「いらっしゃいませ」 fin.
振り返ると、いつのまにか雨が上がっており、開け放した入り口で真人さんが傘立てを片づけていた。
その傍を通り過ぎながら、見知った顔がツカツカとこちらへ歩いてくる。
「あ、進藤先生・・・」
「・・・・っ」
本当はこんにちはと続けるつもりだったが、一瞥された鋭い視線が、君はまだここへ居座っていたのかね、と言いたげだったために、俺は残りの言葉を飲み込んだ。
なんだか妙に、居辛くなって来た気がする。
俺はこの店の常連客だというのに、なぜこんなに肩身が狭いのだろうか。
「やれやれ、またややこしいのが戻って来たな」
そう言って南方氏が、大仰に天を仰ぐ。
「名和君、エスプレッソを」
「はい、ただ今」
扉の硝子を磨いていた真人さんが、元気にカウンターへと戻って行く。
「おい伊織、うちのパティシエを勝手に扱き使ってくれるな」
自分は煙草を吹かしながら、南方氏が進藤先生に言う。
物凄い態度だった。
「客が店員に注文をして、何が悪い」
「そういう仕事はウェイターにさせているんだ・・・。慧生、エスプレッソ運んで来い」
「あ、はい・・・」
指示を受けて、慧生がカウンターの奥へ戻ろうとする。
そこへ。
「慧生、仕事が終わったら荷物を纏めて表で待っていろ。迎えにくる」
「え・・・」
カウンターへ入り掛けていた慧生が足を止めた。
「そのまま俺のマンションへ来るんだ。さっきの話はちゃんと断れ。学費なら俺が出す」
「伊織、何言って・・・」
「俺と譲、どっちがお前の恋人だ?」
「い、伊織・・・一体、何の話してっ・・・!」
ここに来て、ようやく進藤先生が言っていることに気が付いたようだった。
つまりこれは、進藤先生からの同棲の申し出。
ついでに、あしながおじさん化宣言・・・だったが。
まあ、相手は年上で資力のあるお医者様なのだから、それも問題ないのではないだろうか・・・と俺は思う。
少なくとも、南方氏に甘えるよりは、恋人に甘えた方がいいのではないかと。
ただ、南方氏がどう出て来るのかは、気になったが。
慧生は真っ赤な顔をして、南方氏と進藤先生の顔を見比べている。
南方氏はというと、含み笑いをしながら机の端あたりを見ていた・・・というか、笑いを堪えて目を逸らしていたのだろう。
・・・意外だった。
慧生を巡っての三角関係ではないかと心配した俺の推測は、杞憂だったということだろうか。
「慧生、悪いが伊織の言う通りにしてくれるか? 今日は早番だったな。もう上がっていいから、荷物を纏めて伊織のところへ行け」
「オーナー、何言って・・・だって、まだ2時間も早い・・・」
「慧生さっさとしろ。譲、代金はここに置いておくぞ。それと受験料だが、2万円でよかったな」
そう言って、進藤先生は紙幣2枚とエスプレッソ代金をきっちりとテーブルに置いた。
「はいよ。毎度あり」
南方氏が咥え煙草で、躊躇なくそれを受け取っている。
俺にはこの人が何を考えているのか、まるきりわからない。
そしてオーダーしたエスプレッソも飲まずに、進藤先生は店から出て行った。
「ちょっと、伊織待ってよ・・・話はまだ終わって・・・」
慧生が慌ててその後を追いかけてゆく。
結局、その日のうちに慧生は進藤先生のマンションへ引っ越したようだった。