった顔で、突然、投げつけられた直球の質問。
白川が返答に困っていると、五箇山は不意に機嫌を損ねて席を立ってしまった。
そこから彼は、また、口を聞いてくれない。
俺にどうしろって言うんだよ・・・・・・?
小走りに廊下の角を曲がる。
突然、向こうからやって来た影と、ぶつかりかけた。
「ご、ごめんなさい・・・・・・」
「うわっ、・・・・・・あ、白川?」
もう既に着替えを終わって、ざっくりとしたセーターとジーンズ姿になったビクトールが、そこに立っていた。
「ビクトール・・・・・・」
「ちょうど良かった。今、お前のこと呼びに行こうと思っていたんだ。監督が探していたぞ」
「え?」
監督が俺を・・・・・・。
「まだドレッシング・ルームのあたりにいるだろうから、急いで行ってみろよ。・・・・・・あ、やっぱりちょっと待った」
グラシアスとだけ言って走りかける白川の腕を取り、ビクトールが呼び止める。
昨日の帰りのことを思い出して、白川が一瞬、身構えた。
反応へ敏感に気がついて、ビクトールが苦笑をしながら、すぐに手を開放すると、
「・・・・・・昨日は悪かったよ、あんな真似をして」
「あ、いや」
「俺はどうやら焦るあまり、お前を随分困らせてしまったみたいだな。形ばかりに囚われて、ろくにお前の気持ちを考えていなかった」
「ビクトール・・・・・・」
「ホラ、やっぱりそんな顔をする」
「え? ・・・・・・ッテ」
言われた意味を計りかねて困惑していると、悪戯っぽく、鼻の頭を指で突かれた。
「戸惑っているお前も可愛いが、俺が見たいのはそんな顔じゃないんだ。・・・・・・でも、俺が本当に好きな顔をしているときのお前は、大抵側に別の男が立っている。残念ながらね。・・・・・・だから、昨日、俺が言ったことは忘れてくれるか?」
「・・・・・・・・・」
ビクトールが言った言葉に、白川の胸が高鳴った。
彼が見たいという顔を、一体、誰が白川にさせているというのだろう。
どんな表情を、その誰かの側で、白川はしているのだろう。
「ただしカンチガイしないで欲しいんだが、俺は別に、お前を諦めるって言っているわけじゃないんだ。いつかはお前を捕まえてみせる。だが、それは俺が、もっと自信をつけてからだ」
男としての自信、サッカー選手としての自信・・・・・・。
ビクトールは自分へ言い聞かせるように、静かに続けた。
「予言しといてやるよ。必ずいつか、お前の方から、俺に告白したくなるときが来るって・・・・・・。俺に張り手を食らわせたことを、後悔する日が来るってな」
そう語る大きな瞳には、すでに力強さが漲っていた。
「ホラ、早く行かないと、そろそろインタビューが始まっちまうぞ!」
「監督!」
少し手前から、白川が呼び止める。
こちらも既に着替えて、レザー・ジャケットに、黒いストライプが入った、グレイのコットン・シャツを着た監督が、立ち止まって白川を振り返った。
「ああ、君か・・・・・・」
柔らかな笑みを向けられて、自然と頬が染まっていくのを感じる。
「あの、ビクトールから聞いて・・・・・・、あなたが僕を探していらっしゃったと」
3メートルほど手前で足を止めると、白川は少し俯いた。
頬の赤さを悟られないように、長い前髪で、わざと顔を隠す。
「そうそう、実は君に渡したい物があって・・・・・・。兼陳、君はアクセサリーなんて身に着けたりするのかな?」
「アクセサリー?」
突拍子もないことを言われた気がして、白川は思わず顔を上げると、持っていたセカンド・バッグへ手を突っ込んだ監督が、中から小さな箱を取り出していた。
「ああ、ネックレスなんだが・・・・・」
白い箱をスライドさせて、紺色のジュエル・ケースが姿を現す。
「いやぁ・・・・・・、その、ネックレスは・・・・・・」
反射的に白川が答えていた。
・・・・・・が、予想に反して、監督が手にしていたのは、シンプルな銀色のチェーン・ネックレスだった。
「あまり、興味がないかね・・・・・・」
「いえ、そんなことないです。大好きです」
頭に浮かべた、ニヤついた宝石商の顔を、白川は慌てて打ち消した。
「おや、そうかい?」
一度はしまいかけたジュエル・ボックスをもう一度外に出す。
「実は夕べ、妻の妹がウチへ遊びに来ていたんだけどね。彼女が勤めているジュエリー会社の新作とやらを、いくつか持って来てくれていて、これを私にと贈ってくれたんだが、生憎こういうものを身に着ける習慣が、私にはどうもないものでね・・・・・・。ひょっとして、若い君なら、こんな物も使いこなせるんじゃないかと思って」
どうだろう?
