『蠍学・改』 一旦は纏まった筈のニースとの交渉が、突然破談になったのは、まるで思いもかけない事故に巻き込まれたような不幸な出来事だった。 「聞いていなかったよ、もう一人いるなんてさ…」 「あれ?」 車は間もなく出発し、今度は道一つ間違えることもなく、15分後にはお目当てのビーチへ到着していた。 うわけか厳島と二人、波打ち際あたりに腰を下ろして、ぼんやりと沈み行く美しい夕日を眺めていたのだった。
この景色は、どこかで見たことがある。
そう、あれは今から1時間ほど前のことだ。
そのカーブをすぎると、ほらね。斜面が松林になっていて、反対側のガードレールの下には延々とオリーブ畑が広がっている。
「クソッ」
運転席に座った厳島景政(いつくしま かげまさ)が舌打ちをして、エスケープゾーンに車を寄せると、エンジンを止めた。
そして何度も見ていた地図を今一度広げる。
地図と言っても、それはホテルを出てくるとき、地元出身だと言った若いフロント係が、この街を代表する大きなクラブの、ドリンクチケット付き、入場料10パーセントOFFのおトクなフライヤーの裏に、ボールペンで殴り書きにした、曲線と文字しかない落書きのことである。
その曲線の先に「aqui(ここ)」と書いて丸で囲んである場所が、目的地のビーチがあるという場所らしい。
こんなもので何が判るのだろうと心配していたら、このザマだ。
「あのコ何歳ぐらいだろう? 夜は『GACHA』に行く気なんですか?」
助手席に座った石見由信(いわみ よしのぶ)が小さく尋ねる。
どうやらDJ志望らしいそのフロント係が、今夜はイビサ老舗のクラブ『GACHA』で回すらしいらしいのだ。
メインはこのフライヤーによると、イングランドの有名なDJがやって来るようなので、前座のそのまた前座、かなり早めの時間帯のことらしいのだが…、ようするに彼は今夜の宣伝がしたくて、俺たちへ親切にしてくれる振りをしていただけじゃないだろうか?
今更ながらにそのことに気が付き始めた厳島の眉間へ、だんだん深く皺が刻まれ出した。イライラとした調子で彼が言う。
「サンタ・エウラリアはこの辺なんだろう? イビサを出て2時間ぐらいになるから、もうかなり近くまで来ているはずだ…ってことは、」
「そのうち1時間ぐらいは、松林でグルグルしているじゃないか。まるで迷路だ」
俺は少々ウンザリしながら、斜面の林を見上げた。
「どこかで道を間違えているんだ。…この先で二股に分かれていた坂があっただろう、あそこを下るんじゃなくて上らないといけなかったんじゃないのか……?」
「あのコ、名前カルロスって言うらしいですよ。明日はオフだって言ってた」
「うるさいぞ、石見っ!」
鼻をすっかり伸ばしながら、結果的に良いように若いフロント係にもて遊ばれて来た同僚の失態を、しつこく揶揄っていたキャプテンが、厳島にとうとう怒鳴られた。逆ギレだ。
ちなみにそのDJ志望は、小柄でクルクルとした天使のような金髪が印象的な、春日甚助(かすが じんすけ)によく似た雰囲気の美少年だった。
叱られた石見はこちらを振り向くと、顔を顰めて見せた。
良好とは程遠いシーズンを過ごし、「正倉院久安(しょうそういん ひさやす)はシュート恐怖症になっている」とまでメディアに書かれ、心機一転、戦う舞台を変えて新しいシーズンにチャレンジするはずだった今年の夏。
一方的なニース側の事情による交渉の決裂は、自分にとっても追い出したいクラブにとっても不慮の事故としか言いようのないものであったが、奮わないシーズンを終え、ラナFCはカテゴリーを降格し、チームのスターは1部のクラブへ引き抜かれ、殺伐としていたサポーター達が、一度は出て行こうとした自分を再び迎え入れる目は、優しいものであるはずがなかった。
「え、石見?!」
インターホン越しに、玄関へ立っている突然の訪問者へ呼びかけると、再び俺のキャプテンとなった人はノホホンとした声でこう言った。
「美味しいフランがあるんだ。一緒に食べようよ」
俺はギョッとして、思わずソファに座った彼女を見る。
…良かった、聞こえていないらしい。
「とりあえず、今開けるから待ってて」
冷や汗を掻きながら玄関へ向かった。
何を考えているんだこの人は?
