「本当に来ないのか?」
階段を降り切ったところで、もう一度厳島が聞いてきた。
直感でこれが最後の彼からの誘いなのだろうと思った。
彼が泊まっているというシティホテルは、ここから地下鉄駅方向へ徒歩5分。
俺の家は反対側のJR駅から1駅。
流しのタクシーもこの時間は走っている様子がなく、タクシー乗り場へ向かうにしても、結局JR方向へ歩くことになる。
このまま彼と分かれるか、それとも・・・。
「チューファですか? それともホテル?」
立ち止まり、厳島へ背を向けたまま敢えて聞きかえした。
「どっちもだ」
即座に返ってくる答え。
俺は少し躊躇って、僅かにうつむけていた顔を上げると、
「行きませんよ」
背を向けたまま彼に告げた。
「どっちへだ」
「どっちもです」
「石見」
「・・・・・」
振りむかずに待っているほんの数秒が、1分にも2分にも感じられた。
たぶんこの時の俺は、もう一度厳島が誘ってくれば付いていったのだろう。
チューファへも、そしてホテルへも。
だが。
「わかった。じゃあな」
「・・・・・・・」
ふたたび誘ってくる言葉も、肩を引きよせようとする強い手の力も、ましてや奪ってくれる唇の感触も、俺を待ってくれてはいなかった。
「結局、なんにも覚えてないのかよ・・・まったく」
そんなものを期待していた自分が恥ずかしく、なさけなかった。

 

翌日、昼ごろになって俺は、数時間前に携帯へ着信していたメールに気がついた。
同時に電話の着信記録が30分間隔で5件も溜まっていた。
すべて、厳島からのものだった。
気づかず眠り続けていた自分の神経と運命に、俺は絶望した。

「夕べは悪かった。久ぶりにお前と会えた興奮で、俺は舞い上がっていたようだから、許してくれ。今、成田にいる。正午の便でエスパニアへ帰るから来れそうなら来てくれるか? もう一度お前と話がしたい」

3時間近くも前に厳島が寄こしたメールは、俺にそう告げていた。
時間を見るとすでに11時50分・・・間に合うわけがない。
急いで彼へ電話をかけようと思い、着信記録からリダイヤルしたが、すでにあちらの電源が切られていた。
そして前の携帯番号が生きていると言っていた本人の言葉を思い出し、1年以上も発着信をしていなかったその番号を探そうとアドレス帳を開いたところで、携帯がもう一通のメールを受け取る。厳島だ。

「会えそうにないからこれだけ言っておく。夕べ最後に行ったことは撤回だ。俺はお前をあきらめない。お前が拘っている部分は尊重するつもりだが、1年前のようにお前に泣かれるのはもうごめんだ。約束する。今度は何があっても絶対に、お前を突き離したりはしない。だから、絶対に俺の隣に戻って来いよ。いいな?」

息をのんだ。

「覚えてた・・・?」

厳島に手を振り払われ、ショックを受けてタクシーから逃げ出したこと。
マンションの前で立ちつくし、雨に打たれながら泣いていたこと。
そしてひょっとしたら、・・・・・その直前に交わしたほんの一瞬の口づけさえも・・・。
俺はアドレス帳から厳島の前の電話番号を見つけると、急いでダイヤルしたが、それもすでに圏外だった。
時間を見る。正午丁度になっていた。
「本当に・・・どうしてこの人は・・・」
すれ違いだらけだ。
だが、俺の心はもう決まっていた。
やはり厳島には会いに行かない。
但し、今の時点では、ということだ。
感情に流されたままそんなことをしたら、自分が自分でなくなるのは目に見えているからだ。
厳島は理解をしなかったが、お膳立てをされた環境でプレーをするのも、やはり流儀に反する。
それは俺にとって、自信と安定の供給にはならないからだ。
だから今は準備をするとき。
もう一度スタートから歩き出す。

 

 

そしてさらに1年後−−−−。

俺はバスクにあるSDアルメロスでのプレーが評価され、今度こそ本当に会長を連れてきた厳島が見守る目の前で、ラナFCとようやくサインを交わした。
契約完了後に用意された軽い会食の席でのこと。
他愛もない世間話の中で、1年前のラナがプロ経験を持たない俺を、正直なところそれほどまでには評価していなかったという衝撃の事実が発覚した。
厳島は随分と気前のいいことを言っていなかったか?
肝の冷える思いでカヴァのグラスを傾けつつ厳島の席を見ると、トイレに立つといいながら一人で帰る準備をしていた。
「・・・・・・・・・」
冷静に考えればそれは当然の話だろう。
だが、しかし・・・会長に代理人、通訳、俺の代理人、エスパニアや日本のマスコミなどが見守る半公開と言っていい席において、俺は卒倒しそうになる己の精神へ必死に喝を入れながら、平静を保ち続けることで精一杯だった。
厳島の大口は、何もこれが初めてというわけでもあるまいに・・・なんという不覚。
それでも、あのときうっかり恋情なんぞに流されて、彼を追いかけるという愚行をとらなかった自分の冷静さを、心の底から褒めてやりたいと、海鮮パエージャに添えられていた海老をナイフとフォークで黙々と解剖しながら考えていた。
以来、厳島の妄言は話半分に聞くべきだという重大な教訓を、俺は深く心へ刻んだのだった。

 

End



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