そう言いながら、照れくさそうにハートマンがネックレスを差し出してきた。
丹念に編み込まれたプラチナの繊細なチェーンが、彼の指先で、キラキラと光を受けて、輝いていた。
「素敵です・・・・・・、とても」
「本当かい? 無理していないかね?」
「本当です」
先ほど白川が示した反応を気にして、ハートマンが何度も確認をしてきた。
白川は思わず苦笑した。
「本当ですって。・・・・・・その、戴けるんですよね? だったら、ぜひ、着けてみたいんですが」
ここであなたに見てもらいたい。
思いを隠して、なるべく平静を装い、白川が片手を差し出した。
すると・・・・・・。
「そうだね、私も見てみたい」
そう言って、ハートマンが白川の後ろへ回り、おもむろに彼の髪を掻きあげた。
一瞬のうちに、体中の血が逆流するのを感じた。
「少しの間、持っていてくれるかい?」
「え・・・・・・?」
何のことかと戸惑っていると、右手が取られて、後頭部の辺りで、まとめた自分の髪の束を持たされる。
「金具が絡まると、痛いだろうからね」
背中にハートマンの気配を感じていた。
剥き出しになった首筋に、ふと、彼の息遣いを感じた・・・・・・。
そう思った次の瞬間、首筋に滑らかな金属が巻きつけられて、あっという間に金具が止められる。
高潮した肌に、ひやりとした感触が心地よかった。
「悩ましいポーズをずっと見せてくれるのは嬉しいんだが、そろそろ手を下ろしても構わないよ」
「えっ、あ・・・・・・」
ハートマンに言われ、白川はそれこそ真っ赤になりながら手をおろし、髪を元通りに戻した。
すぐ横にならんだハートマンが、苦笑しながらこちらを見ている。
「あ、えと・・・・・・その、ありがとうございました。・・・・・・似合いますか?」
「もちろん」
練習着のままの首筋に、キメの細かい銀色のネックレスが、未だバラ色の名残を残したしなやかな首筋を、さらに美しく引き立てていた。
ジャージに隠された鎖骨の辺りに、光を反射させてキラキラと輝く鎖を、白川はそっと指先で辿ってみる。
襟の開いた服であれば、ハートマンをも誘惑出来たであろうか。
「兼陳」
突然名前を呼ばれて、白川は振り返る。
「実は例の食事の件なんだが・・・・・・、といっても、君は覚えていたかな?」
“トルコから帰ったあたり、一緒に食事でもどうだろう?”