「よく判ったね、このピソ」
わがキャプテン殿は、有名なお菓子屋の箱でも持って来ているのかと思いきや、なんとクーラーボックスを持参して玄関先に立っていた。どうやらフランは彼お手製のものらしい。
「もう5年もこの街に住んでいるからね。任してよ」
そう言って得意げに笑うと、彼は、2分前まで彼女が座っていたソファにストンと腰を下ろした。
彼女はと言うと、石見が持って来たクーラーボックスを見るなり、「出直すわね」とだけ言って俺の返事も聞かずに帰ってしまった。
…やっぱりインターホン越しの会話は聞こえていたようである。誤解を解くのが大変だ。
「わ〜い、まだ冷たいよ。ねぇ、食べようよ正倉院?」
自分が何をしてくれたのか、まったく感知していなさそうな石見は、無邪気に笑ってクーラーボックスから手作りのフランを、いそいそと取り出している。フランは皿ごと入っていた。
俺はキッチンでコーヒーの準備をすると、ふたたびリビングへ戻って彼に訊いた。
「コレ、どうしたの?」
「甚助が最近凝っているみたいでね、FAXでレシピ送ってもらったんだ。…美味しいよ?」
スプーンでひとさじ掬って口に含む可愛いらしい姿は、とても三十前の男と思えなかった。
俺も恐る恐るよばれてみる。
「…ウマイ」
石見が微笑った。
ふと、俺は何をしているんだと自分の胸に問いかけてしまい、情けなくなる。
「週末、予定開いてる?」
「次はデートのお誘いかい?」
お菓子を作って来てみたり、俺の予定を聞いてみたり…、突然この人にモテる理由はまったく謎だが、この展開で惚れられているのでなければ、あとは何かの罰ゲームしか考えられない。
でもこの人、確か結婚して子供もいたよな……、なら後者か?
俺は探るようにその顔を見つめた。
フランを食べながら、ニコニコと話すその表情からは、何も読み取れない。
「イビサに行こうって話していたんだけど、君はどうかなって思って。…実は一緒に行く約束をしていた甚助がね、ベルデとの交渉で急にフェリアに行かなくちゃならなくなって、どうやら来れそうにないんだよ。もうフェリーのチケットや、ホテルも手配した後だったし、無駄にするのも勿体無いでしょう?」
成る程。俺はその穴埋めってワケね。
…そりゃそうだと思う反面、少々ガッカリする。
しかも春日と来た。彼はレアル・ベルデから熱心なアプローチを受けており、その交渉も今や大詰めだ。
「春日は上手く行きそうだね」
小柄なピボーテは、このラナFCでもスター的な存在であり、昨シーズンの昇格に大きく貢献した選手だった。
俺がニースとの交渉を始めたときから破局に至るまで、ファンの視線はずっと冷たかったというのに、彼の場合は一貫して温かいものだった。おそらく彼は今後ラナFCを離れたとしても、ずっとサポーター達から愛され続ける存在になるのだろう。
「君だってそうでしょ?」
「何だいソレ。嫌味?」
口にした瞬間、俺は自分の失言を恥じたが、構わず石見は続けた。
「俺は上手く行くって信じてるよ、君の”同僚”として」
穏やかなその眼差しは、内なる情熱とその信頼を間違いなく物語っていた。
その美しい微笑みに誘われるように、俺は週末の予定をこの人と共に過ごすことを、この瞬間に決めていた。
彼を見送ったあと、俺は慌しく旅行の準備に取り掛かり始めた。
ネットでイビサについて情報を仕入れ、そこがヨーロッパ屈指の高級リゾート地であることや、かつて70年代はヒッピーの聖地と言われていたこと。
また、今はメジャーなセレブ御用達の島であり、美しい自然とナイトライフという二つの顔を持っている、地上の楽園であること。
さらに6月から9月にかけてのバカンス・シーズン中はというと、世界有数のクラブが集まっているこの小さな島で、毎夜毎夜、嗜好を凝らしたパーティーが開かれ、世界中のクラバー達が集まって来るらしいことなどを知った。
さらに翌日、たまたま電話をかけて来た同僚の東寺勢源(とうじ せいげん)に聞いたところによると、春日が毎年シーズンオフを過ごしているのが、他ならぬこのイビサだったことも判った。
…あいつあんな顔して実はクラバーだったのだろうか? …という疑問はさておいて、彼が得意げな声で興味深い情報を俺に教えてくれた。
「イビサには美しいサンセットやサンライズが見られるビーチがあってね、サンセットに合わせて雰囲気満点な曲をかけてくれることで有名な『Cafe del Mar』ってバーがあるんだ。そこのチルアウトに浸りながら、穏やかな水平線の彼方へ夕日が沈むのを体験したら、一生忘れられない思い出になるらしいぜ」
