『君に触れる』(上) 泊まって行く気になったか? ほんの1時間ほどまえにそう言って、さんざん煽ってきた男の感触が、そこにまだ生々しく残っている。
浴室を出てバスタオルで身体の水気を拭いつつ、不意に鏡が気になり覗きこむ。曇ったガラスを掌で粗く擦ると、見慣れた面の口唇が、やけに赤く腫れて見えた。
「あのアホが」
ジンジンと熱を持つ口唇を手の甲で抑えながら洗面所を出た。
静まりかえった家屋。伯母夫婦が帰宅しているのかどうかはわからないが、一時を過ぎて閉め切られた奥の寝室を覗くのも気が引けて、そのまま二階の自室へ向かう。
「お、着信」
帰宅後、すぐに充電コネクタを差し込んでいたスマートフォンには、メールが一通届いていた。差し出し人は江藤里子(えとう さとこ)。
別れ際に「メールをする」と宣言していた峰祥一(みね しょういち)からは、そのくせ、今のところ着信がない。異国の地へ旅立ったあの男からも、ずっと未着信だ。
髪を乾かしながら、届いたメッセージを読んでみる。
内容は二限目の数学が休講になったので、みんなで蕎麦屋へ行ったことと、学食のランチにミルクプリンが付いていたこと、そして剣道部に入ろうかどうしようか、迷っているという三点だった。添付にミルクプリンの写真も付いている。
返信ボタンを押そうとして考え直し、通話履歴から電話を架ける。一コール目で相手が出た。
『もしもし、びっくりした!』
聞き慣れた女の子の声が、テンション高めに耳へ届く。
「こっちがびっくりするっつうの。お前はいつも、スマホ手に持って待機でもしてんのか?」
『そんなわけないでしょ、たまたまよ! で、どうしたのよ、こんな時間に』
「いや、只今日報を読み終えましたので」
『何んの話よ!』
「つうか、蕎麦食ったうえに学食で昼飯食ったのか?」
『みんな食べてたわよ。……まさか、メールの返事なのこの電話? 我ながらどうでもいい内容だったんだから、メールで返信してくれたらよかったのに』
どうでもいいという自覚はあったらしい。まあ、そんなメールを連日送り続けてくること自体が、本人の危機的状態を物語っているわけだが。
「いや、そろそろ声が聞きたいんじゃないかなあと、これでも僕ちんとしては、気を利かせてあげたわけなのですが」
七割がたが江藤里子の名前で埋め尽くされている、過去三週間程度のメール履歴を眺めながら俺は言った。その内容の殆どが、本人曰くであるところの、『どうでもいい内容』ばかりだった。
『ば、馬鹿なこと言わないで。誰があんたの声なんて……!』
素直じゃない彼女は、電話の向こうで強がってみせる。言葉は気丈だが、声の動揺までは隠せていない。
「平日でよかったら、デートでもしますか?」
サラリと提案する。
『結構よ』
即レスで拒否られた。わりと傷付く。
「少しぐらい迷ってみせろよ、可愛くねえなあ」
『迷う余地がどこにあるのよ』
「ぐぬぬ、手強い女剣士め」
明快である。