グエルへ行く前の晩、ハートマンから誘いを受けていた件だった。
「もちろんです」
返事こそまだ保留にしてあるが、忘れるはずなどない。
「実は急な用事が入って、私の方が難しくなってしまった」
「そうだったんですか・・・・・・」
ここのところ、ハイメ・フェルナンデスの辞任騒動や、例によってパオロ・ムスカとの補強を巡る問題など、ハートマンの身辺は何かと忙しそうだった。
「勝手な言い分で申し訳ないのだが、食事の方は、また日を改めてということに、してもらえないだろうか」
「ええ、それはもちろん・・・・・・。でも、あなたの方こそいいんですか?」
こんな真似をされて、僕はまた、あなたに無理な期待をしてしまうかも知れない。
「私は君に、お礼をしたいだけだよ・・・・・・」
相変わらすそう言うハートマンからは、本音がなかなか見えてこなかった。
いや、もしくは、本当にそれ以上の意味など、ないのかもしれない。
「ここのところお疲れのようですから、どうか無理はなさらないでください」
「ありがとう」
そう言うと、ハートマンは記者たちが待っているプレス・ルームへと急いだ。
後姿が見えなくなるまで、白川はその場に立ち、やがてドレッシング・ルームのドアを開けた。
「監督の話、もう終わったの?」
不意に後ろから声をかけられて、白川はびっくりした。
こちらはどうやら着替えを終えたらしい那智が、ベンチにすわってスポーツ・バッグの中を整理しながら白川を見あげていた。
「どうして、お前それを・・・・・・」
「さっきカフェテリアでビクトールに聞かれたんだよ。監督が白川を探しているけど、知らないかって」
「なんだ・・・・・・」
白川はホッと胸を撫で下ろした。
一瞬、さきほどの現場を、那智ごときに押さえられたのかと思って、かなり焦ったのだ。
「あれ? ・・・・・・・お前こんなの着けていたか」
那智が立ち上がって、白川の胸元に顔を近づける。
「おい、止せって・・・・・・」
脱いだジャージを残したままになっている、白川の両腕を押さえ込み、ロッカーへ彼の背中を押しつけながら、素肌の胸へ那智が顔を近づけて、見慣れないネックレスを覗き込んでいる。
その光景は、なかなかエロティックで、周り中の視線を二人は集めていた。
家族へメールでも打っていたのであろうファビオ・ガルシアが、可愛らしい口をポカンと開けてこちらを見ている。
その隣で同じく二人を見ているカルロス・フローレスの目は、対照的に怖いぐらいの三角を作っていた。後ろに炎さえ背負って見える。
こんなところを万が一、我がキャプテンに見られたりしたら、俺、殺されるかも知れないな・・・・・・。
「わ〜、これってプラチナ? つうか、お前誰にもらったんだよ、こんなの!」
そんな心配など何処吹く風だ。
目の前の美人は、本人だけが気づかない天然ぶりを、これでもかと発揮している。
「い、いいから、離れろ・・・・・・、めちゃくちゃ見られているだろ」
まだ、細工がどうだの、いきなりこんな物を着けてきて、アヤシイだのと、ひとりで盛り上がっている那智を、そっと押し戻し、白川が正直に事情を話した。
「なんだ、監督の奥さんか〜・・・・・・、なるほど高そうなネックレスだと思ったら」
「いや、奥さんの妹さんなんだけど」
我ながら女々しいと思いつつも、そこはきっちり訂正させてもらった。
「でも、似合っているよ。・・・・・・うーん、なんかちゃんと見立てて買ったのかなって、思うぐらい。・・・・・・・ひょっとして、もともとお前に上げるつもりで、持って来たのかもな。実はおまえのファンだったりして!」
軽い冗談のつもりで言ったのだろうが、白川はこの言葉に少しだけドキドキしていた。
夫人の妹ぎみが、自分に合わせて監督の家へ持って来られたとは、さすがに思わない。
しかし、それを監督が自分に贈ってくれたというのは、やはり偶然じゃないのだろう。
いくつかあったという新作の中から、このネックレスを見て、自分を思い浮かべてくれたから・・・・・・。それぐらい自惚れてもいいだろうか?
「顔が赤い」
「嘘・・・・・・?」
指摘されて、白川は思わず両頬へ掌を当てた。
「嘘。・・・・・でもお前、ちょっと怪しいな。不倫なんていかんぞ」
「え?」
那智にバレてる?!
「その妹さんだって、たぶん結婚しているんだろう? 監督の奥さんのご家族だし、監督にも迷惑がかかる。それにたぶんお前より、すっごい年上なんじゃないのか? 別嬪とも限らんし」
「するわけないだろ!」
大体、最後の方は、大きなお世話だ。
・・・・・・っていうより、そっちか!