あとで東寺からは「誰と行くんだ?」と散々冷やかされたけど、俺たちのキャプテンとだとは、とても言えなかった。
その夜俺は、海辺で夕焼けを眺めながらロマンティックな気分に浸っている夢を見た。
夕日はとても美しかったけれど、俺の隣にいたのは彼女ではなく、石見由信 だった。
俺は5分ほど前から松の木の下で、愛しの春日と携帯で話し込んでいる、厳島を見ていた。
「何か言った?」
助手席でロードマップを眺めていた石見が後ろを振り返り、俺は適当に笑って誤魔化した。
てっきり二人旅だと勘違いしていた俺は、集合場所のフェリーポートで石見と一緒に立っている、マイカー持参のスキンヘッドを見てひっくり返りそうになったのだ。
だが、あちらの反応を見ると、どうやらそれはお互い様だったようである。
俺たちはほんの2週間程前まで、共に同じグラウンドでトレーニングをしていたというのに、お互いに、それはぎこちない挨拶を交わしてフェリーに乗り込んだのだった。
厳島の表情はハッキリとこう言っていた。
「なんでコイツが来るんだよ?!」
…この男、春日だけじゃなかったのか?
俺は最初そう思って牽制していたが、どうやら単に歓迎されていなかっただけのようだ。
だがそれを言うなら、こっちだって同じことである。
「こんなんじゃあCafe del Marなんかますます行けねーじゃん…」
俺はいつ抜け出せるとも知れない、斜面に広がった松林とオリーブ畑を見渡し、大きく溜息を吐く。
どこにも海なんて見えやしない。
「Cafe del Marに行きたいの?」
石見が再び振り返って来た。…独り言がはっきりと声に出ていたらしい。
「東寺に聞いたんだ…その、センスのいい店だからって」
「あそこで夕日を眺めたら、すぐに恋に火がついちゃいそうだね」
石見がウィンクしてみせた…俺は戸惑う。
「だったらそういう相手と行かないとマズイよね、やっぱりさ。…石見はさ、誰か一緒に行きたい人とかいるの?」
考えてみれば既婚者の彼にこういう質問も奇妙ではあるのだが、
「う〜ん…どうだろう。それはナイショ」
そう言って意味深に誤魔化す彼が、俺を誘惑しているわけではないと理解するのは、非常に困難な瞬間でもあった。
と、同時に、その言葉は明らかに法的なパートナー以外の誰かがいることを示している内容でもあった。
ソレが彼の妻であるなら、内緒にする必要などないからだ。
そして、そんなことが気になっている己に、俺は自分で動揺してしまい、結局俺が選んだ選択は………、
「そういやさ、この辺ってどんな生き物が住んでいるの?」
…海が近いし、温かいし、奇麗な鳥とか飛んでいたりして…などと、馬鹿らしいぐらいに他愛もない話題への転換だ。
自分の意気地なさに嫌気が差してくる。
「何でもいると思うけど、イビサっていうかバレアレス特有の生物ってことなら、ヘルマンリクガメとかかな…」
「ヘルマンリクガメ?」
突然の話題転換にその顔へ、落胆はおろか怪訝さを浮かべるでもなく、さらりと親切に、それもこの島特有の生物らしいカメの名までもを挙げてみせる、気の利き様。
俺はなんだか、戦いに出ずして大敗を喫した気分だった。
「そう、体長30センチ以上もある、大きなカメだよ」
「へぇ〜、そいつは見てみたいね」
いっそそのカメに乗って日本へ帰りたい気分だった…。
「あとはギリシャリクガメ…名前はギリシャだけど、これもバレアレスにいるよ。ペット用のカメ。それとチビゴミムシ、ミズギワゴミムシ、エウスコルピウス・バレアリクスとかかな…トカゲも多いよ」
最後から2番目はなんだかよく判らなかった。
「エウストラロピテクス…何ソレ?」
まあ正直どうでも良かったのだが。
「……どうして最初期の人類みたいになったのか分からないけど……エウスコルピウス・バレアリクスね。Euscorpidae科のサソリの学名だよ」
「ふうん…学名ねぇ。石見詳しいんだね…」
言ってから…少し考え、そして次の瞬間俺は悲鳴を上げかけた。
「今、サ…ソリとか言った?!」
「そう、サソリ。コモンネームはないみたいだから、見かけてもサソリとしか言いようがないんだけど…オレンジっぽい、透明感のある薄い茶色をしていてね、鋏が大きくて後腹部は細くて…」
石見は呑気に外形の説明なんぞを始めていたが、もはや聞いちゃいなかった。
というか、コモンネームなんてどうでもいい!
