『そんなことより、そっちはどうなのよ。バイト始めたんだっけ?』
 俺は二週間前から『Cappuccino』でホールのバイトをしていること、本日、直江勇人(なおえ はやと)が来たこと、そして帰りに峰の家へ行ったことを、言える範囲で江藤に伝えた。
「『彩』が閉店したこと、お前知ってたか?』
 そして、直江から聞いた話を江藤に振ってみる。
『それってラーメン屋さんだっけ。あたし、結局行かずじまいだったからねえ。そっか、閉まっちゃったのね』
 この点について、どうやら江藤はあまり詳しくはないようだ。考えてみればオープン当時、ちょうど卒アル制作班が活動開始をした時期と重なっていたから、班長だった江藤は機を逸したのかもしれない。
「それじゃあ、あの店の職人のことなんて何も知らないよな」
『どういうこと?』
「通称マサこと、広中正純(ひろなか まさずみ)って名前の、ワイルドで隅には置けないラーメン職人がいるんだが、一緒にストーキングしてみないかと思って」
『するか馬鹿!』
 鼓膜がキーンと反響した。あいかわらず打てば響くような、いい処女である。
「たとえば”麺打ち虎(ヌードル・タイガー)”マサの前歴とか、お前、親父さんから何も聞いてないか?」
 江藤の父親、江藤潔(えとう きよし)、推定四十代後半は、N県警察本部捜査一課長として、責任ある立場に立つ、眉が太く厳めしい、年齢の割に昔気質の気難しい男だ。顔はともかく、竹を割ったような、さっぱりとした性格の江藤は、生真面目なところがこの堅苦しい男とよく似ている。
 一方、中学生にして不純異性交遊の密の味を覚えた、五歳年下の長男、直(すなお)は、本当にこの一家の血筋なのかと疑いたくなるほど放埓だ。
 この年頭、直は七歳年上の女子大生を連れて、我が家へ年始の挨拶にやってきた。彼女が出来たとは聞いていたが、まさか女子大生とは思わず、どこで知り合ったのかと聞いてみれば、西峰寺境内における除夜の鐘の順番待ち中、どちらが先に打つの打たないのと列の前後で譲り合っている間に、二人は意気投合したのだという。その後、話が弾み、大晦日から一睡もせずに元旦の臨海公園駅前商店街でファミレスとゲーセンを渡り歩いた揚句、不意に挨拶回りをしていないことを思い出した直は、夕食時に我が家へやってきた。そしてなぜか、そのまま女もくっついてきたという具合だった。要するに、連れの女は大晦日の深夜に中学生を逆ナンした、ちょっとけしからん見知らぬ他人だったということである。
 ……というか、直は夏休みに初めて彼女が出来たと喜んでいた筈だが、そっちはどうなったのだろうか。まったく、末恐ろしい中一である。
 俺がひっそりと、正月のできごとを回想していると。
『何なのよ、その微妙な二つ名は! っていうか、どうしてお父さんが知ってると思うの?』
 俺の絶妙なネーミングに恥知らずな突っ込みを入れながら、江藤が質問してきた。
 江藤が未だに、自分の弟は童貞だと信じているのだろうと思うと、哀れで仕方がない、優しい俺だ。お前の弟は、深夜にナンパしてきた女子大生と、正月早々ちゃっかりラブホへ雪崩れ込み、大胆にも行きずりの女と同伴で、上がりこんだ余所様のお宅で、原田家随一の常識人であるところの冴子さんがいないのをいいことに、俺と英一さんを相手に酒を片手に猥談していく、豪傑ヤリチン大王だなんて、間違っても口にはできないよ、僕……。
 それにしても。

女子大生「あたし4人でもいいよ」
直「アキおにいちゃん、どうする?」

英一さん「これは、まいったね」


 ってな展開になったらどうしよう……君がよくても、そんなことになったら、俺はこの先、直と気不味いじゃないか! それに英一さんだけは、絶対ダメェッ!
 ……などと、除夜の鐘と共にすっかり捨て忘れていた煩悩様に脳を隅々まで犯されながら(侵されたのではなく、煩悩だけに、犯された……なんちって)、俺はずっと心臓バクバクでした。
 もっとも、御節の紅白蒲鉾を摘まみながら実際にこの耳が聞いたのは。


女子大生「あたし、帰りどうしよう……」(遊び倒してお金がなさそうな財布を覗きながら、上目遣い気味に横目で俺をチラリ)
直「アキお兄ちゃん、1000円貸して」(旧年中に俺の身長を追い越したと自慢していた癖に、わざわざ前屈みになって、こんなときだけ年下アピールをしながら、座卓の向こうから上目遣いに俺をチラリ)
英一さん「…………」(モフモフな猫のヌイグルミを抱いて、10分前に都合よく寝落ち)


「畜生、早く金返せよな」
『は……?』
 煩悩フィルターを濾過して、無意識に口から飛び出した心の声を、慌てて引っ込めると。
「いや、なんでもない。……ひょっとしたら、ヌードル・タイガーがご当地アイドルになってるかも知れないだろう? ラーメンが美味すぎて、腕白な刑事達の間で話題沸騰中かもしれないじゃないか」
『……なんだか知らないけど、相変わらず、あんたの奇天烈な発想には驚かされるわ……。とりあえず、そんなに美味しかったんなら、一度ぐらい行っておきたかったものね』
「俺がヌードル・タイガーを見つけ出してやるから、お前はパンツを見せて引きつけろ。そしたら俺がひっ捕えて、タイガーに麺を打たせてやる」
『強火の深鍋に沈めるわよ』
「鬼畜! やめてぇっ!」
 きっちりと怒らせたところで通話を終える。
 結局のところ、江藤は何も知らないようだった。まあ、もしも親父さんが何かを知っていたとしても、捜査の話を家族にするわけがないから、当然だろう。
 そもそも、広中正純があの男だという証拠など、どこにもない。ただの俺の勘だ。
「ひとまず、請求書だけ送っておこう」
 俺はスマホにエクセルのアプリを立ちあげ、テンプレートの空欄を埋めてから空メールに添付して送信した。10分後、直からの悲鳴が聞こえそうな返事を受信する。
「トイチはやりすぎたか」
 親父へ相談される前に、金額訂正メールを送っておく。

 03
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