まあ、自分が監督本人と不倫に陥るよりは、まずはそちらを疑うよな、普通・・・・・・。
でも、もしも俺が、誰を好きなのか知ったら、那智はすごく驚くだろう。
そんなことを思い浮かべながら、白川はふと気がついた。
「あれ、その箱・・・・・・」
白川と軽口を叩きあいながら、バッグの中を整理していた那智は、指摘されて、ベージュのジュエル・ボックスを鞄から取り出した。
「ああ、これ? 首里から貰ったやつだよ。昨日電話で話しただろ?」
言われて思い出した。
例の悪徳宝石商が持っていた鞄に、同じ箱が幾つか並んでいた。
那智がそっと押し開けた蓋の下から、美しい大粒のオレンジ色が、眩いばかりの光を放って現れる。
ニセモノのオレンジ・ダイアモンド。
「お前こそ、それ着けないの?」
しかし、たとえニセモノだとしても、恋人から貰ったものなら、それだけで宝物である。
自分は仮に、このネックレスが、実はプラチナなんかじゃなく、なんとアルミだと言われても、一生大事にするだろう。
彼以上の人物が現れるまでは。
「それが実は、不具合が見つかったから返品するって、さっき首里に言われて・・・・・・」
困り顔で事情を話す那智の声を掻き消すように、ロッカー・ルームの端から、悲鳴が聞こえた。
「うわーーーーーーーっ!」
声の主は見なくても判っていたが、白川が振り向くと、案の定騒騒しいフローレスが、鞄の中身をぶちまけて、床に跪いており、その隣で耳を押さえながらファビオが顔を顰めて眺めていた。
「ど・・・・・・、どうしたの?」
同じく耳を押さえながら那智がノロノロと、そちらの方へ近づいていく。
白川もシャツへ腕だけ通すと、その後を追いかけた。
「何事だよカルロス、デカイ声出したりして・・・・・・。あ、何んだこりゃ〜・・・・・・・・・」
見るとスポーツ・バッグを広げたまま、半分ぐらい中身がなくなったペット・ボトルを片手に、フローレスが泣きそうな顔で、その場に座り込んでいた。
水びだしになった練習着や、サイフ、大学の教科書、ノート、携帯電話・・・・・・。
何もかもが、見事なオレンジ色に染まっていた。
「あ、このネックレス・・・・・・・・・」
オレンジの水溜りの中から、那智が見覚えのあるアクセサリーを摘み上げた。
そこへ、これまた、けたたましい声と共に、平等院武蔵(びょうどういん むさし)が入って来た。
「カルロス、大変だよ! アンタが昨日、ネックレスを買った宝石売りが、ついさっき詐欺で捕まったってニュースで・・・・・・・・・あ、あれ?」
オレンジ・ダイアモンドのネックレスが、那智の手から、滑り落ち、床の上でパリンと音を立てて砕け散った。
塗料の剥がれ落ちたガラスの破片が、真昼の陽光を受けてキラキラと光っていた。
「あれ、五箇山? ・・・・・・・ちょっと待っていてくれる、今開けるから」
インターホンを切って、白川はソファの上から白いセーターを取り上げると、パジャマ姿の頭や腕を通しながら、小走りに玄関へ向かった。
襟の開いたV字の胸元には、プラチナのネックレスがユラユラと揺れている。
ドアを開けると、そこに人はおらず、白川は闇へ目を凝らし、街灯から少し離れた場所で、ぼんやりとした人影を見つける。
「五箇山?」
影は声に反応を示した。
白川はそちらへ近づく。
「なんでそんなところに立っているの? ・・・・・・っていうより、どうしたんだよ、こんな時間に」
徐々に目が慣れてきた。
五箇山は乗ってきた車の前に立ち、家から出てくる白川をじっと見つめながら、待っているようだった。
・・・・・・少し困っているようにも見える。
「中に入ったらいいのに。ここ寒い・・・・・・、クシュッ」
暖かいチューファとはいえ、深夜はさすがに冷えた。
濡れたままの髪が、夜気に晒されて、冷たくなっていくのが判る。
ネックレスがひんやりと、首筋を刺激していた。
「お前・・・・・・、ひょっとして風呂上りか?」
ようやく五箇山の声が聞こえた。
言葉と共に、湿った髪へ手が差し込まれるのが判った。