「サソリだって?! サソリがいるのかこの島には?」
今度こそ俺が叫ぶと、石見は目をパチクリさせた。
「うん、いるよ。サソリって言っても、3センチ半ぐらいの小さなヤツのことだよ」
大変だ。そんな危険な場所でこんなことをしている場合じゃない…。
「石見、前の窓閉めて」
言いながら同時に、俺は後部席のウィンドウを両方ともスルルンと上げた。サソリが入ってきたらいけない。
「いいけど落ち着いて…そんなに危険な生き物じゃないよ、サソリといっても」
俺の慌て様に少々石見は戸惑っているようだったが、一応ウィンドウは俺の希望通りに閉めてくれた。
「サソリが危険じゃないだって? サソリの尻尾には何が付いている?」
「尻尾じゃない、あれは後腹部って言うんだよ。あの中には内臓が詰まっているから、尻尾と言うと間違いになるんだ…」
石見はなかなかサソリに対して博学だった。
でも、尻尾に内臓が詰まっていようがなかろうが、そんなこと知るもんか。
「いいか石見、先に付いているのは何だ? 毒針だ。毒を持っているんだよサソリってのは!」
「だから落ち着いてって…。確かに毒を持ってはいるけど、この辺りにいるサソリの毒は、たかが知れているんだよ。刺されたぐらいで死にはしない。…アナフィラキシーショックでも起きない限りね」
「でも刺されたら痛いだろう!」
言っててちょっと情けなすぎるセリフだったと、即後悔したが、幸い石見もパニックに陥りかけている俺を宥めるのに必死で、俺の無様さ加減など、微塵も気にかけちゃいないようだった。
…それはそれでショックなのだが。
「そうだね、痛いと思うよ。でもね、それは蜂に刺されても痛いだろう? 同じことだよ。むしろ俺は、ムカデやスズメバチに刺されるほうがよほど危険だと断言するよ」
サソリがムカデやスズメバチより安全だって?!
「そんなこと、あるわけ…」
「あるんだよ。…だから落ち着いて」
石見はいつの間にか俺の手を取っていて、安心させようと両手で固く握り締めていた。
俺は少し間近に近づいていた石見の黒目がちな目に見つめられ、ようやく落ち着きを取り戻した。
「…ゴメン。俺カッコ悪かった?」
石見はクスリと笑った。
「そんなことないよ。…可愛かったってカンジかな」
「十分傷ついた。…でも、今の話は本当かい?」
「全部本当。ここには確かにサソリがいる。…でも小さなヤツだし、毒も弱い。めったに刺さないしね。安心していいレベルだよ」
「だけど、さっき言ったアナフィ…ナントカショックってのが起きると、危険なんだろう?」
「そうだね。アナフィラキシーショックが起きないとは限らないから、100パーセント安全だとは言えない。これは一般に、蜂に刺されたときなどに、起きる可能性のあるアレルギー反応として有名だけど、実はサソリの毒も同じ反応を起こす可能性がある。逆説的に言えば、サソリに刺されて死んだという話は、このアナフィラキシーショックが多分に絡んでいるという可能性もあるんだ。つまり、1度刺されたとしてもそれほど危険なことではない。でも2度目以降にアレルギー反応が起きるかもしれないから、毒の弱い種だからといっても、まったく安全とは言いきれない。ただしアナフィラキシーショックを言うのであれば、体質によっては金属や食物でも起きる反応であり、そちらの方がむしろ一般的なのだから、よってサソリをむやみに恐れる必要はないということになる」
「じゃあ、サソリの毒で死ぬっていうのは、大袈裟な話なのかい」
