午後五時五分。定刻より一時間近く早いにも拘わらず既にオープンしていた『Marine Hall』には、平日でも、既にテーブル席の半分ほどが埋まっていた。
俺の様に授業を終えた大学生のグループや、定時に仕事を終えた近辺のOL達が、遊びに来たり、愚痴を零してストレスを発散したりするために、立ち寄っている感じだった。それにしたって、この時間にOLがいるのは、早すぎると思うが。
今のところ知った顔の常連客は一人もおらず、そのせいかカウンターは殆ど空いている。カウンターの内側で一人だけ働いているスタッフも、知らない顔だ。
俺が把握している限りにおいて、『Marine Hall』の従業員は、マスターのトモさんと、公私にわたる彼のパートナーであるシンさんのイメージが強いが、年末年始などの繁忙期に限り、三人目の従業員がアルバイトとして入っている時期もある。新歓コンパがあるこのシーズン、おそらくカウンターでカクテルを作っている大学生ぐらいのあの彼も、そういう短期アルバイトなのだろうと理解した。当てが外れたと考える俺。
「お待たせ。コーラでよかったかな?」
目の前に濃い色の炭酸飲料で満たしたグラスを差し出された。ドリンクを運んできてくれた広中は、透明な液体が入ったグラスをもう片方の手に持ったまま、自分もテーブル越しの席に腰をおろす。
「どうも」
よく冷えて水滴の浮いたガラスの容器を、俺は手前に引き寄せた。予め差してある赤いストローに口をつけ、一口含む。甘すぎない味は、そう悪くなかったが、炭酸飲料が来るとは思っていなかった。だからといって、彼の奢りなのにお茶の方がよかったとも今更言えない。ソフトドリンクとしか言わなかったのは俺だ。
「秋彦君は何歳だっけ? ……ああ、煙草いいかな?」
テーブルにグラスを置いた広中が、ジーンズの後ろポケットからひしゃげたパッケージを取り出しながら訊いてくる。ミネラルウォーターかと思ったグラスの中身は、よく見ると炭酸の泡が蠢いていた。ジントニックだろうか。だとすればカットライムを入れ忘れている。
「ここは禁煙どころか分煙ですらないですから、どうぞお構いなく」
「そう? じゃあ、遠慮なく」
広中は薄いグリーンのソフトケースから短めの煙草を1本取り出し、それを机の上に立ててトントンと叩いてから口に咥えた。よく見ると、フィルターが付いていない。パッケージの英語名称は金色の蝙蝠という意味である。周りにあまり喫煙者がいない俺でも知っている、レトロで安いイメージのある銘柄だ。突然無職に追い込まれたから、煙草のランクを下げたのだろうか。いっそ止めればいいのに、などと言うのは、喫煙者に通用しない暴論なのだろう。
「十八歳ですよ」
質問に対し、俺は自分の年齢を正直に答える。
「ということは、大学生になったのかな? 前に店で見たときは、たしか高校の制服を着ていたけど」
「ええ、泰文です」
「へえ」
そう言って広中は静かに煙草を吸いこみながら、目を細めて宙を見た。視線の延長線上は、俺の背後のように見える。
「広中さんは、先輩になるんでしたっけ……」
なるべくさりげなさを装って、こちらからも質問を仕掛ける。
英一さんとの会話を思い出していた。
十三年前、母が殺害された事件に絡んで、英一さんに糾弾された江藤警視は、容疑不十分で釈放された霜月勤(しもつき つとむ)を、部下の刑事に張り込ませた。当時彼が担当したドラッグパーティー事件で、逮捕された学生達が泰文の学生であり、霜月と同じ大学だったのだ。
その後ドラッグ事件は捜査本部が警視庁に移され、刑事の張り込み捜査は続行不可能となった。
「誰にそんなことを聞いたんだい?」
肯定でも否定でもない切り返しに、俺は一瞬、言葉が詰まる。
「なんとなく……勘違いかもしれません」
いつのまにか握りしめていたテーブル上の拳に気付き、俺は少し指を開いた。そのとたん、掌に感じるかすかな冷気。平年よりも暖かい気温のため、まだ四月だというのに、早くも店内には冷房が入っているらしいと、妙なことに気が付く。
「そうかい。……確かに僕は、一応、君の先輩にあたるらしい。もっとも、在籍期間を証明できるかは疑問だけどね」
「どういう意味ですか?」
「いろいろあってね、二年で除籍になった。従って履歴書も高校までしか書けないし、大学のことなんて殆ど人に話したことはない。……さて、一体君がどこで泰文の話を聞いたのか、僕は本当に不思議だね」
俺は英一さんとの会話を、もう一度しっかりと思い出す。
最終的に霜月は、S県の百竜ヶ岳(ひゃくりゅうがたけ)で遺体となって発見された。そして彼は、当時S県に住んでいたのだ。だとすれば、なるほど大学は休学か、退学しているのが普通だ。広中の、今の話と一致する。
「すいません、よく覚えてなくて……ええと、広中さんは三十歳ぐらいですか?」
「どうだろうね……」
そう言いつつ、煙草を入れていた側と反対のポケットを探ると、広中は黒革の財布を取り出した。折り畳み式の入れ物を軽く開き、ポケットから一枚のカードを取り出すと、テーブル越しに平たいプラスティックを滑らせてくる。運転免許証だった。軽く驚いて、その身分証明書を手に取り、まじまじと眺める。
氏名は間違いなく本人のもの。次に確認したのが生年月日である。思っていたより、遥かに年上だった。
「ええと……これって、本当に……」
「偽造と思うなら一緒に警察に行ってもいい」
返された言葉にドキリとする。
「いや、そういうわけじゃ……」
思わず本人の顔を見ると、口元を押さえながらクツクツと笑っていた。
「そんな顔をされると、僕の方が困ってしまう。……いや、よく疑われるんだ。有難いことに、随分若く見られるからね。正真正銘、僕は今年の六月で四十代へ突入する。いやだねえ、四十路だなんて、ぐっと年をとってしまう気分だ」
そういうと、手の内からすっと免許証を抜き取られた。
現在三十九歳ということは、十三年前の広中は二十六歳。二年で大学を除籍になったのなら、ストレートに入学していたとすると、とっくに社会人だったことになる。だが、何か理由があったとして、あまり考えられない事だが、ずっと浪人していたり、あるいは、一旦社会に出てから大学へ入る人だっているのだから、一概に大学生の二十六歳がいないと決めつけることはできないだろう……。
そうじゃない。
英一さんはきっぱりと、十三年前の霜月が二十歳だったと言っていたし、江藤警視からの報告書にもそのような基本情報は書いていた筈だ。だとすると、やはり広中と霜月は別人なのだろうか。
……ふと、思い出す。
07
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