「うん、でも大丈夫。セーター着ているから・・・・・・。それより、中に入ったらいいのに」
「いや、やめとく・・・・・・。すぐに帰るから構わないでくれ。少し話をしに来ただけだから」
「話?」
聞き返す白川に、五箇山は着ていたジャケットを脱いで、それを頭から被せてきた。
「しばらくそれ被ってろ」
「被ってって・・・・・・。ありがとう。で、話って何?」
「昨日は悪かったよ、置いて行ったりして・・・・・・」
ぶっきらぼうに五箇山が言った。
謝る態度とも思えない・・・・・・が、それが彼の精一杯ということは、白川にも判っていた。
「うん・・・・・・いいよ、別に」
白川は俯き加減に、ジャケットの両袖を胸の辺りでぎゅっと握り閉めて、下から見上げるように五箇山を、目線だけで見つめ返した。
五箇山が照れくさそうに顔を逸らす。
ジャケットの内側には、彼が日頃つけている、シトラス系のコロンの香りが残っていた。
こうしていると、まるで彼に、抱かれているような気さえする・・・・・・。
「お前こっちに残るんだよな」
顔を逸らしたまま五箇山が言った。
トゥルンバ戦のことだった。
「うん・・・・・・。五箇山はトルコに行くんだよね」
「ああ」
「頑張ってね」
「サンキュ・・・・・・」
「負けたらもう帰って来なくていいからね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・冗談だよ、そんな顔しないでよ」
「お前・・・・・・、それシャレにならんぞ」
「ハハハ、だからゴメンってば・・・・・・ちょっと、何するんだよ・・・」
「こうしてやる」
五箇山はジャケットの袖を白川から奪いとり、そのまま衣類で白川の首を締めあげた。
「やだ、苦しいって、・・・・・・やめてよ五箇山!」
「うるさいぞ」
もがく白川の腕を押さえつける振りをして、体を入れ替えると、五箇山はそのまま白川の背中を自分の車へ押し付けて、勢いで彼に体重をかけていた。
「・・・・・・五箇山?」
目が笑っていなかった。
ふと、自分の腕を掴んでいた力が緩められ、身体が軽くなる。
白川は車のドアから背中を離し、再び自分の足で地面に立った。
「このままじゃ、風邪を引くだろ。早く家ん中へ戻れ」
奪い取ったジャケットを、今度はちゃんと肩から掛け直してくれる声が早口で言った。
五箇山はそのまま、白川へ背を向けてしまう。
「・・・・・待ってよ、本当にそれだけでいいのかい? 何か他に言うことがあって来たんじゃ・・・・・・、クシュン!」
「ほら、本当に風邪ひくぞ。それ持って行っていいから、早くウチん中入れ。俺ももう帰るから・・・・・・退けって」
「押さないでよ・・・・・・。それより、本当に帰っちゃうのかい? ここまで来たんだから、ウチに上がっていったらいいじゃない・・・・・・」
白川が自分を押し退けて車へ入ろうとしている腕に、手をかけようとしたとき、
「?!」
突然、その手を強く払い除けられた。
「触るなバカ」
「五箇山・・・・・・?」
「・・・・・・いや、悪かった。でも、お前も男なら、・・・・・・少しは俺の事情を察しろよ」
五箇山は気まずそうに、顔を逸らしながら言い訳をした。
「お前の気持ちはありがたいが、今は迷惑でしかないんだ。・・・・・・つまり、これ以上お前と一緒にいると、俺は自分の理性に自信が持てないってことだよ」
「えっ・・・・・・?」
「言うことはそれだけだ。判ったらさっさと家に入って、その目の毒でしかない濡れた頭と、寒そうな格好何とかしろ。そんな姿のお前とじゃ、まともに話もする気になれん」
「・・・・・・・・・・」
「じゃあな、風邪ひくなよ」
それだけ素早く言うと、五箇山は本当に帰ってしまった。
「・・・・・・・・・・・・クシュン!」
いよいよ本当に風邪をひきそうな気がした白川は、五箇山が残していったジャケットへ腕を通し、暖かい我が家へと戻っていった。
end
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