「それは刺した種類、刺された人の状態、刺された後の処置によるから、一概に言えないことではあるよ。もちろん本当に危険な種類というのはいる。YFT(イエロー・ファットテール)に代表されるアンドロクトヌスや、デス・ストーカーのコモンネームを持つLq(レイウルス・キンケストリアトゥス)などは、非常に強い神経毒を持っており、刺されれば命に関わる重篤な状態に陥る可能性は低くない。死なないまでも、いっそ死なせてくれと思うほどの苦痛が続く。そしてこれらの種に刺された被害者が、子供や老人、病人であれば、死に至っても不思議じゃない。実際こういった種が分布している北アフリカでは、毒ヘビに噛まれるよりも、サソリに刺されて死ぬ被害者のほうが多いぐらいだ。年間でサソリによる死亡事故件数は、世界中で4桁だとも言われているからね。ただし、そのような危険な種類はヨーロッパにはいないよ」
「…そうなのかい? っていうか、サソリはヨーロッパにいるものなのかい?」
それを聞いた石見は笑った。
「サソリはヨーロッパにいる。普通にね。でも危険な種類はいない。…というか、日本にもいるはずだよ」
「何んだって? …でも俺は見たことないよ」
「ヤエヤマサソリとマダラサソリという2種類だけどね。どちらも4、5センチから6、7センチぐらいの中サイズで、小笠原や宮古といった暖かい諸島に分布しているから…、まあ見なくても当たり前かな。ともに毒性は弱い種さ」
「そうだったのか…」
我が母国にまでサソリがいたとはショックな話だった。
「でも、サソリって砂漠に棲んでいるもんだとばかり思っていたよ」
「そういう誤解をしている人は多いね。たぶん猛毒を持っていて死亡事故に繋がるような危険な種が、主に砂漠や乾燥した暑い環境を好むから、そういう印象に繋がるのかも知れないけれど、実はサソリはどこにでもいるんだよ。サソリだからといって、必ずしも乾燥した暑い場所が好きなわけではない。実際ヨーロッパに分布している種類の殆どが、湿気のある場所が好きな種であり、そして中には低温を好む種もいくつかある」
「…聞いてみないと判らないもんだね。ところで、見た目で危険かどうかわかる区別法とかっていうのはないのかい?」
「外見で判断するのは危険だと思うけど……、典型的なのは黄色くて、ハサミが小さく、後腹部の太いサソリは、一般的にアブナイのが多いかな。さっき言ったイエロー・ファットテールやデス・ストーカーなんか、まさにそうだね。体はどちらも、成体で6〜10センチの中型のサソリだけどね」
「黄色くて、ハサミが小さいか…なんかイメージと違うね」
「そして後腹部が太い。ココが大きなポイントだと思うよ。サウス・アフリカン・ファットテールも危険な種だけど、こちらは身体が黒いからね。でも後腹部はやっぱり太い。サソリは後腹部の先に毒を持っているからね…。といっても勿論これにも例外はあって、後腹部の細い猛毒な種がいないというわけじゃないんだけど」
「判んないな。やっぱりなんだか怖いよ…」
「確かにね。でも何度も言うように、そんな危険なヤツはこの辺には分布していない。そして仮にこれらのサソリを見たとしても、騒がなければ大丈夫だよ」
「どうしてだい?」
「サソリは余り目がよくないんだ。外敵の存在は空気の揺れで察知する。だからサソリを見たら静かにしていること」
「難しいよ!」
「…俺もそう思うよ」
と言って、石見は苦笑した。「でも、サソリだって好んで人を刺したいわけじゃない。外敵から身を守ろうとして、または餌を捕らえようとして、生存本能から攻撃をしかけて来るんだ。だから、こちらが危害を加えようとしなければ、サソリは人を刺したりしない。だからサソリを見ても騒がないこと。そして刺されたとしても、やっぱり騒がないこと」
「判った…見ても騒がないように努力するよ。…でも、刺されても騒ぐなっていうのは…?」
騒ぐっていうか、痛くてのた打ち回るだろう、普通…?
