「俺はとくに好き嫌いはないから、ファンラが食べたいものでいいよ。でも、ベトナム料理なんて、ちょっと面白そうだよね。トムヤムクンって一度食べてみたかったんだ。・・・ああ、でも辛いのはちょっと苦手かな・・・。ファンラは何がいい?」
「てめぇは・・・」
「ファンラ?」
俺は最初から、こいつに遊ばれていたんじゃないのか?
「タイ料理だ」
不必要に力を入れてドアハンドルに手をかけたまま、俺は行き場のない感情の高ぶりを、ぼちぼち持て余しはじめていた。
「タイ料理かぁ〜、それもいいね。・・・でも、この辺にタイ料理店ってあるの?」
フロントガラス越しに見える店の看板へ目を移しながら、イバンがアホ声でのたまう。
「・・・じゃなくて。トムヤムクンはタイ料理だ、ベトナム料理じゃない」
「ああ、そういうことか。勉強になったよ。ファンラは本当になんでもよく知ってるね」
てめぇに色々と常識が欠落しているだけだ!
「そもそもお前は、俺が食べたいもので良いと、さっき言ったな」
「え・・ああ、まあそうだけど・・・」
「その直後に、よく知りもしないベトナム料理へ興味を示し、なおかつトムヤムクンが食いたいと言い、おまけに辛い物は苦手ときたもんだ・・・・」
「ああ・・・それは、まあその・・・」
漸く俺がキレていることに気が付いたらしく、しかもその理由がまるで思い当たらないらしいイバンは、戸惑っているようだった。
「お前は実に我儘な野郎だな」
「えっ・・・」
「しかもその自覚がないから始末に負えない」
「それは・・・ごめんなさい。気をつけます・・・」
恐らく言われ慣れない言葉で非難を受けたのであろうイバンは、それでも素直に反省の色を見せた。
心当たりのない言いがかりに、あっさりと言いくるめられて謝るなんて、お人好しにも程がある。
こんなことではきっと、いつか悪い大人に利用されて酷い目に遭うのではないかと、人ごとながら心配になった。
まあ、目下八つ当たり中の俺が言うことでもないのだが。
少しだけ可哀相な気がしたが、残念ながらガラスのハートを傷つけられた俺の怒りは、こんなもので収まらないのであった。
「それとも俺をおちょくって楽しんでいるのか?」
何しろ俺はイバンにさんざん弄ばれたのだ。
徹底的に糾弾しなければ気が済まない。
「そんなつもりは・・・」
俺は身体の向きを反転させると、両の拳で思いっきりイバンの胸倉を掴んだ。
「だったら、なんで・・・っ」
そして勢いで言いかけた言葉を、危ないところで飲み込んだ。
だったらなぜ、デートしようなんて言った?
俺にキスするような素振りを何度も見せた?
正面切ってそんなこと・・・、言えるわけがない。
「ファンラ?」
イバンが目を丸くして俺の様子を伺っている。
言いがかりをつけられたうえに胸倉を掴まれているのに、動揺こそしているが、この男から怒りのオーラはまるで感じられない。
そして手を優しく重ねられ、再び間近に見つめられて、俺は慌てて顔を背けると、イバンの手を振り切ってドアハンドルへ指先を掛けた。
「さっさと行くぞ」
ドアを開けて、うっかりいつもの調子で外へ飛び出しそうになったが、咄嗟に怪我のことを思い出して、右脚を庇いながら慎重に地面へ靴を下ろす。
つまらない意地で危うく悪化させるところだった。
「ちょっと待って、ファンラ」
「えっ・・・ああ、おいっ!」
突然何かを思い出したらしい言葉とともにイバンに名前を呼ばれて、後ろからぐっと肘を引かれた。
「あぶなっ・・・」
「つっ・・・・!」
次の瞬間、右腿に激痛が走る。
「ファンラ!?」
重心を載せていた側の腕を引っ張られてバランスを崩し、太腿に突然負荷がかかって、強かに患部が刺激された。
「イバン、・・・から・・・手を・・・っ!」
痛いから手を放せ・・・と言いたかった俺は、負傷個所に痛みを感じる姿勢を避けるため、再び右足を車内へ引っ込め、そのままイバンの胸へ倒れ込むような形になった。
「ファンラ・・・」
顔をあげて、至近距離にいたイバンと目が合う。
さっきよりも、ずっと近かった。
また揶揄われるのが癪で、恥ずかしかったが、そのまま我慢をして彼の視線を受け止めていた。
自分の目に出来る限り、力を込めて。
するとイバンがクスリと笑う。
ほんのりとその頬が赤い。
「ごめんね、鈍感で。でも俺はあまり、こういうことに慣れてなくて・・・・なんだか、無神経で本当にごめん」
「へっ・・・?」
思わず間抜けな声を出してしまう
「恥をかかせるつもりなんて全然なくて・・・それに君にはナチョがいるし、まさか君がそんな風に思ってくれているなんて、想像もつかなくて。でも・・・いいんだよね?」
聞こえてくる音声情報の処理が、頭の中で追いつかない。
単語単位で区切って、脳内CPUをフル稼働させながら、猛スピードでひとつひとつを解析してみる。
同時進行で置かれている状況も検証した。
なぜ俺はイバンに抱き締められている?
なぜイバンは俺を見つめながら、顔を赤らめている?
なぜ俺達は、少しでも身じろいだらキスが出来そうなほど、距離が近い?
「・・・・・・・」
100分の1も疑問が解消されないまま、先に視界が塞がれようとしていた。
だが、訪れたそれは、あまりに一瞬の出来事で・・・。
「痛っだだっ・・・!」
「ファンラ!?」
再び太腿に激痛が走った俺は、そのままイバンの胸に凭れて右脚を抱えながらシートに蹲った。
「・・・っつぅ〜」
目の前がじんわりと、涙で滲んでいた。
「ものすごく痛そうだね・・・軽度の肉離れって聞いていたのに、まるで重症みたいに見えるよ」
「ああ、確かに軽度の筈だったんだがな・・・・」
変なタイミングで色気を出してきた誰かさんが、俺の全身を支えていた腕を、突然後ろからピンポイントで攻撃してくれたお陰で、俺の身体はバランスを崩し、傷が大きくなったのだろうと・・・・・わかっちゃいたが、優しい俺は口へ出せずにいた。
復帰が1週間程度伸びたかも知れないと、心密かに嘆きつつ。
「ちょっとだけ、じっとしててね」
そう告げるとイバンは先に車を降りて、小走りに助手席側へ回り、外から俺に手を差し伸べてくれた。
「悪いな」
俺はイバンの肩を借りて立ち上がると、若干痛みが強くなっていたものの、予感したほど症状が悪化していないらしいこともわかり、少し胸を撫で下ろした。
そして実は歩けないわけではなかったのだが、すっかり俺に責任を感じているらしいイバンに身勝手な仕返しをするつもりで、しばらくは彼に俺の右脚の代わりをさせてやろうと企んでいた。
一瞬だけ俺に触れてきた、あきれるほど鈍感で、艶やかな彼の唇を、眺めながら。

 

Fin.



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