「ところで、秋彦はこのあと入るんだろ? 悪いけど出勤したら、これの入れ替えと冷蔵庫のフィルター掃除頼んでいい? 僕は五時あがりなんだけど、戻ったら伝票整理が残ってるから、たぶん時間ないんだ」
慧生がカミジマのバッグを軽く掲げながら言った。
「なんだ、まだ仕事あったのかよ。もしも3番これからだったら、『Marine Hall』に誘おうかと思ったのに」
3番とは、『Cappuccino』の隠語で、食事休憩のことである。オーナー以外の従業員は、買い物ついでに食事を済ませてくることが多いので、慧生もてっきりそうだと思っていた。
『Marine Hall』はクラブだが、従業員のシンさんは実家が喫茶店のため、材料さえあればナポリタンやミックスサンドがでてくることもあるので、軽食ぐらいなら出来ないこともない。
しかし。
「な、何言ってるんだよ! いくらオーナーがここにいないからって、僕を酔わせてどうするつもりだったんだよ!」
突然、可愛らしい顔を真っ赤に染め上げた慧生は、甲高い声をあげてそう叫ぶと、次の瞬間には踵を返し、駅を目指した。
「相変わらず、斜め上な奴だな」
『Cappuccino』のホームページにあるキャンペーン告知で、どうみても間隔ゼロポイントの行間に、無理矢理ねじ込んだリンクの先で、城南オカ研の公式サイトを経由して、アメリカ国防総省の宇宙人生け獲り機密ファイルに飛ばされたと苦情が来たときぐらいに、一足先の予想がつかない……もちろんそのあと、犯人が俺だと発覚してオーナーに怒られたが。
俺のせいではない。好意でリンクを貼ってやったオカ研が、よもやそんなトラップを仕込んでいたと思わなかったのだ。まったく危険な連中である。
ちなみに、オカ研ガールズこと、城南(じょうなん)女子学園高校オカルト研究会出身の山崎雪子(やまざき ゆきこ)や佐伯初音(さえき はつね)は、俺と同い年だが、未だにオカ研ガールズであることに変わりはない。二人は卒業して、城南女子卒業生の大半の進学先である、女子大こと泰陽(たいよう)女子学院大学へ入学したが、引き続きオカ研の拠点である『FLOWERS』臨海公園駅前店へ集まっては、現会長の小森(こもり)みくとともに、鋭意活動を継続しているらしい。卒業生が名誉寮長を務めていたり、本当に無茶苦茶な学校である。
駅へ向かって歩き始めた慧生の稚い背中を見送ったところで、こちらも『Marine Hall』へ行こうかと、階段に視線を向けたところ。
「おわっ、てめえ何だよっ……!」
背後で誰かに、無礼なリアクションを発する慧生の声が耳を捉えた。振り返り、俺は絶句する。
「おっと、大丈夫かい? ……・やあ」
最初の言葉は、前方不注意でぶつかってきたらしい、慧生に対するもので、後半は俺に視線を留めて、笑顔とともに放った挨拶だ。
「…………」
俺は言葉を失ったままだった。
「ごめんね。これで全部かな?」
ぶつかったときにバッグから零れたらしい、リボンやラッピング用紙を、足元から拾い集めながらも、男は頻繁に目をこちらへ向けた。あからさまな視線に、俺は表情が強張るのを止められない。
「いや、こっちこそ悪かった。ありがとうな、おっさん。……秋彦」
「ああ」
俺が短く応答すると、渡されたグッズをカミジマのバッグへ戻しつつ、慧生が擦り寄ってくる。
「おっさんだけどワイルドないい男じゃん。知りあい?」
ロクなことを考えていない小声で訊かれた。
「まあな」
正直に答える。
「なるほどね。……デカイ彼氏の次はイケメン彼氏かと思ったら、チョイ悪オヤジ狙いかよ」
揶揄うように、細く尖った制服の肘を脇腹へ入れられる。どうやら待ち合わせと思われたようだった。
「……んなわけねえだろ」
「まあまあ。黙っててやるけどさ……あとで聞かせろよ。っと、マジで時間ヤバイ……んじゃな」
「何をだっつうの。……お前、気をつけて帰れよ」
「秋彦もサボんなよ」
今度こそ慧生が、駅へ向かって小走りに去って行った。
「可愛らしい子だね。友達?」
男に訊かれる。
「まあ……バイト仲間です」
「そう。秋彦君はまだ時間あるの?」
「えっと……」
その声でふたたび名前を呼ばれて、背中がゾワリと怖気立つのがわかった。こういう感覚を、本能的な恐怖心、あるいは生理的嫌悪感と言いかえると適当なのかもしれない。要するに、合理的な説明のつかない不快さということだ。
だが、考える。
ここへ足を運んだ本来の目的を思い出せば、この男と対話することが、もっとも早い解決方法だ。本人と鉢合わせる局面は計算外だったものの、考えてみれば彼の職場であった場所に来たのだから、その可能性は充分ありうることだ。
男を見る。
以前に『彩』で会った時には、俺と同じぐらいだと思ったが、こうして真正面に立たれると僅かに彼の方が背が高そうだ。加えて、日焼けした浅黒い肌に鍛えあげた、厚みのある肩や胸。上腕など俺より一回りも太い。そのせいか、至近距離で対峙する彼から、俺は無視できない圧迫感を味わった。平年より暖かいとはいえ、まだ四月下旬なのに、早くも半袖Tシャツ一枚で出歩いているところを見ると、本人も鍛えた肉体に自信があるのだろう。
彼に面影はまったくない。あの男はもっと色白で痩せており、一見優しい目をしていた。全然違う筈なのに、なぜか俺は『彼』だと思う……。
記憶の底に沈みこんでいた面影よりも、印象的でややきつい眼差しを、俺は無意識にじっと覗きこんだ。男が苦笑して、視線を逸らす。
「そう、見つめられると……勘違いしそうだな」
俯き加減に呟き、微笑を湛えた鳶色の瞳が、もう一度俺を捉えた。
「あ、すいません」
「いや。……時間あるなら、お茶でもしていく? ちょっとだけ、待ってくれるかい?」
そう言うと、男は色あせたジーンズのポケットから、リング型のキーホルダーに幾つも繋がっている鍵を取り出して、隣のビルとの隙間へ向かった。俺が返事をしないので、時間はあると勝手に解釈されたらしい。
「でも……、ええと、俺は……」
バイトもあるのだから帰るべきだと理屈では分かっていた。だが、俺は迷う。
「これ置いてくるだけだから」
すぐに錠を開ける音が聞こえる。
日頃はビル同士の狭間など気にせず前を通り過ぎていたが、よく見ると隣の建物との間には、幅二メートルほどのアスファルトが向こうの通りまで敷かれており、一歩足を踏み入れた程度の壁面にある鉄の扉が、どうやら『彩』の従業員通用口のようだ。男はそこへ消えたと思うと、ほんの一分程度で再び姿を現す。
「うわ、早いですね……」
「綾さんに頼まれた伝票を置きにきただけだから。じゃあ、カフェにでも行く? それとも、ちょっと早いけどご飯食べようか?」
「あの、実は俺……『Marine Hall』でもいいですか?」
悩み、しかしすぐに考え直して、俺は自分から男を誘ってみた。
「この下のクラブだね。もちろん」
そして先に階段を降りて行く。俺の後ろから、二、三段空けて、広中正純(ひろなか まさずみ)が付いてきた。
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