「騒げば騒ぐほど、毒が回るよ」
冷静な顔でそんなことを言って、話を締めくくってみせた石見。
サスペンス映画に出てくる毒殺魔のような最後のセリフに、俺は思わず絶句してしまった…。
長々とした「サソリ学講座」を聞き終えて、ふと俺が窓の外を見ると、どうやらこちらも長電話を終えたらしい厳島が、なぜだか物凄い形相で車に突進して来ていた。
なんだ、サソリでも発見したのか?
石見もキョトンとした顔をして彼を見る。
厳島はまっすぐに後部座席のドアの外、…つまりドアを挟んで俺のすぐ隣まで走ってきて、そこに仁王立ちになると、次の瞬間スモークガラスを拳で強く連打し始めた。
よく聞こえないが何か言っているようである。
俺はガラスに耳を近づけて、彼の声を聞いた。
開けやがれ、コノヤロウ…。
俺は言われたとおりにウインドウを下まで下ろす。
「貴様、俺の愛車で石見に何してやがる!」
言うが早いか、厳島の拳は俺のTシャツの襟首を掴みあげ、そのまま頭ごと窓の外に引きずり出された。
「な、何もしてないよ・・・」
「嘘吐け! じゃあなんで、いきなりスモークウィンドウを全部締めたりするんだ」
「それは、サソリがいるっていうから…」
それにスモークなのは、自分が選んだからであって、そんなことを俺に言われても…。
「テキトーなことヌカすな、殺すぞ! 大体お前は、日頃から気に入らねーんだよ! 厳しい状況なのは皆同じだってのに、一人だけブーブー文句ばっかり垂れやがって、協調性はまるでないし、監督や石見に迷惑ばっかりかけてるし」
「わ…悪かったよ……、それは俺も反省してるし、これからは改善に努めるから…」
「貴様の言うことなんざ、信用ならねーんだよ。この旅行にしたってそうだろうが。移籍交渉が上手くいかずに、ヘコんでるお前を心配して、石見が気を遣って誘ってくれたっていうのに、おめーときたら石見をジロジロいやらしい目つきで、舐め回すように見やがって、俺がちょっと目を離した途端コレか。てめえは我侭と下心で成り立っているのかよ!」
そうだったのか…。
俺がこの旅行に誘われたのは、べつに石見が俺に気があるとか、そうことじゃなくて、彼のキャプテンとしての気遣いから、してくれたにすぎないことだったのだ。
手作りフランも、おそらくそういう理由なのだろう…、やり方はちょっと変わってるけど。石見らしいといえば、そんな気がする。
もちろん、それらはそれでありがたいことだし、優しさに感謝はするけど、…現実をはっきり突きつけられたようで、やっぱりショックだった…。
でも、だからと言ってこの言われようは何だ……?
俺はさすがにムカッときた。
そもそも、ホテルの若いフロントクラークにデレデレと鼻の下を伸ばして、こんな松林の中に迷い込んだような色ボケ野郎に、下心がどうのこうのと中傷されるとは、とても心外である。
ここは断固として言い返さなければ。
「アンタにそこまで言われる筋合いはないだろう! そういうアンタこそ何なんだよ一体、下心があるのはソッチじゃないのか? そんなに石見が心配なら、大事にポケットにでも閉まっておけよ! つうか、離せよこの手っ」
俺はギュウギュウ締め付けられる襟首を、なんとか振り解こうともがいた。
「てめえと一緒にすんな。俺は大切な友達が神聖な俺様の車で、オタンコ野郎なんかに襲われるのが我慢ならねえだけだよ!」
すると厳島が、より一層拳を締め上げる。苦しいっつーの!
「オタンコ野郎って言うな! このハゲ!」
「ハゲじゃねぇ、これは剃ってんだっ!」
額に血管を浮き上がらせた厳島が、キスせんばかりに鬼の形相でその顔を接近させてきた……地獄だ。
「いつまでやるつもりなの、二人とも?」
突然、これ以上はないぐらいに冷ややかな声が聞こえてきて、ふと俺たちは我に返った。
見ると、背もたれ越しにこっちを見ていた石見が、かなりウンザリした顔をして目を細めている。
俺はさらにヘコんだ……、ますますのイメージダウンである。
「おっ…なんだソイツ?」
そのとき、厳島が言った。
「え?」
「下。お前の足元…なんかいるぞ」
厳島が顎をしゃくるようにして、車のフロアを見下ろしながら教えてくれる。
俺は襟首を掴まれた体勢のまま、厳島の目線を辿って自分の爪先辺りを見た。
厳島も覗き込むようにして、窓から首を突っ込んでくる。
そして、俺たちの表情は一瞬凍りついた。
「ひっ……」
「サ、…サソリ、…サソリだ〜っ!!!」
厳島は悲鳴をあげて、脱兎のごとく車から逃げ去った。
俺もドアを全開にして外へ飛び出し、彼のあとに続く。
「な、な、…なんであんなのが、俺の車に入り込んでるんだ!」
「だから言ったじゃないか、ここにはサソリがいるからって…」
「バカ言え! よく見ろアイツ」
車から5メートルばかり離れて避難した松の木の下で、厳島と言い合っていた俺は、彼に言われてフロアの上に止まっている生き物を、今一度見直す。
マットの上で死んだようにじっとしている、小さなもの。
そして、先ほど石見が教えてくれた話の内容を、思い返した。
黄色く、ハサミが小さく、後腹部が太い、6〜10センチぐらいのサソリ…。
「イエローナントカ、テール…」
「ああ、YFT(イエロー・ファットテール)か…、もしくはLq(レイウルス・キンケストリアトゥス)あたりだろうな。北アフリカか中東にいるはずの、もっとも危険な種だ」
おお、すごい。俺はハゲの知識をちょっと見なおした。
・・・というか、この辺では常識に近いのだろうか? 海外2年目の俺はまるで知らなかったことばかりだが。
「でもどうして? 石見はそんな危険なサソリは、ヨーロッパには棲んでないって…」
「本来はな。でもペットとして誰かが飼ってるサソリが、逃げ出して野良化することもあるだろうし、ついでに言うと、YFTやLqが棲んでる北アフリカとエスパニア王国ってのは、ありがたことに地中海を挟んですぐにお向かいさんなんだ」
そうか…何かの荷物に付いて運ばれて来ることだってあるよな…って、そんな冷静なこと言ってる場合じゃ…、いや、サソリを見たら冷静にならなくちゃいけないんだっけ?
でも、そんなのやっぱり無理だよ!
車を見ると、何を考えているのやら、石見がシート越しに身を大きく乗り出して、じっとフロアのサソリを観察していた。
「石見、何しているんだよ! 早く車から出て来いよ〜! それは猛毒サソリだよ〜?!」
すると頭が引っ込み、続いて助手席のドアが静かに開いて、ようやく石見が車から出てきた。
そして彼はこちらを振り向くと、冷静にこう言ったのである。
「うるさいよ、アンタたち」
石見はおもむろに、開きっぱなしになっている後部座席へ向かって上半身をかがめると、フロアへ両手を差し伸べた。…俺たちは固唾を呑んでその光景を見守る。
「ア、アイツ……、一体何考えているんだ…」
さすがに厳島の声も上ずっていた。
石見はずるずると、サソリごとフロアマットを車から引きずり出す。
そしてその場でパタパタとはためかせ、ホコリと一緒にサソリも地面へ払い落とした。
黄色く小さな生き物は、カサコソと猛スピードで車の下を通り抜けると、あっというまに道路を横断し、ガードレールの下に広がるオリーブ畑へと消えていく。
俺たちは呆然としながらその様子を終始見届けていた。
石見はマットを元通りにするとこちらを振り向き、これ以上はないぐらいに冷たい顔をして、
「乗らないなら置いていくよ」
と言い放った。
そしてその意志が本当であることを示すかのように、運転席の方へ乗り込んだのだった。
俺と厳島は、慌てて後部座席へ並び収まる。
ビーチは穴場的な場所であったようで、訪れている人も少なく、のんびりとしていていい砂浜だった。
しかしパラソルの下で優雅に寛ぎ、「毒虫の飼育と繁殖マニュアル」なんぞというインパクトの強いタイトルの本を読んでいるキャプテンを見ると、なんとなく遠巻きにしてしまい、結局俺は、どうい
fin.
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